G133:土岐頼貞 | 源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 国房 ― 土岐光衡 ― 土岐頼貞 ― 土岐頼清 | G134:土岐頼清 |
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土岐頼康 | 土岐康行 |
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父頼清の陣没後、叔父・頼遠とともに若くして各地を転戦して南朝方と戦った。康永元年(1342年)、土岐氏惣領の頼遠が光厳上皇に狼藉を働いたため処刑されると、惣領を継ぎ美濃守護となった。本拠を革手城に移し、美濃の豪族斎藤氏を服従させた。土岐氏一族が南朝と結んで反乱を起こすが、これを打ち破って美濃を平定している。 頼康は「桔梗一揆」と呼ばれる土岐氏一族の強力な武士団を有しており、観応の擾乱では将軍・足利尊氏を常に支持して武功があり、その功績によって観応2年(1352年)に尾張守護職を与えられた。文和2年(1353年)、南朝方に攻められた足利義詮が後光厳天皇を奉じて京都を脱出すると領国の揖斐郡小島に迎えている。文和3年(1354年)に評定衆に列する。延文3年(1358年)に尊氏が死去すると出家して善忠と号した。 |
伯父である土岐頼康の養嗣子となる。土岐氏は頼康の功績によって美濃・尾張・伊勢の三ヶ国の守護大名、幕府の宿老となっていたが、将軍権力の強化を目指していて守護勢力の弱体化を試みていた3代将軍・足利義満は、嘉慶元年/元中4年(1387年)に頼康が死去すると、康行の弟の満貞と密かに接触して彼に尾張の守護職を与え、さらには土岐氏の家督を継がせようと画策することで康行を挑発した。 嘉慶3年/元中6年(1389年)4月に義満が康行討伐を下すと、明徳元年/元中7年(1390年)閏3月に康行は美濃で挙兵して敗れる。戦後の処罰として尾張と伊勢の二ヶ国を取り上げられ、美濃守護は叔父で土岐西池田氏の頼忠が任命された。 |
土岐持頼 | 土岐政康 |
応永24年(1417年)に父より家督を譲られて伊勢守護に任じられたが、間もなく将軍・足利義持の弟の義嗣による将軍打倒計画が発覚。康政,持頼も義嗣に関与したとの疑いを持たれ、伊勢守護職を取り上げられてしまう。さらに応永31年(1424年)、今度は上皇の女官と密通したとの疑いにより逐電した。しかし、後に罪を許されて伊勢守護に再任されている。持頼の復帰には三宝院満済らの後押しがあったとされる。 応永35年(1428年)、義持が死去。これに乗じて伊勢国司の北畠満雅が南朝の後胤・小倉宮聖承を擁して乱を起こす。持頼は新たに6代将軍となった義持の弟の義教に命じられて伊勢に下向し、一度は敗退するが、山名氏や長野氏らの助力もあり満雅らを討ち取ることに成功した。しかし、その後も伊勢国内では北畠氏による反乱が度々起こっており、持頼はその対応に腐心している。 |
父の死後に世保家を継承、応仁の乱では東軍に所属、応仁元年(1467年)3月に伊勢に乱入、西軍に参加した伊勢守護・一色義直に代わって東軍から伊勢守護に補任された。しかし、伊勢国司北畠教具と対立、文明3年(1471年)に北伊勢の国人、長野氏の長野政高と共に北上してきた北畠軍と戦ったが、同年に伊勢守護を解任、北畠教具の子の北畠政郷に交替させられた。文明5年(1473年)に室町幕府に出仕、美濃で西軍の惣領家の土岐成頼と斎藤妙椿と戦ったが、以後の消息は不明。 |
東陽英朝 | 土岐頼雄 |
大徳寺53世住持、妙心寺13世住持を務め、妙心寺四派の一つである聖沢派の開祖となった。 土岐持頼の次男として美濃国加茂郡に生まれる。5歳の時に天竜寺の玉岫英種について出家し、後に師について南禅寺へ参禅するようになる。30歳を過ぎてその元を離れ龍安寺初代住職の義天玄承に師事するようになった。長禄年間、川辺町下麻生の臨川寺を開く。義天玄承は東陽英朝が龍安寺に参じるようになって数年で没し、その後は雪江宗深を師とした。1478年(文明10年)に印可を受けた後、雪江宗深が住持をしていた丹波国竜興寺の住持となる。1481年(文明13年)に大徳寺の住持となるが、翌年には竜興寺へ戻っている。その後、尾張国瑞泉寺の住持となり、さらに妙心寺へ移って1489年(長享3年)から3年間同寺の住職となる。妙心寺の住持となっていた延徳年間、岐阜県瑞浪市陶町の林昌寺を開いていた。 |
兄・頼康が美濃国西部厚見郡に革手城を築き拠点にすると同じ西部の揖斐郡に拠り、弟で西部の池田郡に居住していた頼忠と共に西美濃における土岐氏の基盤を固めた。天授6年/康暦2年(1380年)に死去。子・康行は兄の養子となり後に本家の家督を継承した。 |
島田満貞 | 木和田安逵 |
島田満貞とも記される。官位は伊予守もしくは伊豆守。 元中4年/嘉慶元年(1387年)、土岐氏の惣領であった叔父・頼康が没して兄の康行が養嗣子として家督を継ぐと、将軍・足利義満が有力守護大名へと成長していた土岐氏の打倒に乗り出し、守護職を康行には美濃と伊勢、満貞には尾張と分けて与え一族内での分裂を画策した。その後、満貞は元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱の際、内野の合戦において卑怯な行動をとったとして守護職を罷免され、以降尾張の守護職が土岐氏の手から離れることとなった。 | 菅沼氏の祖と伝わるが、記録によっては駿河大森氏の祖とも伝わる。 土岐満貞の子として生まれる。兄には島田満名(島田氏の祖)がいる。父の満貞は明徳2年/元中8年(1391年)の明徳の乱の際に内野の合戦において卑怯な行動をとったとして守護職を罷免されてしまい、以降、尾張守護職は土岐氏の手から離れることになったという。その後の消息は不明であるが三河に逃れて、子孫は菅沼を名乗ったという。 |
菅沼定直 | 久々利頼興 |
木和田安逵の子として生まれる。足利義教の命によって、三河国の住人・菅沼俊治を討ち、その所領を与えられて菅沼を称したという。 |
もとは斎藤道三の猶子で烏峰城主である斎藤正義の配下であったが、天文17年(1548年)2月、正義を謀殺すると東美濃の実力者として台頭した。 道三とその子・義龍の争いでは義龍に付き、その死後は龍興に仕えるが、織田信長の美濃侵攻が激しくなると永禄8年(1565年)に織田方に降った。以後、烏峰城改め金山城に入った森可成の与力となり、可成が志賀の陣で戦死した後は、その家督を継いだ長可に仕えた。天正10年(1582年)に長可が信濃国川中島に領替えとなった後は、森成利の家臣扱いであったようである。 |