生年は『明智軍記』の享禄元年(1528年)説、『綿孝輯録』の大永6年(1526年)説、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)説など複数ある。 場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。 青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕えた。なお、『永禄六年諸役人附』に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、足軽大将として13代将軍・足利義輝に仕えていたとする説もある。また、今川氏,毛利氏には仕える寸前までいったとされる。『信長公記』は光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。 足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触を持った。朝倉義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられることから、義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされることから、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったともいわれる。 信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となった。各地を転戦して、元亀2年(1571年)頃、比叡山焼き討ちで武功を上げ近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城とした。天正3年(1575年)に、惟任の姓、従五位下、日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称した。 城主となった光秀は、石山本願寺(高屋城の戦い・天王寺の戦い)や信長に背いた荒木村重と松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定した。この功績によって、これまでの近江国滋賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領し、丹波亀山城,横山城,周山城を築城した。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも光秀が織田家にあって重要な地位にあったことが伺える。 また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝,大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。これら与力の所領を合わせると240万石ほどになる。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の閲兵式である「京都御馬揃え」の運営を任された。 天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君・信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。 光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整える間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を天王山の麓山崎で迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は高松からの中国大返しで疲弊しており高山右近や中川清秀等、現地で合体した諸勢の活躍に期待する他はなかった。 当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は最早少なく、兵数差を覆すことができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途中、小栗栖で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わる。ただしその死には異説もあり、竹槍で深手を負った光秀は股肱の家臣・溝尾茂朝に首を打たせ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる。また谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は三体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されていることから、はたしてそれが本当に光秀のものであったか否かについては古くから疑問が持たれている。
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永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子の間に3女(4女説もある。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として越前国で生まれる。 天正6年(1578年)、15歳の時に織田信長のすすめによって細川忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が生まれた。 しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、光秀が珠の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家・清原枝賢の娘)らの侍女達だった。 幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。 天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。この年に興秋が生まれている。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていった。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年2月11日(1587年3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士にいろいろな質問をした。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。 教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia:ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。しかし、後に秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女の鼻を削ぎ、追い出した。幸いにもガラシャは発覚を免れたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。 関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年7月16日(1600年8月24日)、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えが一般的なため)。辞世の歌として、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と詠んでいる。 この後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。 なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは世子・細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してしまった(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
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