村上源氏

G802:源 顕定  源 顕定 ― 本間義忠 G803:本間義忠

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本間義忠 本間泰直
 相模国海老名氏の一族。一般的には村上源氏とされ、源有兼が小野盛兼の子季兼を養子に迎え、その孫義忠(能忠)の時、本間氏を称したという。しかし、これは相模守を務めた有兼に結び付けようとした潤色と思われる。おそらく、当初から武蔵七党のひとつ横山党に属し武蔵小野郷を本貫とした族であろう。  永徳元年(1381)に本間泰直に宛てられた幕府管領斯波義将の施行状は、将軍→管領を経て本間氏に所領の沙汰付が行われ、その所領が「地頭職」と明記されているのである。本間氏を地頭職とする文書は他にも二通が伝えられており、さらに、御判御教書と称される文書が本間氏に与えられている。御判御教書とは、将軍が発給する格式の高い文書で、軍勢催促や感状、武士・公家・寺社に対する所領安堵などに使われたものである。本間氏がこの文書を持っているということは、将軍による安堵を受け、室町幕府御家人としての地位を確実にしていたことがうかがえる
本間重連 本間泰宣
 鎌倉中期の佐渡守護代であった本間六郎左衛門重連の邸は相模国依智にあって、年に一度佐渡に渡っていたようである。僧日蓮が佐渡へ配流された際、これを預ったのも重連であった。そのことは日蓮遺文によって明らかだが、重連については日蓮遺文以外には史料がなく、本間系図の記すところも一様ではない。  本間泰宣は、系図の注記によれば「兵衛太郎、山城兵衛尉、左衛門佐、国府地頭、正慶元年六月十日死」とみえる。記録では延慶元年(1308)本間兵衛太郎が飛鳥井雅敦より蹴鞠の鴨沓を許されたこと、元亨三年(1323)北条高時より本間兵衛太郎と本間九郎入道に佐渡国十社神事に関する教書が下されたことなどがみられる。そして、正中二年(1325)に佐渡へ流された日野資朝を預った本間山城入道も泰宣であったろう。また『太平記』に見える元弘三年(1333)の鎌倉極楽寺坂の戦いで奮戦し自刃した本間山城左衛門も泰宣のことといわれるが、系図の没年月日と違っていることから実際のところは不明である。