<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI42:紀 貞雄  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 貞雄 ― 瀧川貞勝 KI43:瀧川貞勝

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瀧川一益 瀧川一積

 父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清といわれているが、どのような人物であったかは不明。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。志摩の国人・九鬼嘉隆が織田信長に仕官する際に一益が仲介したこと、婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる説もある。
 大永5年(1525年)に生まれたとされるが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされている。『妙心寺史』では、慈徳院は一益の娘であるとしている。妙心寺56世の九天宗瑞は一益の子である。
 永禄3年(1560年)、北伊勢の桑名は美濃国との境であり、桑名長島の地を得て北畠氏や関氏に対し備えることを一益が信長に進言し、長島城主の服部友貞の資金によって蟹江城を構築したが、やがて友貞を放逐して蟹江城主となった。永禄6年(1563年)には織田信長と松平家康との同盟交渉役を担った。
 永禄10年(1567年)と永禄11年(1568年)の2度にわたる織田家の伊勢国攻略の際には、攻略の先鋒として活躍している。永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。
 元亀元年(1570年)の長島一向一揆では北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、さらに遊軍として各地を転戦した。天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。その後も>長篠の戦い,越前一向一揆攻略,天王寺合戦,紀州征伐,第二次木津川口の戦い,有岡城の戦いに参戦。天正9年(1581年)には伊賀攻めに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。また、同年、京都妙心寺内に自らの子・九天宗瑞を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵は津田秀政の死後に、長興院と改名)。
 天正10年(1582年)、信長が甲州征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませた。この際に一益は2月12日に出陣し、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となっている。一益はこの甲州征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。戦後処理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は上野一国と隣接する信濃小県郡・佐久郡を与えられ、関東御取次役を命じられる。また、伊予守に補任された。しかし一益は領地よりも茶器の「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったという。
 6月2日、信長が本能寺の変によって横死する。一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。本能寺の変の報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵とともに駆けつけ鎮圧した(沼田城の戦い)。
 6月16日には信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直,鉢形城主・北条氏邦,北条氏政,北条氏照,北条氏規ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、初戦は勝利したが、翌6月19日の合戦では多くの死者を出し北条勢に敗北した(神流川の戦い)。同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り戦死者の供養を行った後、6月20日、一益は人質であった北条高広の次男を返し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開き、その夜、箕輪城を旅立った。
 一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、碓氷峠を越え、6月21日に道家正栄の守る小諸城に入った。この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中には依田康国や真田昌幸の老母・恭雲院が加わっていたという。一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、木曽郡の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた。一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。一益は、6月27日に小諸城を依田信蕃に引き渡して旅立ち、6月28日に義昌の居城・福島城で人質を引き渡し、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができた。一益は清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後、7月1日伊勢に帰ったという。なお、この途上にあった6月27日には清洲会議が開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した。
 清洲会議後、会議の決定に不満を持っていた信長の3男・織田信孝、そして羽柴秀吉と対立する柴田勝家に与して、天正11年(1583年)正月元旦、一益は勝家に秀吉との戦端を開いた。一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居した。
 天正12年(1584年)、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた(小牧・長久手の戦い)。一益は秀吉に隠居から呼び戻され、秀吉方となった。先に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰を追放し、更に下市場城,前田城を占拠した。しかし、山口重政の守る大野城の攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城,前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽き7月3日に開城。しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている(蟹江城合戦)。7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石、自身に3千石をそれぞれ宛てがうとする判物を発給されたが、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放され、一時も羽柴秀長に身柄を預けられた。同年11月、信雄の家老・滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平をまとめている。
 一益は天徳寺宝衍,山上道及らと共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年(1584年)6月、秀吉から佐竹義重(沼尻の合戦に参戦中)への返書の添状、天正13年(1585年)11月、梶原政景への書状にて、秀吉による小田原征伐を予告している。
 天正14年(1586年)9月9日、越前大野にて死去。享年は62といわれている。
 一益から滝川の苗字を与えられた一益家臣の滝川忠征は旗本から尾張藩家老に転属され、子孫は旗本と尾張藩の重臣・御附属列衆に分かれて幕末まで続いた。忠征を一益の養子とする説もあるが、系図には特にそのような記述はない(ただし、ここでは養子として表示)。

