<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI06:紀 長谷雄  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 KI31:紀 淑光

リンク KI32KI33
紀 淑光 紀 文幹

 昌泰元年(898年)、文章生に補せられる。治部丞,兵部丞,式部丞や六位蔵人を経て、延喜9年(909年)従五位下・刑部少輔に叙任された。中務少輔・少納言を務め、延喜17年(918年)従五位上に昇叙される。延喜19年(919年)右少弁に遷ると、延喜21年(921年)左少弁、延喜22年(922年)正五位下・右中弁、延喜23年(923年)左中弁、延長3年(925年)従四位下、延長8年(930年)従四位上、承平3年(933年)右大弁と醍醐朝後半から朱雀朝にかけて長く弁官を務め昇進を果たした。
 承平4年(934年)参議に任ぜられて公卿に列す。議政官になったのちも左右大弁を兼ねて弁官在職は20年にも及び、この間の天慶元年(938年)正四位下、翌天慶2年(939年)8月に従三位と昇叙されている。同年9月11日薨去。享年71。

 天慶7年(944年)、信濃国に国司(信濃守)として下向したが、到着した当日は暴風雨が吹き荒れており、国衙が倒壊し、その下敷きとなり圧死した。
 『拾遺和歌集』春の部に承平4年(934年)詠じた屏風の歌一首が掲載されている。

紀 行円

 明確に祇園社の長官である執行家が紀姓の一家系に属するようになったのは平安時代の紀行円の時代からである。行円は神道の祀官であると同時に、延暦寺に属する天台僧であった。当時、祇園社は延暦寺の末寺となっており、その名目上の長官は別当・長吏で、特に祇園別当は天台座主がその任に当たり、執行は別当・長吏に継ぐ地位であったが、次第に実務上の権限を有する執行家が祇園社の事実上の長官としての機能を果たすようになった。以後、行円の子孫の紀氏が明治に至るまで、祇園社の長官である執行職を代々世襲した。祇園社は神仏習合の神社であり、社僧(神社に仕える僧)によって奉祀されていた。紀氏の社僧家は行円以降、妻帯の社僧として血縁により世襲を行った。剃髪した僧侶でありながら妻帯し血族による世襲を行うことは仏教としては親鸞に先立つこととなるが、これは彼らが神官でもあり、祇園社が神社であることの気安さがあったとされる。形式上は実子や血縁者を「弟子」として、「師子相続」すなわち師匠から弟子への相続との形態をとっていた。
 その後、行円から枝分かれした子孫に、安部晴明の子孫が入家したものといわれる「晴」字を通字とする家系と、同じく行円の孫・顕玄を祖とし「顕」字を通字とする家系であり、鎌倉時代にはこの二つの家系が持ち回りにより長吏・執行職に就いていた。
 しかし南北朝の騒乱の際、祇園社は南朝方と北朝方に分かれて争うこととなり、足利尊氏・北朝方についた顕詮と、南朝方についた静晴の闘争を経て、北朝の勝利により顕詮流に執行家は統一され、「晴」系の家系は排除され消滅した。顕詮以降、顕玄流は足利尊氏の御師として活動した。顕詮の子・顕深は後小松天皇の宣旨により執行職の世襲を認められるとともに殿上人の扱いとされた。また、顕深は「宝寿院」の院号を名乗った最初であるとされ、以後、宝寿院家が祇園社の長となる体制が確立された。さらに、義満の政策によって祇園社は延暦寺からの独立を果たした。