清和源氏

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土岐頼康 土岐康行

 父頼清の陣没後、叔父・頼遠とともに若くして各地を転戦して南朝方と戦った。康永元年(1342年)、土岐氏惣領の頼遠が光厳上皇に狼藉を働いたため処刑されると、惣領を継ぎ美濃守護となった。本拠を革手城に移し、美濃の豪族斎藤氏を服従させた。土岐氏一族が南朝と結んで反乱を起こすが、これを打ち破って美濃を平定している。 頼康は「桔梗一揆」と呼ばれる土岐氏一族の強力な武士団を有しており、観応の擾乱では将軍・足利尊氏を常に支持して武功があり、その功績によって観応2年(1352年)に尾張守護職を与えられた。文和2年(1353年)、南朝方に攻められた足利義詮が後光厳天皇を奉じて京都を脱出すると領国の揖斐郡小島に迎えている。文和3年(1354年)に評定衆に列する。延文3年(1358年)に尊氏が死去すると出家して善忠と号した。
 延文5年(1360年)に伊勢守護職を与えられ、頼康は東海道の要衝3ヶ国の守護を兼ねて土岐氏の最盛期を築き上げた。文武に優れ勅撰和歌集に多くの和歌を残している。
 頼康は尊氏以来の宿老として幕政に参与して重きをなした。3代将軍・義満のとき管領・細川頼之と対立して勝手に本国へ帰国し、義満から追討令を受けるが謝罪して許され政権に復帰している。康暦元年(1379年)の康暦の政変において斯波義将と共謀し、義満に進言して政敵の細川頼之を追放させた。

 伯父である土岐頼康の養嗣子となる。土岐氏は頼康の功績によって美濃・尾張・伊勢の三ヶ国の守護大名、幕府の宿老となっていたが、将軍権力の強化を目指していて守護勢力の弱体化を試みていた3代将軍・足利義満は、嘉慶元年/元中4年(1387年)に頼康が死去すると、康行の弟の満貞と密かに接触して彼に尾張の守護職を与え、さらには土岐氏の家督を継がせようと画策することで康行を挑発した。 嘉慶3年/元中6年(1389年)4月に義満が康行討伐を下すと、明徳元年/元中7年(1390年)閏3月に康行は美濃で挙兵して敗れる。戦後の処罰として尾張と伊勢の二ヶ国を取り上げられ、美濃守護は叔父で土岐西池田氏の頼忠が任命された。
 翌明徳2年(1391年)10月に許されて伊勢守護に再任され、同年起こった明徳の乱では戦功を挙げている。以降、康行の子孫は断続的ではあるが伊勢守護職を保持し、この系統を土岐世保氏という。
 応永11年(1404年)10月6日に死去(応永13年(1406年)9月14日死去とも)。

土岐持頼 土岐政康

 応永24年(1417年)に父より家督を譲られて伊勢守護に任じられたが、間もなく将軍・足利義持の弟の義嗣による将軍打倒計画が発覚。康政,持頼も義嗣に関与したとの疑いを持たれ、伊勢守護職を取り上げられてしまう。さらに応永31年(1424年)、今度は上皇の女官と密通したとの疑いにより逐電した。しかし、後に罪を許されて伊勢守護に再任されている。持頼の復帰には三宝院満済らの後押しがあったとされる。 応永35年(1428年)、義持が死去。これに乗じて伊勢国司の北畠満雅が南朝の後胤・小倉宮聖承を擁して乱を起こす。持頼は新たに6代将軍となった義持の弟の義教に命じられて伊勢に下向し、一度は敗退するが、山名氏や長野氏らの助力もあり満雅らを討ち取ることに成功した。しかし、その後も伊勢国内では北畠氏による反乱が度々起こっており、持頼はその対応に腐心している。
 持頼はその後も将軍義教の側に仕えたが、徐々に疎んじられ対立するようになり、永享12年(1440年)に義教は持頼と一色義貫に大和の越智氏討伐を下命した。持頼は大和に出陣しているところを、義教の密命を受けた長野満藤や草生大和,中尾民部,雲林院らその一族などに三輪にて攻撃を受け包囲されて、又従兄弟の島田満清(島田満貞の孫)らとともに自害して果てた。
 元々、土岐氏は土岐康行が一族の惣領として美濃・尾張・伊勢の守護を兼任していたが、幕府の挑発によって乱を起こして敗れた(土岐康行の乱)。その時、幕府方として康行と戦ったのがその叔父の土岐頼忠(西池田家)であり、以降の美濃守護はこの系統に移っている。土岐氏は美濃の西池田家と伊勢の世保家に分裂することとなった。土岐氏の一族や国人衆の多くは、頼忠系の西池田家より康行系の世保家を土岐氏の嫡流と見なしていたようである。

 父の死後に世保家を継承、応仁の乱では東軍に所属、応仁元年(1467年)3月に伊勢に乱入、西軍に参加した伊勢守護・一色義直に代わって東軍から伊勢守護に補任された。しかし、伊勢国司北畠教具と対立、文明3年(1471年)に北伊勢の国人、長野氏の長野政高と共に北上してきた北畠軍と戦ったが、同年に伊勢守護を解任、北畠教具の子の北畠政郷に交替させられた。文明5年(1473年)に室町幕府に出仕、美濃で西軍の惣領家の土岐成頼と斎藤妙椿と戦ったが、以後の消息は不明。
東陽英朝 土岐頼雄

