<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

ZZ05:森寺秀勝  森寺秀勝 ― 池田長政 KI18:池田長政

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池田長政 池田太寅

 天正17年(1589年)、京都聚楽第の池田家屋敷で池田長吉の3男として誕生。慶長11年(1606年)、池田家家臣・森寺忠勝の家督を継いでいた兄の長貞が夭折したため、翌慶長12年(1607年)にその養子となる形で家督を相続した。知行高1万4000石。池田家の筆頭家老に伊木長門忠繁がいたため、藩主の命で通称を長門から下総に改める。後に姓を森寺から池田氏に戻した。
 元和3年(1617年)、主君・池田光政の因幡国・伯耆国への移封に伴い、伯耆黒坂に移る。寛永9年(1632年)、光政の備前国岡山への移封に伴い、備前建部に移り、陣屋(幕府をはばかり御茶屋と称した)を構え代々領したため建部池田家と呼ばれた。
 寛永11年(1634年)6月29日没。家督は長泰(兄・長幸の4男)が養子となって相続した。

 建部池田家(森寺池田家)7代当主。天和2年(1682年)7月2日、岡山藩家老・池田宗春の嫡男として誕生。貞享2年(1685年)、父・長尚の死により4歳で家督相続した。幼少のため、当初は家老の森寺庄右衛門が名代となった。元禄11年(1698年)2月、母・恵明院(日置金子)が死去した。元禄12年(1699年)、刑部と名を改める。元禄13年(1700年)、江戸家老となる。宝永元年(1704年)、日置忠明と共に、江戸藩邸を訪れた伯父の加賀藩家老・今枝直方(忠明の弟で、母・恵明院の兄)と初めて対面する。宝永3年(1706年)、仕置家老となる。
 享保8年(1723年)10月9日没。享年42。家督は母方の従弟・俊清(日置忠明末子)を養子に迎えた。正室・てる(随松院)は寛保3年(1743年)没している。

池田博道 池田博教

 延享5年(1748年)、岡山藩家老・池田俊清の4男として誕生。母は広島藩家老・上田重羽の次女・登和子。初名は清煕。
 嫡男だった兄・勝敬が早世したため、宝暦13年(1763年)に16歳で嫡男となる。明和2年(1765年)4月、父の隠居により家督を継ぐ。天明8年(1788年)、仕置家老となる。寛政8年(1796年)、藩政改革を志す藩主・池田斉政に藩財政悪化の責任を問われ、仕置職を辞職する。
 寛政10年(1798年)、御津郡中田村(後の建部村)の別邸に、家臣・瀧野善左衛門等に命じて、家中子弟の文武修練のため学問所を設置する。成績の優秀なものには加増し、劣るものには禄を減じた。また、指導にあたる教授には、家禄の他に職俸を給した。
 享和3年(1803年)、隠居し嫡男の博教に家督を譲る。文化9年(1812年)8月4日没。墓所は阿光山建部池田家墓所。次男の忠真は正・室仙の実家伊木家に養子入りしている。

 安永元年(1772年)7月21日、岡山藩家老・池田博道の嫡男として備前岡山内山下本邸に誕生。母は岡山藩筆頭家老・伊木忠知の娘の照子。
 天明4年(1784年)10月、火消方助。天明6年(1786年)3月1日、初めて藩主・治政に拝謁する。寛政2年(1790年)2月22日、元服して「博教」と名乗る。寛政7年(1795年)3月12日、火消代番助。享和3年(1803年)8月18日、父・博道が病のため隠居し、家督を相続。岡山藩家老,備前建部1万石の領主となり、家老に任命され、通称を「右膳」と名乗る。同日、火消代番。文化2年(1805年)6月、藩主の命で「隼人」と名乗る。
 文化3年(1806年)8月20日に岡山内山下本邸で急死した。嫡子の弁之進(博忠)が幼いことから、弟(実は庶長子)の方智が中継養子として家督を継いだ。享年35。岡山小橋町國清寺に葬られた。

池田方智 池田博忠

 寛政4年(1792年)2月28日、岡山藩家老・池田博道の嫡男・博教の庶長子として備前岡山内山下本邸に誕生。表向きは祖父・博道の末子とされ「森榮之進」と名乗る。母は側室遠山氏。文化元年(1804年)9月に「池田榮馬方智」と名前を改める。
 文化3年(1806年)8月20日に実父(表向きは兄)で建部池田家当主の博教が急死し、嫡子の弁之進(博忠)が幼いことから、中継養子として11月9日に家督と知行1万石を相続し家老となる。同日、火消代番。
 文化4年(1807年)5月24日、初めて藩主・斉政に拝謁して家督相続の御礼を言上した。文化5年(1808年)8月、火消代番を免じられる。
 文政3年(1820年)2月9日、病により家督を養子の博忠に譲り、西川下邸に隠居した。天保12年(1841年)8月13日、岡山内山下本邸で死去。享年50。岡山小橋町國清寺に葬られた。

 10代当主・池田博教の子として誕生。文化3年(1806年)、父・博教が急死したとき4歳であったため、叔父・池田方智が一時家督した。文政3年(1820年)2月、養父・方智の隠居により家督を継ぎ、岡山藩家老建部1万石の領主となる。学問を好み、歌人としても活躍した。
 天保年間、建部中田の学問所の教員を改選して家中の教育を更に振興した。弘化元年(1844年)8月に仕置家老となる。弘化2年(1845年)、名を刑部と改める。嘉永5年(1852年)12月、幕府より備前児島洲の開墾を賞され、その責任者として時服を賜る。安政元年(1854年)、下屋敷普請を担当した職人の賃金を藩が発行した銀札で支払い、翌日に銀札の切り下げ(安政の札潰れ)を行ったため非難を浴びた。
 安政3年(1856年)8月に隠居して嫡男・博文に家督を譲る。文久2年(1862年)没。享年60。

池田博文

 文政6年(1824年)、岡山藩家老・池田博忠の嫡男として岡山に誕生。初名は忠彦。安政3年(1856年)8月、父・博忠の隠居により家督相続。
 万延元年(1860年)、家臣・石坂堅壮に命じて岡山内山下に学問所を建設し、西達三郎を招いて家臣の教育に当らせた。文久2年(1862年)11月、軍事惣引請となる。慶応2年(1866年)4月、長州藩第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎らが、倉敷代官所と備中浅尾陣屋を襲撃する事件が発生(倉敷浅尾騒動)し追討に当たる。5月、追討の対応について、幕閣や藩内から批判が出たため責任者として隠居蟄居処分となり、家督を養子の博愛に譲る。明治2年(1872年)、岡山藩執政となる。明治3年(1873年)、岡山藩大参事となる。明治8年(1875年)没。
 実子の池田雄太郎は慶応元年(1865年)に誕生。明治36年(1903年)に分家し、明治41年(1908年)没している。