<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI09:池田奉忠  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 古麻呂 ― 池田維実 ― 池田奉永 ― 池田奉忠 ― 池田教正 KI10:池田教正

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池田信正 池田長正

 別名に勝俊,久宗。摂津国池田城主。畿内の細川氏の家督争いで細川澄元に与した父・貞正が永正5年(1508年)に細川高国に池田城を攻められ自殺したため、信正は逃亡。永正16年(1519年)の澄元の挙兵に呼応、摂津下田中城を奪って恩賞に豊島郡を与えられた。その後の動向は明らかでないが、享禄4年(1531年)に高国と連合を組んだ浦上村宗に池田城を攻め落とされたり、天文2年(1533年)の享禄・天文の乱で一向一揆に敗れて淡路国に逃れた細川晴元が池田城に入城していることから晴元方の部将として活動していると見られる。天文10年(1540年)、木沢長政が晴元に反旗を翻した時は、晴元の部将・三好長慶に従軍している(太平寺の戦い)。
 天文15年(1546年)、細川氏綱と遊佐長教が挙兵すると氏綱に帰参したが、翌年に三好長慶に攻められ降伏。しかし、晴元に許されず天文17年(1548年)5月6日に切腹した。子の長正は晴元の措置に怒り長慶に従い、長慶も晴元の側近である同族の三好政長の関与を疑い晴元に詰問、晴元に拒絶されると氏綱,長教側に寝返って反旗を翻し、翌天文18年(1549年)の江口の戦いに繋がっていく。 

 摂津池田氏は摂津国の国人。天文17年(1548年)、父・信正は細川晴元に背いて敗れ切腹に追い込まれたため、長正が家督を継いだ。一時は北摂地域を支配するまで勢力を拡大したが、三好長慶と戦い敗れ、三好氏に属した。三好氏の家臣となって以後は安見宗房らと戦ったという。
 永禄6年(1563年)に死去。後を一族の池田勝正が継承したものの、池田氏の家臣団は内部分裂を起こし二派に分かれ抗争することになった。 

池田勝正 池田知正

 永禄6年(1563年)、前当主の池田長正の死去により池田惣領家の家督を継ぐ。この時、勝正は重臣・池田四人衆のうち池田山城守基好と池田勘右衛門尉正村の2人を殺害している。勝正は長正の子とされるが、家中は勝正支持でまとまっていなかったものと推測される。
 この頃の池田氏は三好氏に属していたが、永禄7年(1564年)に三好長慶が死去し三好氏が分裂すると、勝正は三好三人衆と組んで松永久秀と戦った(東大寺大仏殿の戦いなど)。
 永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛してきた際も三人衆に味方して池田城に籠城し抵抗したが、城下町を焼かれ降伏。この後、摂津が和田惟政,伊丹忠親,池田勝正に与えられるとの噂が流れ、また義昭は彼らを召し出し、良い関係を築くようにと命じている。この三人を摂津の「三守護」(『続応仁後記』)とする見方があるが、勝正,忠親の従来の支配を認めた上で、新たに摂津に入れた惟政によって摂津全体を統括させる体制であったと考えられる。
 永禄12年(1569年)1月、三人衆による本圀寺の変では手勢を率いて義昭の救援に駆けつけ、細川藤孝や三好義継,伊丹忠親とともに三人衆と戦った。同年8月には、信長配下の武将や忠親と但馬へ進軍し此隅山城を落城させ、同月、播磨国人・別所安治とともに播磨置塩城や御着城を降伏させる。10月には義昭配下の摂津勢である和田惟政,伊丹忠親,勝正の三者で浦上宗景を攻めた。元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦いでは明智光秀や木下秀吉とともに殿軍をつとめ、信長を無事に逃がす功を挙げた。この戦いで勝正は当初3,000の兵を率いており、織田軍全体で30,000人の軍勢だったことを考えると殿軍の主力だった可能性がある。
 しかし、同年6月19日、三人衆方に寝返った家中の「池田二十一人衆」によって池田四人衆の池田豊後守,周防守が殺害され、勝正は大坂へ落ち延びた。この勝正の追放は池田姓を名乗る荒木村重(勝正の娘を娶っていたとも伝わる)が池田重成(知正か)と中川清秀を誘って起きたといい、池田家当主には勝正の弟・知正が擁立されたとされる。この事件の直後の26日、勝正は三好義継に伴われて上洛した。
 同年8月、勝正は野田・福島攻めに従軍し(野田城・福島城の戦い)]、翌元亀2年(1571年)8月には原田城に入り、細川藤孝とともに池田方面を討ちまわった。同月の荒木村重率いる池田勢と和田惟政の戦いでは和田惟政に味方した(白井河原の戦い)。池田氏一族は元亀年間に摂州池田から小早川隆景を頼って安芸国沼田庄真良村へ移住、小早川家の家臣となった。当主(勝正?)はまもなく没し、息子の池田太郎左衛門が跡を継いだ。慶長3年(1598年)小早川家を退去して、沼田庄本市村に移住、帰農して、三宝屋本市村庄屋→割庄屋→本郷年寄にまでなった。明治初期に子孫は京都に移住したという。
 その後、天正2年(1574年)4月に大坂本願寺が反信長の兵を動かしているが、そこに「池田カツマサ」が加担した旨の記述が『永禄以来年代記』にある。『池田氏家譜集成』所収の系図によると、没年は天正6年(1578年)であるという。 

