<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI06:紀 長谷雄  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 貞雄 KI42:紀 貞雄

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信太貞頼 信太頼康
 信太氏の祖になる紀氏は、この頃、河内国に拠点をもち藤原氏との関係を深めていたとされる。仁平元年(1151年)、常陸国信太郡の大半が信太庄として藤原氏に寄進されると、藤原氏との関係から紀貞頼が信太の庄司として常陸に下向し、信太郡下高津に居館を構えた。のちに信太にちなんで信太氏を称するようになった。 

 治承4年(1180年)、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、翌年、志太義広(頼朝の叔父)が頼朝に対して兵を挙げたが、小山氏の活躍であっけなく敗退した。この義広は信太庄領所であったが、この乱に、信太庄司頼康は参加していなかった。乱後、八田知家が恩賞地を常陸に賜り次第に勢力を拡大、彼の子から小田,茂木,宍戸の諸氏が分出する。
 八田氏が常陸に進出したとき、信太庄司は独立的立場にあったようだ。それが、文治4年(1188年)、常陸守護八田氏の郎従・庄司太郎が大内裏夜行番を怠けて投獄され、知家が脱獄させたことが『吾妻鏡』に記されている。庄司太郎は信太頼康のことといわれ、この『吾妻鏡』の記事から信太氏が八田氏の被官になっていたことがわかる。 

信太忠貞 信太宗房

 八田知家の嫡男・知重は小田氏を名乗った。知重のころは下野紀氏益子氏系の今泉氏が小田氏の有力家臣で、これと並ぶ存在が信太氏であった。時代が下って嘉元4年(1306年)に知重の曾孫・小田宗知が没したとき、その後継をめぐって兄弟が対立した。今泉氏は弟の知貞を、信太忠貞は兄の貞朝を支援し、結局、貞朝が小田氏の家督となったことで、忠貞が小田氏の執事を務めることになる。しかし、この家督争いによって小田氏は常陸守護職を取り上げられ、一時、同職は一族の宍戸氏にわたってしまった。
 信太忠貞は田土部入道と称し、小田氏の執事として政治にあたり木田余に居を構えた。また、『東寺文書』によれば信太庄司を補さずとあり、信太庄司を務めた信太氏は地頭に代わっていたと思われる。 

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げ、翌々年には新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は滅亡した。小田貞朝の子・高知は御醍醐天皇方に属し、偏諱を受けて治久を名乗り常陸守護職に返り咲いた。以後、小田治久は東国の南朝方の中心人物として活躍する。北畠親房が小田氏の居城小田城において、『神皇正統記』を著したことはよく知られている。
 このころの信太氏の当主は宗房で、田土部から土浦に居を移している。この宗房が、戦国期に頭角をあらわす菅谷氏の祖となる人物禅鉄を見い出したことになっている。 

菅谷範政
 小田氏治に忠義を尽くしたが、天正11年(1583年)に氏治が佐竹氏に臣従すると、これに従った。このために土浦城を失うが、後北条氏を滅ぼした豊臣氏家臣の浅野長政に小田氏に対する忠心を評価され、後に関東に入部した徳川家康に推挙され、その家臣に迎えられ、1000石のちに5000石余りまで加増され、子孫は幕末まで続いた。