 滝川一益の孫にあたる。父・一忠は豊臣秀吉により追放されて浪人であったため、一積もまた関ヶ原の戦い以前の行動は定かではない。旧知であった真田氏の許にいたともいわれ、関ヶ原の戦いの際に石田三成の父・石田正継の猶子であった宇多頼次と離縁していた真田昌幸の娘を託されたという。
 その後、織田長益の推挙によって伯耆米子藩主・中村一忠に仕えた。その直後の慶長8年(1603年)に徳川家康の下で2,000石を拝領して家臣となっていた叔父・滝川一時が若くして死去し、子の滝川一乗が2歳だったため、一乗が15歳になるまでの名代に任じられ、一乗が250石、一積が1750石を知行し家康に仕えた。大坂の陣では、徳川方使番として活躍した。
 元和2年(1616年)、一積は、一乗が15歳となっても所領を譲ろうとしなかったため訴えられ、一乗が20歳未満であったため750石のみを分与することとなり、一積は1000石の旗本となった(その後、この問題については結局うやむやとなった)。また昌幸の5女を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、片倉重長や、蒲生家の重臣で三春城代(のち伊予松山藩家老)の蒲生郷喜に嫁がせるなど、度々真田氏のために働いた(信繁の娘の夫は蒲生郷喜の息子とする指摘もある)。
 寛永3年(1626年)の徳川秀忠上洛にも付き従った。しかし、秀忠が死去した寛永9年(1632年)7月16日、幕府から突如として、先の信繁の娘を養女として蒲生家の家臣に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封された。その頃、松山藩蒲生忠知家では内紛が起きており、蒲生郷喜の排除を主張する福西宗長や関元吉(一利)が、信繁の娘との婚姻の件を告発理由として取り上げ、一積の除封の6日前に徳川家光の御前にて当事者同士の対決が実施されたばかりであった。
 万治3年(1660年)に死去。嫡子の一明は、寛文3年(1663年)に再び幕府に300俵で召しだされ、御家人となった。 一明の正妻は、真田幸道の叔母である。

瀧川一時 瀧川一乗

 永禄11年(1568年)、滝川一益の次男として誕生した。幼少から織田信長に仕え、伊勢亀山,近江甲賀郡に所領を有した。
 天正10年(1582年)の本能寺の変の後、関東から逃げ帰ってきた父を迎え、羽柴秀吉と対立する。しかし天正11年(1583年)、味方した柴田勝家,織田信孝が賤ヶ岳の戦いで秀吉に攻め滅ぼされたために、父と共に秀吉に降伏し所領を没収された。
 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として従軍し、蟹江城合戦で徳川家康・織田信雄連合軍に敗れた。秀吉からは参戦の恩賞として1万2千石の所領を宛てがうとする判物を与えられたが、身柄は豊臣秀長に預けられた。なお、兄の一忠は敗戦の責任を取らされて追放されている。
 天正20年(1592年)に富田一白を通して、家康から秀吉に対し一時の譲渡の申し入れがあり、翌文禄2年(1593年)に徳川家にも下総国芝原,五反田,板川,上大蔵,中田,富田,谷津,山田,和田,成山郷など2千石を与えられた。
 慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いでは家康本隊の一員として戦っている。慶長7年(1602年)から徳川秀忠に仕えたが、翌慶長8年(1603年)に病に倒れ36歳で死去した。秀忠は本多正重を見舞わせたが、正重が途中で訃報を聞き引き返しこれを伝えた。
 家督は2歳の一乗が継いだが、すでに成人している兄・一忠の子の一積が名代に立てられた。 

 慶長7年(1602年)、伊勢亀山1万4,000石の大名・滝川一時の長男として誕生。
 父・一時は、徳川秀忠にも仕えていたが、慶長8年(1603年)に病死すると、一乗が幼少であったため江戸幕府により、豊臣家から与えられた1万2,000石は没収され、徳川家から拝領した2,000石は叔父の一積が一乗が15歳になるまでの名代として引継ぎ、一乗にはうち250石が分与された。
 ところが、一積は一乗が15歳になっても家督を返そうとしなかったため、元和2年(1616年)に青山忠俊に訴え出る。それを聞いた秀忠は、一乗が言うことも理ではあるが、まだ20歳未満であるため、番士の列に加えられるまでは一積が名代を務めるべきとし、とりあえず一乗は750石を加えられて持ち高は1,000石となった。その後、元和7年(1621年)に西の丸書院番士に列すると、父の遺領のことを再び申し出たものの、はぐらかされ延び延びとなり、結局果たされることはなかった。寛永10年(1633年)に200石を加えられて1,200石となる。寛永18年(1641年)に小姓組番士となる。
 寛永5年(1665年)、死去。

