KI33:堀田俊重 | 紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 ― 堀田俊重 ― 浦上行景 | KI37:浦上行景 | ● |
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浦上則永 | 浦上宗助 |
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不明な点が多いが赤松満祐の宿老として嘉吉の乱以前に活動が見受けられる。 |
浦上則永の子とする記述を残すものが多数を占めるが、宗助は晩年の十数年しか業績が明らかではないのでこれを理由に則宗の子とするような系図もある。 |
浦上宗久 | 浦上則宗 |
赤松氏の家臣で備前国香登城主。 |
嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した際、兄・則永が誅殺を恐れて信濃国に逃亡したため、浦上氏の名跡を継ぐ。応仁の乱では山名宗全から領国を奪回するために東軍に属して戦い、赤松氏が旧領国を回復し播磨,備前,美作の守護に任じられたのは則宗の力によるところが大きい。 |
浦上則景 | 浦上村宗 |
赤松氏の重臣・浦上則宗の長男として 享徳2年(1453年)に誕生。父・則宗は応仁の乱後の赤松家中において守護代や侍所所司代を歴任するなど権威を強めており、父の在京後は若年ながら則景は赤松政則の側近として播磨国で政務に参加し、重臣の補佐を受けながらも則景は則宗の後継者として播磨に影響力を持った。父とは別に公卿と交流があったようで山科家から海老や鯛を贈られた記録も残る。
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赤松氏の重臣で、主君・赤松義村から偏諱を受けて村宗と名乗るも、則宗以来の強大な勢力を義村から警戒されたため排斥を受け、その攻撃を度々跳ね返すうちに播磨・美作・備前の実権を握り、義村も死に追いやった。義村の子・政村(政祐)を半ば傀儡化するなど勢威を極めるも、播磨には堺公方と細川晴元と連携した反対勢力も多く、守護を凌駕する権力としては不十分であった。その克服も含め、将軍・足利義晴,管領・細川高国の要請を受けて、3ヶ国の兵を率い播磨の反対勢力や近畿を制圧する東上作戦の過程で政村の裏切りにより大物崩れの大敗となり、討ち死にした。 |
浦上政宗 | 浦上清宗 |
浦上村宗の敗死後、家督を相続したが、尼子氏への対応を巡って備前で独立した弟・浦上宗景との対立に明け暮れた。 |
永禄7年(1564年)1月11日、黒田職隆の娘を室に迎える婚礼当日、あるいは婚礼当日の夜に、置塩城主・赤松晴政の攻撃をうけ、室山城にて父・政宗と共に討死した。ただし、没年を弘治2年(1556年)とする説もある。妻は城主を継いだ弟・誠宗に再嫁している。
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浦上誠宗 | 浦上直宗 |
父・浦上政宗と兄・清宗の死後、家臣である江見河原源五郎らに室津城主に擁立される。また兄の室になるはずだった黒田職隆の娘を娶り、久松丸を儲けた。 |
守護・赤松氏の本拠である置塩城に住んだとされる。9歳になった時、備前国で大叔父・浦上宗景と対立する宇喜多直家により、正統な浦上家の当主として擁立され、岡山城へ迎えられた。この際、直宗という諱を名乗ったとされている。その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国に退去した。 |
浦上宗景 | 浦上宗辰 |
父の村宗が享禄4年(1531年)の大物崩れで戦死した後、幼少の兄・政宗が家督を相続していたが、天文20年(1551年)の尼子晴久の備前侵攻への対応をめぐって兄と意見が分かれた宗景は、尼子氏の脅威にさらされている国衆と団結して独自の体制を構築し、尼子氏に与する兄と袂を分かった。 |
備前国の戦国大名・浦上宗景の嫡男として生まれる。家臣の宇喜多直家が離反し、後に和睦した際に、その娘を妻として娶った。 |
浦上玉堂 | 浦上春琴 |
江戸時代の文人画家、備中岡山藩支藩の鴨方藩士(50歳の時に脱藩)。諱は孝弼であるが、35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七絃琴を得て「玉堂琴士」と号した。 |
江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国岡山に生まれる。 |
浦上国秀 | |
『紀姓堀田系図』では浦上国宗の子、他説には浦上則宗の子(弟とも)、浦上則国の一族であると伝わるが、いずれも後年作られた系図などの記録であり良質な史料の記録ではない。「近江守」の継承が行われていると推測し、浦上宗助の子、すなわち浦上村宗の弟であると位置づける説も近年浮上している。 |