清和源氏

G132:土岐光衡  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 国房 ― 土岐光衡 ― 土岐頼貞 G133:土岐頼貞

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土岐頼貞 土岐頼遠

 土岐氏は美濃を地盤とする有力御家人で、鎌倉幕府から重んじられ北条氏とも縁を結んでいた。母が北条氏であったことから、頼貞は若年時は鎌倉で過ごし、そこで禅宗の高僧たちに帰依し、特に夢窓疎石と親交を結んだ。夢窓疎石は美濃国に永保寺を開いている。騎射をよくし、また優れた歌人で『新千載集』などに和歌が残っている。
 正中元年(1324年)、土岐氏の一族(土岐頼員など)が後醍醐天皇の最初の討幕計画(正中の変)に関与し、六波羅探題に察知されて多治見国長ら一派は追討を受け、土岐氏惣領の頼貞も幕府から関与を疑われている。『太平記』では頼貞は六波羅探題の兵を相手に奮戦して自害することになっているが、頼貞は存命で、その後の戦乱で活躍して美濃守護となっているので、『太平記』の記述には混乱がある。
 元弘3年(1333年)後醍醐天皇の詔を受けた頼貞は討幕の挙兵をして、足利尊氏の軍に加わった。後醍醐天皇の親政では美濃守護に任じられた。以後、二百年、美濃の守護は土岐氏が継承する。
 失政が続いた建武新政府に対して足利尊氏が挙兵すると、頼貞とその嫡男の頼遠はこれに従い南朝との戦いで数々の戦功をあげた。
 土岐氏は美濃一帯に一族の支流を配して「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成し、幕府軍を支える戦力となっていた。頼貞は室町幕府内でも重きを置いた。
 頼貞は禅宗に深く帰依し、美濃国内に数々の寺院を開基させたことでも知られる。

 父と共に足利尊氏に仕えて各地を転戦した勇将で「婆娑羅大名」として知られる。建武3年(1336年)の多々良浜の戦いでは菊池武敏、同年の京都での新田義貞、暦応元年(1338年)の北畠顕家との美濃国青野原の戦い、さらに新田義貞の弟・脇屋義助など多くの南朝側の武将と戦い奮戦した。『太平記』によれば青野原の戦いでは北畠顕家の奥州勢の50万騎とも言われた大軍(50万という数は無論誇張であろうが、関東北部や鎌倉で大勝を繰り返した軍であり、相応の兵力に膨れ上がっていたことは推定できる)を相手に幕府軍が総崩れになる中で、頼遠は精兵1000騎を率いて鬼神のごとく奮戦したが、防戦には失敗し、一時頼遠も行方不明となった。しかしながらも、この際の北畠軍の疲弊は大きく、後の進路転換、敗北の原因になったとされ、頼遠も高く評価され、その武名はさらに響き渡ることになる。
 暦応2年(1339年)、父の死により家督を継いで惣領となり、美濃守護に就任する。その後も各地を転戦して武功を挙げたが、あまりに挙げすぎた武功をいいことに奢り高ぶることも少なくなく、康永元年(1342年)9月、笠懸の帰りに行き会った光厳上皇の牛車に対して、酒に酔っている勢いに任せて牛車を蹴倒す(矢を射たとも)という狼藉行為を行なってしまう。これを知った足利直義は激怒して頼遠逮捕を命じる。頼遠は一度は美濃に戻って謀反を計画するものの失敗、夢窓疎石のいる臨川寺に逃れるものの捕らえられ、同年12月に頼遠は京都六条河原にて斬首されてしまった。
 夢窓疎石の言によれば、頼遠は周囲からその軍才を認められており、ゆえに処刑される直前まで助命嘆願の声が上がり続けていたという。本来なら断絶するはずの土岐氏が存続を許され、その家督は甥の土岐頼康に継承された。 

土岐頼明 三沢頼兼

 父と共に初めは鎌倉幕府の執権北条得宗家、および六波羅探題に仕えていた。後に後醍醐天皇に呼応して、足利尊氏に仕えて各地を転戦した。
 興国3年/康永元年12月1日(1342年12月29日)に、美濃守護であった兄・頼遠が、光厳上皇に狼藉を働いたことに激怒した足利直義に捕らわれて、京都六条河原で処刑されると、その後を継いだ甥の頼康を補佐しながら、北朝方の高師直に従って転戦した。
正平3年/貞和4年(1348年)に、河内国の四条畷で、南朝方の楠木正行と戦って(四条畷の戦い)、戦死を遂げた。

 一族の頼員(舟木頼春),多治見国長,足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝と俊基の招聘に応じて、1324年に入京した。
 『太平記』巻一「頼員回忠事」によれば、頼兼らは三条堀川の宿所で、公家の尹師賢,四条隆資,洞院実世,平成輔,伊達優雅,法眼玄基も交えて無礼講による終夜の酒に酔っていたが、頼員がうかつにその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行らによって夜襲を受けた。
 頼兼はこの急襲の声に驚いて慌て騒いで、無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転により鎧・兜を身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。頼兼は国長とともに少数の手勢を率いて六波羅の山本時綱の軍勢と奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、自害して果てた(正中の変)。