永禄6年(1563年)、前当主の池田長正の死去により池田惣領家の家督を継ぐ。この時、勝正は重臣・池田四人衆のうち池田山城守基好と池田勘右衛門尉正村の2人を殺害している。勝正は長正の子とされるが、家中は勝正支持でまとまっていなかったものと推測される。 この頃の池田氏は三好氏に属していたが、永禄7年(1564年)に三好長慶が死去し三好氏が分裂すると、勝正は三好三人衆と組んで松永久秀と戦った(東大寺大仏殿の戦いなど)。 永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛してきた際も三人衆に味方して池田城に籠城し抵抗したが、城下町を焼かれ降伏。この後、摂津が和田惟政,伊丹忠親,池田勝正に与えられるとの噂が流れ、また義昭は彼らを召し出し、良い関係を築くようにと命じている。この三人を摂津の「三守護」(『続応仁後記』)とする見方があるが、勝正,忠親の従来の支配を認めた上で、新たに摂津に入れた惟政によって摂津全体を統括させる体制であったと考えられる。 永禄12年(1569年)1月、三人衆による本圀寺の変では手勢を率いて義昭の救援に駆けつけ、細川藤孝や三好義継,伊丹忠親とともに三人衆と戦った。同年8月には、信長配下の武将や忠親と但馬へ進軍し此隅山城を落城させ、同月、播磨国人・別所安治とともに播磨置塩城や御着城を降伏させる。10月には義昭配下の摂津勢である和田惟政,伊丹忠親,勝正の三者で浦上宗景を攻めた。元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦いでは明智光秀や木下秀吉とともに殿軍をつとめ、信長を無事に逃がす功を挙げた。この戦いで勝正は当初3,000の兵を率いており、織田軍全体で30,000人の軍勢だったことを考えると殿軍の主力だった可能性がある。 しかし、同年6月19日、三人衆方に寝返った家中の「池田二十一人衆」によって池田四人衆の池田豊後守,周防守が殺害され、勝正は大坂へ落ち延びた。この勝正の追放は池田姓を名乗る荒木村重(勝正の娘を娶っていたとも伝わる)が池田重成(知正か)と中川清秀を誘って起きたといい、池田家当主には勝正の弟・知正が擁立されたとされる。この事件の直後の26日、勝正は三好義継に伴われて上洛した。 同年8月、勝正は野田・福島攻めに従軍し(野田城・福島城の戦い)]、翌元亀2年(1571年)8月には原田城に入り、細川藤孝とともに池田方面を討ちまわった。同月の荒木村重率いる池田勢と和田惟政の戦いでは和田惟政に味方した(白井河原の戦い)。池田氏一族は元亀年間に摂州池田から小早川隆景を頼って安芸国沼田庄真良村へ移住、小早川家の家臣となった。当主(勝正?)はまもなく没し、息子の池田太郎左衛門が跡を継いだ。慶長3年(1598年)小早川家を退去して、沼田庄本市村に移住、帰農して、三宝屋本市村庄屋→割庄屋→本郷年寄にまでなった。明治初期に子孫は京都に移住したという。 その後、天正2年(1574年)4月に大坂本願寺が反信長の兵を動かしているが、そこに「池田カツマサ」が加担した旨の記述が『永禄以来年代記』にある。『池田氏家譜集成』所収の系図によると、没年は天正6年(1578年)であるという。
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父・長正の死後、家督は兄の勝正が継いだが、元亀元年(1570年)、知正は三好三人衆と通じて織田信長を裏切り、池田家家臣の荒木村重と共に内紛を起こし当主の勝正を追放。家督を相続し摂津池田城主となり、元亀2年(1571年)には和田惟政を敗死させた(白井河原の戦い)。以後、摂津国の領主として一時威を奮うが、天正元年(1573年)頃から室町幕府15代将軍・足利義昭と信長の仲が険悪となると、知正は細川藤孝の説得を振り切って義昭方に属したために没落。池田家は織田氏に寝返った荒木村重に乗っ取られ、知正は摂津国を追放されるが、後に信長に降伏し村重の家臣となる。一時期、荒木村重の配下では荒木久左衛門と称されていた。 天正6年(1578年)10月、三木合戦で織田家臣の羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)。村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となると、天正7年(1579年)9月2日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。11月19日、織田信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という講和を荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わし、尼崎へ逃れた村重に代わって有岡城の城守をしていた久左衛門は開城を決意、津田信澄(信長の甥)が接収部隊を率いて本丸に入城し有岡城の戦いは終結した。ところが前述の講和条件を受け、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったものの村重は受け入れず、有岡城に引き返しづらくなり窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔した(淡路へ逃れたという)。 そのため信長は村重や久左衛門らへの見せしめのため、人質の処刑を命じた。12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この中には知正(久左衛門)の妻子も含まれていた。 淡路へ逃れて以後の消息は分かっていないが、天正10年(1582年)の本能寺の変によって信長が横死すると、その後継者となった羽柴秀吉に仕えて摂津豊島郡2,700石を与えられ、小牧・長久手の戦いや九州征伐に従軍した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し本戦に参戦。この功により、戦後に2300石を加増され、5,000石となった。 慶長9年(1604年)死去。その跡を甥で養子の三九郎が継いだが、翌慶長10年(1605年)に死去した。代わって三九郎の父で知正の弟・光重が家督を継いだ。これにより摂津池田氏嫡流は光重の系統が継ぐこととなった。なお、庶流については池田氏没落後に多くが各地に散らばって帰農しており、現在まで存続している家が多くある。
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