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土岐頼貞 | 土岐頼遠 |
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土岐氏は美濃を地盤とする有力御家人で、鎌倉幕府から重んじられ北条氏とも縁を結んでいた。母が北条氏であったことから、頼貞は若年時は鎌倉で過ごし、そこで禅宗の高僧たちに帰依し、特に夢窓疎石と親交を結んだ。夢窓疎石は美濃国に永保寺を開いている。騎射をよくし、また優れた歌人で『新千載集』などに和歌が残っている。 |
父と共に足利尊氏に仕えて各地を転戦した勇将で「婆娑羅大名」として知られる。建武3年(1336年)の多々良浜の戦いでは菊池武敏、同年の京都での新田義貞、暦応元年(1338年)の北畠顕家との美濃国青野原の戦い、さらに新田義貞の弟・脇屋義助など多くの南朝側の武将と戦い奮戦した。『太平記』によれば青野原の戦いでは北畠顕家の奥州勢の50万騎とも言われた大軍(50万という数は無論誇張であろうが、関東北部や鎌倉で大勝を繰り返した軍であり、相応の兵力に膨れ上がっていたことは推定できる)を相手に幕府軍が総崩れになる中で、頼遠は精兵1000騎を率いて鬼神のごとく奮戦したが、防戦には失敗し、一時頼遠も行方不明となった。しかしながらも、この際の北畠軍の疲弊は大きく、後の進路転換、敗北の原因になったとされ、頼遠も高く評価され、その武名はさらに響き渡ることになる。 |
土岐頼明 | 三沢頼兼 |
父と共に初めは鎌倉幕府の執権北条得宗家、および六波羅探題に仕えていた。後に後醍醐天皇に呼応して、足利尊氏に仕えて各地を転戦した。 |
一族の頼員(舟木頼春),多治見国長,足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝と俊基の招聘に応じて、1324年に入京した。 |