瀧川辰政 瀧川益重

 はじめ織田信包に仕えた。豊臣秀吉による小田原征伐に従軍した際、北条方より信包の軍に向かって鉄砲が撃ちかけられたが、辰政が矢面に立ち弾丸は母衣に当たるだけで済み、信包より大いに賞されたという。次に浅野長政に仕え、文禄・慶長の役の際には朝鮮へ渡航し武功が多かった。石田三成にも仕えた。
 その後、小早川秀秋に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属していた主君と共に松尾山の小早川陣中に在り、本戦において寝返りを行った小早川軍の一勢として西軍の大谷吉継の軍勢と戦い、笹治兵庫とともに奮戦して武功を挙げたとされる。戦後、小早川家は岡山藩55万石に加増・移封されたが、秀秋は諫言する家臣に対し上意討ちなどしたために家臣が出奔するようになったとされる。辰政も、女乗物に乗って落ち延びる、という計略を用いて秀秋の追跡をかわし出奔したと伝わる。
 その後しばらくして、姫路藩池田家重臣の荒尾成久らの執り成しで、姫路藩主・池田輝政に2千石を与えられ仕えた。この頃に丹波と称し、後に出雲と称した。慶長17年(1612年)、輝政より淡路岩屋城を辰政に預けるべき旨の内命が出されたが、翌慶長18(1613年)1月、輝政が死去したため実現しなかった。
 2代藩主・池田利隆の下において大坂の陣に従軍し、神崎川一番越しなどの軍功を挙げた。なお、利隆の弟の池田忠継が中津川を渡って深入りしたため、これを助けんとして利隆も渡河しようとしたが、江戸幕府の軍監が強硬な態度でこれを制止した。これに対し辰政は、忠継は徳川家康の愛孫である利隆の弟にあたり、もし忠継が敗死すれば軍監に対しこれを救わざるの罪があるため速やかに渡河すべきと弁じた。利隆の大軍勢が渡河すると敵兵はこれと交戦せずに撤退した。一方、軍監は敢えて渡河しなかったが、これを聞いた家康は、軍監らが戦況の機を見て進軍しなかったことを責めたという。大坂の陣の後、戦功によって1千石を加増され、知行は計3千石となった。
 慶安元年(1648年)、70歳を超えていた辰政は3代藩主・池田光政より多年の功を賞されると共に、致仕して老を楽しむべしとの命を受け、家督を子の宗次に譲って隠居した。慶安5年(1652年)、享年78にて病死した。

 滝川一益の甥といわれる。前歴などは不明だが、叔父・一益の家臣となった。
 傾き者として知られる前田利益は、滝川儀太夫の子(または弟)とされるので、この滝川儀太夫が益重をさすとする説があるが定かではない。また、楠木氏最後の当主楠木正盛は瀧川義太夫の娘を室としているが、この義太夫が益重かどうかも不明である。
 天正10年(1582年)、甲州征伐に従軍。田野で武田勝頼を包囲して自害に至らしめた。3月、滝川一益が信濃国のうち二郡と上野一国を与えられると、益重も上野に領地をもらった。
 滝川一益が上野の厩橋城を本拠地として入った際に、益重は城代として真田昌幸が明け渡した沼田城に入城した。同年5月23日、益重は滝川勢を率いて三国峠を越えようとしたが、清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主・栗林政頼に破れ、同25日には猿ヶ京城に夜襲をうけたが、これは撃退したと伝わる。
 同年6月2日、本能寺の変で織田信長が横死する。これを知った元沼田城代の藤田信吉は長尾伊賀守に使いを出して上杉景勝に通じて反乱を起こし、5千の兵を率いて沼田城を攻め水曲輪の一つを奪ったが、同月13日、益重は滝川一益の援軍を得てこれを撃退した。同月18・19日、北条氏直との神流川の戦いに従軍するが、敗れた一益が伊勢長島城へ撤退すると、益重もこれに従った。
 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて滝川一益は柴田氏に与し、関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に佐治新介(これを滝川益氏とする説がある)、峯城に益重が入れられた。2月、両城は羽柴軍の猛攻を受け、兵糧攻めにより4月17日に峯城は開城するが、その後の投降した益重を秀吉は召し出して奮戦を称え、領地を与えた。戦後は豊臣氏に仕えた。
 天正12年(1584年)の小牧の戦いに兵100人を率いて従軍。天正14年(1586年)の朝日姫の輿入れに供奉して浜松に入った。天正15年(1587年)の九州の役では兵350人を率いて従軍した。
 茶の湯を嗜み、津田宗及の茶会にしばしば足を運び、津田盛月,松下之綱らとも親交があった。没年不詳。 

瀧川益氏

 滝川一益の従弟ともいわれる。佐治益氏と同一人物もしくは他の人物との混同があるとも言う。
 主君の一益に従って、天正10年(1582年)の甲斐の甲州征伐や、同年6月に発生した本能寺の変の後に起こった相模の後北条氏との争い(神流川の戦い)にも従軍した。しかし、一益が上野国を失い伊勢国へ敗走すると益氏もこれに従った。
 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて一益は柴田氏に与し、関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に益氏、峯城に滝川益重が入れられた。しばらくして両城は羽柴軍の猛攻を受け、亀山城は2月16日から包囲されるとこれをよく防戦したが、一益が使者を亀山城に派遣し開城を薦めたため、益氏は3月3日に開城して長島城に入った。
 晩年については不明であるが、寛永12年(1635年)に100歳を超える年齢にて死去したという。