<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI03:紀 大人 〔孝元天皇後裔〕紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 KI06:紀 麻呂

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紀 男人 紀 古佐美

 慶雲2年(705年)従六位下から四階の昇叙により従五位下となる。慶雲4年(707年)文武天皇大葬の際に造御竈司を務める。和銅4年(711年)には平城宮造営のための諸国からの役民で逃亡する者が多かったことから、石上豊庭らと共に兵庫将軍に任命され、衛兵所を仮設して兵庫を守衛した。
 元正朝では順調に昇進する。またこの間の養老5年(721年)には、佐為王,山上憶良らの文人と共に、退庁後は東宮・首皇子(のちの聖武天皇)の下に仕えて学芸の教育を行うよう命じられた。
 聖武朝でも累進し、大宰大弐・右大弁等を歴任した。天平10年(738年)10月30日任地の九州にて卒去。享年57。最終官位は大宰大弐正四位下。遺骨は骨送使の音博士・山背靺鞨により平城京に運ばれた。
 大宰大弐在任中の天平2年(730年)に当時大宰帥であった大伴旅人の邸宅で開催された梅花の宴で詠んだ和歌が『万葉集』に入集している。『懐風藻』にも漢詩作品3首が採録。

  天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に従五位下に叙爵し、天平神護3年(767年)丹後守に任ぜられる。
 光仁朝では、兵部少輔,式部少輔,伊勢介,右少弁を歴任する。宝亀11年(780年)正月に従五位上に叙せられるが、同年3月に陸奥国で伊治呰麻呂が宝亀の乱を起こすと征東副使に任ぜられ、同じく副使の大伴益立と共に東国へ赴いた。翌天応元年(781年)5月陸奥守に任じられ、同年9月には乱鎮圧の功労により、三階昇進して従四位下に叙せられ、勲四等の叙勲を受けた。
 桓武朝に入ると、左兵衛督・中衛中将と武官を務めると共に、左中弁・式部大輔を兼ね、延暦4年(785年)には参議に叙任されて公卿に列した。同年11月安殿親王(のち平城天皇)の立太子に伴いその春宮大夫に、翌延暦5年(786年)右大弁次いで左大弁と、これまでの中衛中将と合わせて議政官として文武の要職を兼帯している。
 延暦7年(788年)7月に征東大将軍に任じられ、12月に節刀を受けて蝦夷の征討に赴く。翌延暦8年(789年)3月末に衣川に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかったことから、5月中旬に桓武天皇の叱責を受ける。これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こすが、蝦夷の族長であるアテルイの反撃に遭い、別将の丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの損害を出して大敗した(巣伏の戦い)。6月に入ると古佐美は進軍に当たっての兵站の困難さと、軍を維持するために大量の兵糧が必要であることを理由に朝廷の許可を得ずに征東軍を解散し、桓武天皇から再度の叱責を受けた。9月に帰京して節刀を進上、大納言・藤原継縄、中納・藤原小黒麻呂らから進軍せずに大敗した状況の取り調べを受けて征東事業失敗の責任を承服する。副将軍の池田真枚と安倍猨嶋墨縄が官職や位階を剥奪された一方で、古佐美は敗戦の責任により処断されるべきところ、これまで朝廷に仕えてきた功績を勘案され罪を免じられている。
 以後も延暦13年(794年)には正三位・中納言と順調に昇進する。延暦15年(796年)には右大臣・藤原継縄の薨去に伴い、大納言に任ぜられて太政官の首班を占めた。またこの間の延暦12年(793年)には平安京遷都のために、大納言・藤原小黒麻呂と共に山背国葛野郡宇太村の土地を視察している。延暦16年(797年)4月4日薨去。享年65。

紀 広浜 紀 夏井

 延暦14年(795年)長門介に任ぜられる。延暦16年(797年)父の大納言・紀古佐美の薨去に前後して少判事に遷ると、式部大丞・勘解由判官と京官を務め、延暦18年(799年)従五位下・肥後守に叙任される。

 平城朝に入ると俄に重用され、大同2年(807年)正五位下・右中弁、大同3年(808年)従四位下と急速に昇進し、嵯峨朝初頭の大同4年(809年)には畿内観察使に任ぜられ公卿に列す。翌大同5年(810年)観察使制度の廃止により参議となり、右大弁に大学頭を兼ねる。

 嵯峨朝では議政官として右大弁・右兵衛督と文武の官職を兼帯したのち、弘仁7年(816年)には大宰大弐を兼ねる一方、弘仁6年(815年)には従四位上に叙せられている。また、弘仁3年(812年)多人長を博士として行われた『日本書紀』の講義にも参席した。弘仁10年(819年)正月に正四位下に至るが、同年7月2日卒去。享年61。

