KI06:紀 長谷雄 | 紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 | KI31:紀 淑光 |
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紀 淑光 | 紀 文幹 |
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昌泰元年(898年)、文章生に補せられる。治部丞,兵部丞,式部丞や六位蔵人を経て、延喜9年(909年)従五位下・刑部少輔に叙任された。中務少輔・少納言を務め、延喜17年(918年)従五位上に昇叙される。延喜19年(919年)右少弁に遷ると、延喜21年(921年)左少弁、延喜22年(922年)正五位下・右中弁、延喜23年(923年)左中弁、延長3年(925年)従四位下、延長8年(930年)従四位上、承平3年(933年)右大弁と醍醐朝後半から朱雀朝にかけて長く弁官を務め昇進を果たした。 |
天慶7年(944年)、信濃国に国司(信濃守)として下向したが、到着した当日は暴風雨が吹き荒れており、国衙が倒壊し、その下敷きとなり圧死した。 |
紀 行円 | |
明確に祇園社の長官である執行家が紀姓の一家系に属するようになったのは平安時代の紀行円の時代からである。行円は神道の祀官であると同時に、延暦寺に属する天台僧であった。当時、祇園社は延暦寺の末寺となっており、その名目上の長官は別当・長吏で、特に祇園別当は天台座主がその任に当たり、執行は別当・長吏に継ぐ地位であったが、次第に実務上の権限を有する執行家が祇園社の事実上の長官としての機能を果たすようになった。以後、行円の子孫の紀氏が明治に至るまで、祇園社の長官である執行職を代々世襲した。祇園社は神仏習合の神社であり、社僧(神社に仕える僧)によって奉祀されていた。紀氏の社僧家は行円以降、妻帯の社僧として血縁により世襲を行った。剃髪した僧侶でありながら妻帯し血族による世襲を行うことは仏教としては親鸞に先立つこととなるが、これは彼らが神官でもあり、祇園社が神社であることの気安さがあったとされる。形式上は実子や血縁者を「弟子」として、「師子相続」すなわち師匠から弟子への相続との形態をとっていた。 |