<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI31:紀 淑光  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 ― 堀田俊重 KI33:堀田俊重


リンク KI32KI34KI37
堀田道空 堀田正吉

 天文22年(1553年)4月下旬、織田信長は斎藤道三と富田の正徳寺で会見したが、信長が会見場の御堂に入った時、堀田道空と春日丹後が縁の上がり口で出迎えた。信長は居並ぶ諸士に知らぬ顔で振る舞い、縁の柱に寄りかかっていた。道三が会見場に入って来たが、信長は知らぬ顔のままであった(道三も信長同様に「知らぬ顔」で応じたという解釈もある)。道空は信長に「是ぞ山城殿にて御座候」と紹介すると、信長は「であるか」と返事をした。また、この会見の席で道空は湯漬けを給仕した。
 『信長公記』の記述の上では、堀田道空が誰に仕えていたかは明示されていない。斎藤道三の家臣と説明されることがあり、後年の軍記物などでは斎藤道三の家老・重臣あるいは腹心と扱われることがある。

 江戸幕府旗本。当初、織田信長、そして浅野長政に仕え、文禄元年(1592年)より、小早川隆景、次代の養子・小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長7年(1602年)に秀秋が没すると、慶長10年(1605年)に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年(1624年)、福島正則が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子・正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。
 正室のまんは、稲葉正成の継室・春日局の義娘(先妻の子)にあたり、子の正盛は早くより将軍・徳川家光に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、大名となり子孫は繁栄した。

堀田一継

 尾張堀田氏のであるが、一継は、初め本田氏(本多氏)を称し、後に堀田氏に復した。はじめ織田信長に属したが、後に羽柴秀吉に仕えて鷹匠頭。河内国丹南郡,近江国高島郡,伊勢国一志郡・奄芸郡・度会郡・飯高郡の六郡内の併せて5,000石の知行を与えられ、従五位下若狭守に叙任された。
 天正18年(1590年)7月11日、小田原の役で小田原城が落城した後、北条氏政・氏照兄弟の切腹の際には佐々行政らと検使役を務めている。
 『守矢家文書』によれば、いわゆる五奉行とともに政務に携わった十人衆として、富田一白,佐々行政,寺西正勝,毛利吉成,堀田一継,石田正澄,片桐貞隆,石川光元,山中長俊,木下延重の名が挙げられている。
 慶長2年(1597年)頃、知行6,000石。翌3年の秀吉の死に際して遺物金5枚を受領。秀吉の死後は、駿府の徳川家康に招かれて御伽衆となる。
 慶長4年(1600年)、家康が御掟を破って大名と縁組をした件で前田利家と対立すると、一継は家康の命を受けて浅野幸長と加藤清正への使者となった。利家が病死すると石田三成襲撃事件が起こるが、このときに福島正則と黒田長政が一継の館に密事を告げに来たので、これを家康に取次いだ。同年12月8日、家康の茨木放鷹に随従。
 慶長5年(1600年)、会津征伐でも家康に従って小山に至る。関ヶ原の戦いでは加藤嘉明隊の与力となって戦闘で首級50をあげた。翌同6年(1601年)2月25日、その勧賞として近江国甲賀郡,大和国添下郡の二郡内で3,000石を加増され、3月5日、伊勢国一志郡・奄芸郡の二郡内で880石を加増され、都合8,880石の所領を持つ大身旗本となった。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では西尾忠永隊の与力となった。その後、江戸の近くの狩場を任され、しばしば家康の鷹狩に随従し、巣鷹・弟鷹を賜った。徳川秀忠の代となってもその御伽衆に列した。
 元和5年(1619年)8月14日、伊勢国一志郡・奄芸郡と近江国高島郡の知行地を、近江国甲賀郡内に移封される。このとき知行1万石。
 寛永2年(1625年)に致仕して隠居する。同年7月、大和国添下郡・近江国甲賀郡の二郡において3,500石を隠居領として分かち、5,380石を嫡男・一通が相続して子孫は旗本寄合席となった。寛永7年(1630年)6月25日没。享年81。