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菅沼定継 | 菅沼定忠 |
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田峯菅沼氏4代目。大膳亮。父から家督を継いだ時期は定かではない。 |
定継死後、田峯は一族の菅沼定勝,定清父子に占領されるが、定直が居城し、兄・定継の遺児・定忠を補佐した。 |
菅沼定直 | 菅沼定利 |
田峯菅沼氏を含む三河国の大半の国衆は、戦国前期に侵攻してきていた駿河今川氏に従っていた。しかし弘治元年(1555年)になると主に東三河の国衆で「三河忩劇」とよばれる内紛・叛乱の兆しが見え始め、田峯菅沼氏でも当主・菅沼定継が今川氏に敵対した。しかし定直をはじめ弟の定氏,定仙,被官の林左京進が今川方に付き、定継方を攻撃し成敗した。戦後、定直らは田峯菅沼氏の次期当主に定継の子・小法師(後の定忠)を擁立し、今川義元から認可された。
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田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも定吉の叔父・定直の子とも言われている。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与すると、これに反対して田峯から離反し、支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えた。菅沼定吉は天正3年(1575年)の長篠の戦い後に菅沼定直らの離反と徳川氏の侵攻を受けて武節城を奪われて信濃国伊那郡に落ち延び、翌年には同郡を拠点として反撃して菅沼定直らを殺害したとされる。天正10年(1582年)に織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺された(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも)ため、田峯菅沼氏の後継に任命された。なお、定利の官途名は小大膳もしくは大膳亮であるが、これは田峯菅沼氏宗家の当主代々の官途名であり、同氏の後継者であることを明らかにしたとみられている。 |
菅沼定則 | 菅沼定村 |
野田菅沼氏初代。不春と号す。家伝「菅沼家譜」に因れば、永正2年11月1日(1505年12月6日)、設楽郡の支配者であった富永氏から後嗣を望まれたという。総領家田峯菅沼氏を継ぐ長兄・定広は論外、普通なら次兄へ話が持ちかけられるところだが、次兄は健康上に不安があり、のちに仏門に入っている。そこで、3男の竹千代に御鉢が回ってきたのである。ただ、富永の家中では反対派が頑なに拒んだ。理由は家格が下になるはずの菅沼側が、菅沼姓のまま入嗣することを要求したという。田峯城を発した竹千代の一行ではあったものの、反対派によって富永居館への入館は絶望的。当面の間は、賛同派の邸内に新邸を構えて間借りする。その上、その邸内に専用の井戸まで新たに掘って、情勢好転の時節到来を期待した。ところが、説得工作は進展も無いまま越年。竹千代が富永居館へ入館できたのは2月11日(1506年3月15日)であった。 |
野田菅沼氏2代目。天文13年(1544年)1月、父の隠居により家督を継ぐ。同年4月、領内に母の菩提寺・能満寺を建立する。 |
菅沼正貞 | 菅沼忠久 |
長篠菅沼氏6代目当主。長篠城を築いた菅沼元成の玄孫。三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の支族で、長篠城を有する長篠菅沼氏に生まれた。永禄12年(1569年)1月に父・菅沼貞景が討死。若年で家督を継いだため、大叔父・菅沼満直の後見を受ける。 |
都田菅沼氏3代目。通称、次郎右衛門尉。奥三河に版図を拡げる菅沼一族の中で唯一、遠江引佐郡都田に地盤を持っていた。当初は、菅沼氏との連携を大事にしていたようだが、より身近な井伊谷に居を構える井伊氏の被官になったと見られている。 |