G139:菅沼資長 | 源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 土岐光衡 ― 土岐頼貞 ― 土岐頼忠 ― 菅沼資長 ― 菅沼定盈 | G139:菅沼定盈 | ● |
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菅沼定盈 | 菅沼定仍 |
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野田菅沼氏3代目。弘治2年(1556年)、父の戦死により家督を継ぎ、今川氏への忠勤に励む。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い以降は松平氏に帰属。従兄弟の西郷清員と共に、家康への忠節を尽くし続けた。 |
天正4年(1576年)、菅沼定盈の次男として三河野田で生まれる。父の隠居で家督を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは駿河興国寺城や駿府城,美濃岐阜城の守備を担当し、その功績により慶長6年(1601年)6月、1万石加増の2万石で伊勢長島藩主として移封された。 |
菅沼定昭 | 菅沼定実 |
寛永2年(1625年)、丹波亀山藩の初代藩主(当時は近江膳所藩主)・菅沼定芳の長男として膳所で生まれる。嫡出の姉2人とは違い、庶出であった。寛永17年(1640年)、従五位下・左近将監に叙位・任官される。 |
交代寄合の初代新城領主。母は父の継室・三次一任の養女(一任の孫娘)。丹波亀山では、総石4万1100石から2000石を分給されていたが、異母弟・定賞へも1100石を分与されている。 |
菅沼定志 | |
交代寄合・菅沼定邦の婿養子となり、文政4年(1821年)家督を継ぐ(三河国新城領主)。文政12年(1829年)大番頭となり、天保12年(1841年)6月24日より駿府城代,西丸側衆,本丸側衆,大坂城在番(東大番頭)などを歴任した。大坂城在番在職時の天保8年(1837年)2月に大塩平八郎の乱が起こり、同職(玉造口在番)の遠藤胤統とともにこれを鎮圧した。安政2年(1855年)に家督を次男の盈富に譲り隠居ののち、江戸深川に住し、宗徧流の茶事を嗜み、五世四方庵を継ぎ遊鴎または蓬葎齋と号した。また絵も嗜み、隺州とも号した。慶応2年(1866年)に没した。 |