村上源氏

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本間国季 本間久季

 徳川旗本本間氏の祖になったとされる。
 建武元年には後醍醐天皇に属し、遠江国高部郷惣領職のことを安堵する綸旨を受け、南北朝の内乱には足利尊氏に加担したとされる。

 鎌倉公方足利基氏に属して鎌倉に在住し旧領小野田村を還付された。小山義政の乱には、公方・氏満から軍功を励むよう書を与えられたという。以後、鎌倉府に仕え、上杉禅秀の乱,永享の乱と続く関東の戦乱のなかで、やがて、駿河守護の今川氏に属するようになったと考えられる。
本間宗季 本間政季

 本間宗季は座王城の防衛や天方城攻めに活躍し、今川氏親に軍忠状を提出し証判を受けている。永禄3年(1560)8月には長季が石野郷内小野田村を今川氏真によって安堵されている。
 遠江本間氏の系図は数種類のものが伝わり、それぞれ異同が少なくない。その一本によれば、本間五郎兵衛には男子が無かったため、丸尾和泉守の子・八郎三郎を婿養子として家督を譲り、永禄11年正月の掛川城攻めのとき天王山で戦死したという。おそらく、このとき本間一族では今川氏に節を通す者と徳川家康に属する者とに分裂したようだ。元亀3年3月、八郎三郎は家康から小野田村を安堵されていることから、徳川氏に属して戦功を挙げたのであろう。
 その後、八郎三郎は武田勝頼に転じたようで、天正2年(1574)小野田村百貫文を安堵され、弟の丸尾義清とともに高天神城攻めで討死した。そのあとは弟の氏重が継ぎ、八郎三郎と全く同じ所領を勝頼から安堵され、高天神城が陥落したのち、勝頼に従って甲州へ行き天正2年秋に死去したという。その子の八右衛門はのちに徳川氏に仕え、八右衛門の兄弟は武士を捨て江戸時代は大庄屋をつとめた。

 政季は掛川城の攻防のとき、一旦、氏真に応じたが、のちに徳川家康に従い、天正2年に家康から小野田村を安堵された。政季が小野田村を安堵された日は、八郎三郎が武田勝頼から小野田村を安堵された日の翌日のことであった。このことは、一族でありながら袂を分かったことで、同じ土地をそれぞれが属した大名から安堵されたことを示し、当時における恩賞・安堵のありかたが垣間見え興味深いものである。
 政季の子範安・孫の季重は徳川氏に仕え、季重は寛永2年(1625)、徳川秀忠から相模国高座郡一宮に三百石の知行を与えられた。その後、累進を重ねて千石、さらに延宝五年(1677)には千八百石となり、子孫は徳川旗本として続いた。