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土岐頼忠 | 土岐頼益 |
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土岐惣領家の美濃,伊勢守護の土岐康行が将軍・足利義満の挑発に乗って挙兵すると、頼忠は幕府軍に味方して次男の頼益とともに甥にあたる康行の討伐に向かった。明徳元年(1390年)に康行は敗れて没落(土岐康行の乱)。 |
康応元年(1389年)の土岐康行の乱後、美濃守護に頼忠が任じられ、以後、土岐西池田家が主流となる。 |
土岐持益 | 土岐成頼 |
父・頼益の死により9歳で惣領を継ぐ。正長元年(1428年)に伊勢で南朝の北畠満雅が蜂起すると持益は伊勢に出兵して鎮圧にあたっている。 |
美濃守護・土岐持益の嫡男・持兼が早世したため、持益は孫の亀寿丸を後継ぎにしようとしたが、守護代の斎藤利永がこれに反対して一色氏の成頼を擁立して抗争となり、康正2年(1467年)に持益は隠居させられ成頼が守護となり、実権は守護代の斎藤氏が掌握していた。 |
土岐政房 | 土岐頼武 |
舞の名手で、応仁の乱を逃れて美濃の革手城に滞在していた一条兼良は日記で美伊法師(政房の幼名)の舞いを褒めている。 |
土岐政房は家督を次男である頼芸に継がせようと考え、小守護代・長井長弘が頼芸側に加わった。一方、守護代である斎藤利良は頼武を推したため、美濃国内は頼武派と頼芸派に分かれ、永正14年(1517年)12月27日、遂に両派の合戦となった。この合戦は頼武派が勝利したが、頼芸派は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。 |
土岐頼純 | 土岐頼芸 |
土岐頼武の嫡男で母は朝倉貞景の3女。妻は斎藤道三の娘。父・頼武の没後も大桑城に拠って叔父である守護・土岐頼芸及び斎藤道三と対峙する。しかし、味方であった近江の六角定頼が天文5年(1536年)に頼芸方に転じ、更に守護代・斎藤利茂も定頼の仲介で頼芸方になるなど次第に劣勢に立たされる。 |
側室は深芳野(のちに斎藤道三の側室)。土岐氏当主で兄の土岐頼武及び子の土岐頼純の嫡流と対立、美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、天文5年(1536年)、勅許により、美濃守に遷任して正式に守護の座に就いた。 |
土岐頼次 | 斉藤頼元 |
兄・土岐頼栄が父によって廃嫡されたため、土岐氏の後継者に選ばれた。父とともに斎藤道三によって美濃を追われた後は大和の松永久秀を頼った。その後、豊臣秀吉に馬廻として仕え、1587年に河内古市郡内に500石を与えられた。さらに、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に属し、本領を安堵されて旗本になった。慶長19年(1614年)11月10日伏見において死去、70歳。 |
父・頼芸が追放されたとき、幼少だったために斎藤氏の扶助を受けることを許された。斎藤氏滅亡後は各地を転々とし、武田氏,豊臣氏そして徳川氏に仕えて、土岐氏の家名を存続した。豊臣秀吉から河内古市郡内に500石を与えられた。関ヶ原の合戦後は徳川家康に仕えて、美濃国内に知行を与えられたという。隠居後は道庵と称した。『寛政重修諸家譜』によれば、慶長13年(1608年)10月19日死去、年齢不詳とする。土岐家は息子・持益が相続した。なお、頼元は斉藤姓を称し、持益が土岐姓に戻したという。 |
土岐元頼 | 小里光忠 |
父の成頼は、庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代の斎藤利藤,小守護代の石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦)。 |
天文3年(1534年)、光忠は小里城を築城した。また、明知城の明知遠山氏と結び、遠山景行の娘を嫡子・光次の嫁に迎えた。 |
和田光明 | 西郷頼音 |
元亀元年(1572年)12月、兄の小里光次は織田信長に従って武田家の秋山虎繁と戦い、舅の明知城主・遠山景行らともども上村合戦で討死したため、光明が家督を継ぐ。 |
南北朝時代、細川清氏と対立し南朝方に帰服したこともあった仁木義長がその後三河国の守護になったため、土岐頼忠の子・頼音が三河守護代に任じられた。これが三河西郷氏の始まりとされている。なお、西郷氏については菊池氏の後裔とする説もある。
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