 大徳寺53世住持、妙心寺13世住持を務め、妙心寺四派の一つである聖沢派の開祖となった。 土岐持頼の次男として美濃国加茂郡に生まれる。5歳の時に天竜寺の玉岫英種について出家し、後に師について南禅寺へ参禅するようになる。30歳を過ぎてその元を離れ龍安寺初代住職の義天玄承に師事するようになった。長禄年間、川辺町下麻生の臨川寺を開く。義天玄承は東陽英朝が龍安寺に参じるようになって数年で没し、その後は雪江宗深を師とした。1478年(文明10年)に印可を受けた後、雪江宗深が住持をしていた丹波国竜興寺の住持となる。1481年(文明13年)に大徳寺の住持となるが、翌年には竜興寺へ戻っている。その後、尾張国瑞泉寺の住持となり、さらに妙心寺へ移って1489年(長享3年)から3年間同寺の住職となる。妙心寺の住持となっていた延徳年間、岐阜県瑞浪市陶町の林昌寺を開いていた。
 妙心寺の住職を辞した後、1492年(明応元年)に美濃国加茂郡の不二庵へ移り住む。後に不二庵は改築、改称されて大仙寺となった。その後、岐阜定慧寺の開山となったほか、各務原少林寺の再興に携わった。1504年(永正元年)、少林寺にて遷化。塔所も同寺にある。1653年(承応2年)、大道真源禅師と諡された。
 法嗣に天蔭徳樹や大雅耑匡などがいる。天蔭徳樹は妙心寺聖沢院を創建し、東陽英朝を勧請開祖とした。

 兄・頼康が美濃国西部厚見郡に革手城を築き拠点にすると同じ西部の揖斐郡に拠り、弟で西部の池田郡に居住していた頼忠と共に西美濃における土岐氏の基盤を固めた。天授6年/康暦2年(1380年)に死去。子・康行は兄の養子となり後に本家の家督を継承した。
島田満貞 木和田安逵
 島田満貞とも記される。官位は伊予守もしくは伊豆守。 元中4年/嘉慶元年(1387年)、土岐氏の惣領であった叔父・頼康が没して兄の康行が養嗣子として家督を継ぐと、将軍・足利義満が有力守護大名へと成長していた土岐氏の打倒に乗り出し、守護職を康行には美濃と伊勢、満貞には尾張と分けて与え一族内での分裂を画策した。その後、満貞は元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱の際、内野の合戦において卑怯な行動をとったとして守護職を罷免され、以降尾張の守護職が土岐氏の手から離れることとなった。  菅沼氏の祖と伝わるが、記録によっては駿河大森氏の祖とも伝わる。 土岐満貞の子として生まれる。兄には島田満名(島田氏の祖)がいる。父の満貞は明徳2年/元中8年(1391年)の明徳の乱の際に内野の合戦において卑怯な行動をとったとして守護職を罷免されてしまい、以降、尾張守護職は土岐氏の手から離れることになったという。その後の消息は不明であるが三河に逃れて、子孫は菅沼を名乗ったという。
菅沼定直 久々利頼興

 木和田安逵の子として生まれる。足利義教の命によって、三河国の住人・菅沼俊治を討ち、その所領を与えられて菅沼を称したという。
 しかし、資料によっては別説が述べられている。植村光兼(土岐頼忠の子)の次男として生まれ、三河国野田の城主・富永信資に養われ、その後、菅沼忠通の婿養子となり菅沼を称したとされる。

 もとは斎藤道三の猶子で烏峰城主である斎藤正義の配下であったが、天文17年(1548年)2月、正義を謀殺すると東美濃の実力者として台頭した。 道三とその子・義龍の争いでは義龍に付き、その死後は龍興に仕えるが、織田信長の美濃侵攻が激しくなると永禄8年(1565年)に織田方に降った。以後、烏峰城改め金山城に入った森可成の与力となり、可成が志賀の陣で戦死した後は、その家督を継いだ長可に仕えた。天正10年(1582年)に長可が信濃国川中島に領替えとなった後は、森成利の家臣扱いであったようである。
 本能寺の変で成利が横死すると、信濃から金山城に戻った長可に対して遠山友忠ら東美濃の諸氏と共に反旗を翻したものの劣勢を強いられ、居城の久々利城も危うい情勢に追い込まれた。しかし、森方は度重なる戦いで疲弊しており、長可は弟・仙千代を人質として久々利城に送り和睦を求め、頼興はこれを承けた。
 天正11年(1583年)1月、頼興は飛騨国への出兵についての協議を兼ねた新年祝賀行事に出席するため、仙千代と共に長可の居城である金山城を訪れ夕刻まで接待を受けた。その帰路、金山城の杉が洞口で森家家臣・加木屋正則に襲われ「斎藤大納言の仇である」として殺された。加木屋はかつて頼興が謀殺した斎藤正義の遺児・加木屋正次の子であった。この頼興暗殺は長可の策謀であり、人質として送られた仙千代も本人ではなく、その夜のうちに長可は久々利城を攻め落としている。頼興の二人の子は落城前に退出したが、その後の消息は知れず、久々利氏は絶えた。
 なお、本能寺の変で信長に殉じた小姓の中には一族であろう久々利亀がいる。