 承和年間の初め、隷書を得意としていたことから、授文堂で書を学ぶよう命ぜられ小野篁に師事する。のち、文徳天皇に見いだされ、嘉祥3年(850年)少内記に抜擢される。六位蔵人・大内記を経て、斉衡2年(855年)従五位下・右少弁に叙任される。この頃、忠実に仕えながらも清貧で家も持っていなかった夏井を憐れんで、天皇は1軒の家を夏井に与えたという。斉衡4年(857年)には従五位上・右中弁と、天皇の側近として順調に昇進する。夏井は天皇の意志を忠直にしっかり把握する一方で、時には正し諫めることもあった。加えて、聡明鋭敏で、物事を処理するにあたって滞ることがなかった。夏井の働きぶりに天皇の信頼は篤く、重用されて内外の重要な政務を助けたという。
 天安2年(858年)文徳天皇が崩御し清和天皇が即位すると、讃岐守に転任し地方官として赴任する。任国では善政を施し、官人や民は満足し、治安も行き届いた状態であった。4年間の任期を終えるも百姓等の懇望により、さらに2年間讃岐守の任に留まる。人々は富み栄え倉庫への食料の備蓄も十分になったため、任国内に新たに40棟の大蔵を建て、籾を納めて万一のための備えとした。
 貞観7年(865年)には肥後守に任じ、ここでも領民に慕われた。しかし、貞観8年(866年)に応天門の変が起こり、異母弟・豊城が共謀者の一人として逮捕されると、夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となった。土佐国へ護送中、肥後国の百姓等は夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。夏井自身も、自らが変に全く関与していないにもかかわらず連座し、首謀者とされた伴善男と同じ流罪となったことを密かに嘆いたという。なお、中央,地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
 数年後、母が死去したが、夏井は草堂を建立して亡骸を安置し、母が生きているときと同じように朝晩の礼を欠かさなかった。以前から仏教への信仰心は篤かったが、3年間の喪が明けるまで毎日、この草堂の前で大般若心経50巻を唱えたという。その後の動静は伝わらないが、配所で没したとされる。
 書道に優れ、師事していた小野篁から「真書(楷書)の聖」と激賞されている。医薬の道にも通じ、土佐国へ配流の後には、山沢で薬草を採取し調合して人々に施したが、効き目が非常に優れていた。ある時、中風により髪を振り乱して狂い走る者がいたため、夏井が一匙の散薬を与え服用させたところ、たちどころに癒えてしまったという。

紀 宇美 紀 広純

 神亀3年(726年)正六位上から従五位下に叙爵。天平10年(738年)5月右少弁の官職にあった際、右大臣・橘諸兄に従って伊勢大神宮へ神宝を奉献し、同年閏7月右中弁に昇進する。翌天平11年(739年)従五位上。聖武朝末に急速に昇進し、天平17年(745年)正五位下、天平19年(747年)正五位上、天平20年(748年)従四位下に叙せられた。またこの間に、讃岐守,左衛士督などを務めている。
天平勝宝5年(753年)10月5日卒去。聖武,孝謙の2朝に仕えた。

 天平宝字2年(758年)北陸道問民苦使に任ぜられ、天平宝字7年(763年)従五位下・大宰員外少弐に叙任される。天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱では大宰府赴任中のためか活動の記録が残っていないが、翌天平神護元年(765年)正月になって薩摩守に左遷される。神護景雲2年(768年)筑後守に復帰する。
 光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)閏3月左少弁に任ぜられて京官に復し、宝亀4年(773年)従五位上に叙せられる。宝亀5年(774年)新羅使・金三玄が大宰府に渡来すると河内守に任ぜられた上で、大外記・内蔵全成と共に大宰府に遣わされて、来朝の理由を問う役割を務めている。
 宝亀5年(774年)7月鎮守副将軍を兼任して、陸奥守兼鎮守将軍・大伴駿河麻呂の下で蝦夷征討にあたる。翌宝亀6年(775年)9月本官も河内守から陸奥介に変更となり、同年11月には反乱を起こして桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した功労により、正五位下・勲五等に叙せられた。その後も蝦夷征討に従事して、陸奥守,陸奥国按察使,鎮守将軍を歴任する。宝亀8年(777年)12月に出羽国志波村の蝦夷を鎮圧しようとして敗れて退却したことを言上。これを受けて鎮守権副将軍に任ぜられた佐伯久良麻呂の加勢によって蝦夷の鎮圧に成功したらしく、翌宝亀9年(778年)6月には従四位下・勲四等に叙せられている。
 宝亀11年(780年)2月に参議に任ぜられ公卿に列す。広純は覚鼈柵という砦を建造し、遠くに衛兵や斥候を配置した上で、3月22日に伊治郡大領・伊治呰麻呂ら蝦夷軍を率いて伊治城に入るが、密かに敵側に通じて反乱を起こした呰麻呂に殺害された(宝亀の乱)。呰麻呂はわけあって広純を嫌っていたが、表面上は広純に媚びて仕える振りをしていた。一方で、広純は呰麻呂を非常に信用して気を許していたという。