 父・長正の死後、家督は兄の勝正が継いだが、元亀元年(1570年)、知正は三好三人衆と通じて織田信長を裏切り、池田家家臣の荒木村重と共に内紛を起こし当主の勝正を追放。家督を相続し摂津池田城主となり、元亀2年(1571年)には和田惟政を敗死させた(白井河原の戦い)。以後、摂津国の領主として一時威を奮うが、天正元年(1573年)頃から室町幕府15代将軍・足利義昭と信長の仲が険悪となると、知正は細川藤孝の説得を振り切って義昭方に属したために没落。池田家は織田氏に寝返った荒木村重に乗っ取られ、知正は摂津国を追放されるが、後に信長に降伏し村重の家臣となる。一時期、荒木村重の配下では荒木久左衛門と称されていた。
 天正6年(1578年)10月、三木合戦で織田家臣の羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)。村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となると、天正7年(1579年)9月2日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。11月19日、織田信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という講和を荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わし、尼崎へ逃れた村重に代わって有岡城の城守をしていた久左衛門は開城を決意、津田信澄(信長の甥)が接収部隊を率いて本丸に入城し有岡城の戦いは終結した。ところが前述の講和条件を受け、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったものの村重は受け入れず、有岡城に引き返しづらくなり窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔した(淡路へ逃れたという)。 そのため信長は村重や久左衛門らへの見せしめのため、人質の処刑を命じた。12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この中には知正(久左衛門)の妻子も含まれていた。
 淡路へ逃れて以後の消息は分かっていないが、天正10年(1582年)の本能寺の変によって信長が横死すると、その後継者となった羽柴秀吉に仕えて摂津豊島郡2,700石を与えられ、小牧・長久手の戦いや九州征伐に従軍した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し本戦に参戦。この功により、戦後に2300石を加増され、5,000石となった。
 慶長9年(1604年)死去。その跡を甥で養子の三九郎が継いだが、翌慶長10年(1605年)に死去した。代わって三九郎の父で知正の弟・光重が家督を継いだ。これにより摂津池田氏嫡流は光重の系統が継ぐこととなった。なお、庶流については池田氏没落後に多くが各地に散らばって帰農しており、現在まで存続している家が多くある。 

池田光重 池田恒利

 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。別名は重信。
 文禄元年(1592年)、朝鮮の役にて名護屋城に兵50名で休戦まで在陣した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小山評定から、兄の知正と共に東軍に属した。子の三九郎は兄の養子となり、慶長9年(1604年)に知正が死去すると池田家の家督を継いだが、翌慶長10年(1605年)に17歳で早世してしまったため、光重が池田家の家督を継承することとなった。
 慶長14年(1609年)、大広寺に兄と長男の肖像画と釣鐘、10石の寺領を寄進した。また、次男の他紋丸(重長)の無事成長と武運長久を願い摂津国神田村(現:池田市)の八坂神社本殿の再建などをしている。
 慶長18年(1613年)、家臣の関弥八郎が貸金横領を咎められた。翌19年(1614年)、光重は連座する形で所領を没収され、駿河国法命寺に蟄居した。同年、大坂冬の陣では徳川方として有馬豊氏隊に属して参戦した。戦後、重長と共に摂津池田氏再興を嘆願するため江戸に向かうも、志半ばで同地で没した。
 子孫は江戸に留まり、重長,貞長,貞重,興貞,貞彦,貞夫,貞一,貞瑞と続き、貞瑞は明治7年(1874年)後嗣なく没するが、分家していた弟の東作が相続して現在に至る。 

 滝川貞勝の3男(または次男)。池田政秀の婿養子として迎えられた。初め足利義晴に仕えたが、享禄年間に辞して、尾張国に閑居したという。
 一説によると、滝川一益の父である滝川八郎一勝は池田恒利とは兄弟で、恒利は元々滝川九郎範勝と名乗っていた。しかし滝玄蕃允恒元に子供がいないため養子となり滝三四郎恒利と名乗りを改めた。恒元の室が一勝と恒利の姉妹であったからためだが、恒元に実子ができたときに恒利は滝家から退去した。そのため享禄年間(1528~31年)に足利義晴の元を辞して尾張国に閑居した。そこに池田六郎政秀という浪人がいたが後継ぎがいなかったため、恒利はその婿養子として政秀の娘(養徳院)と結婚し、そこから池田と称したという。
 剃髪後は宗傅と号するが長く病床にあり、池田恒興が3歳の天文7年(1538年)3月29日に死去したと伝わるが、没年は天文17年(1548年)という説もある。墓所は岐阜県揖斐郡本郷村(現:池田町)の龍徳寺で、一時所在不明だったが文政4年(1821年)に再発見されて、現在も恒興の墓および稲葉氏一族の墓に隣接して存在する。位牌所は京都妙心寺塔頭盛岳院(現:慈雲院)。
 跡は嫡男の恒興が継ぎ、養徳院はその後に織田信秀の側室となった。また養徳院は滝川一益と森寺秀勝の推挙で信秀の嫡男・吉法師(信長)の乳母となって養育にあたったために、池田家はやがて重用されていくことになる。