<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI33:堀田俊重  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 ― 堀田俊重 ― 浦上行景 KI37:浦上行景

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浦上則永 浦上宗助

 不明な点が多いが赤松満祐の宿老として嘉吉の乱以前に活動が見受けられる。
 永享9年(1437年)、東寺から上原友貞(上原性実入道と同一人物?)と共に300疋を贈られたという記録が今の所、最古の記録である。嘉吉の乱以前頃に赤松氏宿老として重用された佐用氏流上原氏の同等の扱いを受けるなどこの時点で既に赤松家中でもそれなりの地位であったことが窺える。
 その後の嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱で満祐が将軍足利義教を暗殺すると赤松氏に従い幕府の討伐軍と戦った。しかし、討伐軍に赤松氏が敗れ滅亡すると誅殺されることを恐れてまだ幼い弟・則宗や息子の宗助を残したまま信濃国へと出奔したという。以後の行方は知れない。 

 浦上則永の子とする記述を残すものが多数を占めるが、宗助は晩年の十数年しか業績が明らかではないのでこれを理由に則宗の子とするような系図もある。
 生年は定かではないが、則永の子であるならば則永が信濃国に出奔する嘉吉元年(1441年)以前の生まれか。浦上掃部の嫡孫として生まれた宗助だったが、父・則永の出奔の経緯が影響してか成長しても浦上の惣領を継げず、叔父・則宗が出世した後も一門の浦上基景が備前国守護代職に就く一方で宗助には何も与えられなかったりと出世も遅れていた。
 しかし、文明17年(1485年)に山名氏・松田氏との戦で則景,則国が相次いで戦死したため、宗助を取り巻く状況に変化が現れる。 
 長享2年(1488年)に山名氏を福岡城から追う際に功を挙げると、この後、近江守を任官され、更に則国の死で空席となっていた備前守護代職を得てようやく要職にありつく。そして延徳3年(1491年)に則宗や基景が六角氏討伐に向かった際にはその留守を預かり、代わりに領国経営を行うなど徐々に存在感を増していった。
 また、赤松氏や則宗を介さずに現地代官として赤松被官の備前国衆(宇喜多氏,明石氏,長船氏など)に命令を下すことでこれらの国衆を実質的に自身の支配下に置いており、このことは後に子・村宗が赤松氏から離反する際に多くの備前国衆が浦上氏に付いたことの一因となった。
 明応6年(1497年)には松田元藤討伐のため、富山城を攻めるが応援に駆けつけた元藤の兵と富山城の守備兵の挟み撃ちに合って敗れ、竜の口山に退却するが追撃をかけてきた松田勢に包囲されてしまう。しかし、三石城から救援に駆けつけた宇喜多能家が松田勢を敗走させどうにか危機を脱する。
 その後の明応8年(1499年)に浦上村国が則宗に対した戦の際には、明石三郎に赤松遠江守の領地の横領を指示するなどの動きが見られたが、これ以後は記録が無い。則宗(文亀2年(1502年)没)に先んじて没したと伝わるので没年はこの間と推察される。 

浦上宗久 浦上則宗

 赤松氏の家臣で備前国香登城主。
 『備前難波文書』によると、永正9年(1512年)閏4月17日付け書状に初めて登場した。永正年間、兄・村宗が赤松家重臣として、宗久が備前守護代として活躍していたという。その後、赤松家中で兄と共に不動の地位を築いていった。
 永正16年(1519年)冬、置塩城下を去った村宗は三石城に籠って謀叛を起こした。しかし、宗久は兄に同調せず香登城に籠城して兄に対抗し、赤松氏に味方した。配下の宇喜多能家は宗久が村宗を討って浦上家の当主となる陰謀を見抜き、城を脱出して、村宗に密告したという。
 その後、宗久は赤松家重臣として香登城に居座り続け、兄と対立し続けた。赤松義村の死後以降の動向は不明である。 

 嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した際、兄・則永が誅殺を恐れて信濃国に逃亡したため、浦上氏の名跡を継ぐ。応仁の乱では山名宗全から領国を奪回するために東軍に属して戦い、赤松氏が旧領国を回復し播磨,備前,美作の守護に任じられたのは則宗の力によるところが大きい。
 また、文明年間(1469~86年)に入ると、伊勢貞親に代わって、則宗が西軍に属していた朝倉孝景の調略工作を担うようになり、文明3年(1471年)、孝景の寝返りを成功させ、同年に赤松政則が侍所頭人に任ぜられると則宗は侍所所司代、一族の浦上基景が備前守護代に任じられる。
 応仁の乱の後、播磨に下向していった政則に京の仕置きを任せられた則宗は領国のことは一族の者に任せ、京に留まることになる。そして文明13年(1481年)に政則が山城守護に補任されると則宗も山城守護代に補任され、侍所所司代・山城守護代職として京の平安のために尽力し、更にその権威は強まった。
 文明15年(1483年)11月、則宗と同じく赤松氏の被官で備前西部に勢力を持つ金川城主・松田元成が、赤松氏に奪われた失地回復を狙っていた山名政豊と通じ、赤松氏の守護所である福岡城を急襲した。則宗は赤松政則に救援を求めるが、相次ぐ敗戦で姫路へと敗走してしまう。事を重く見た則宗は1月の中旬に京を立ち、急ぎ播磨へと下向すると国人領主の多くが則宗の許に馳せ参じ、政則は和泉国の堺に出奔した。ここに則宗は赤松氏の実権を掌握し、政則を廃し、赤松氏一門である有馬則秀の子・慶寿丸に赤松氏宗家の家督を継がせることを画策して幕府にもこれを承認させようとした。しかし、将軍・足利義尚は政則の上洛・拝謁を許し家督として認めてしまう。これによって播磨国衆が空中分解してしまい、より混迷は深まった。則宗を中心とした赤松方は2月に政則維持を推す松田元成を討つことに成功していたものの、国衆が分裂した状態では形勢は変えられず以後は敗戦を重ね、やむなく一旦領地を捨てて上洛をしたため、播磨を山名氏に奪われてしまう。
 この状況を打破するためには、内紛を解決することが先決と考えた則宗は、8代将軍・足利義政の仲介で政則と和解し、播磨奪回に向けての態勢を立て直す。その後、文明17年(1485年)の合戦で子の則景・則国を失うなどしたものの、山名・松田連合を相手に戦局を優位に進め、東播磨を制圧し西播磨に陣を張る山名軍と対峙。長享2年(1488年)7月に浦上宗助が福岡城に入城し山名政豊が但馬に退去するまで長きに亘る抗争となった。
 明応5年(1496年)に政則が没すると、則宗は養嗣子・義村を立て、その権勢は主家を凌ぐようになった。しかし、美作守護代であった中村則久を強引に辞めさせて基景に美作守護代職を引き継がせようと目論むなど専横甚だしく、赤松家中の一部の人間と対立を深める。明応8年(1499年)、浦上氏庶流の中山城主・浦上村国が遂に則宗打倒の兵を挙げると則宗も兵を出し、播磨と備前の国境付近で合戦が起こる。この野戦に惨敗して窮地に立たされた則宗は白旗城に追い詰められるが宇喜多能家の働きもあってどうにか村国の兵を退け、結局痛み分けという形でこの戦は終息する。しかし、これに始まる村国と浦上本家の対立は則宗死後も20年以上に亘って残る遺恨となる。
 文亀2年(1502年)、死去。享年74。浦上氏の家督は、安富元家から養嗣子として迎えられた祐宗が継いだ。

浦上則景 浦上村宗

 赤松氏の重臣・浦上則宗の長男として 享徳2年(1453年)に誕生。父・則宗は応仁の乱後の赤松家中において守護代や侍所所司代を歴任するなど権威を強めており、父の在京後は若年ながら則景は赤松政則の側近として播磨国で政務に参加し、重臣の補佐を受けながらも則景は則宗の後継者として播磨に影響力を持った。父とは別に公卿と交流があったようで山科家から海老や鯛を贈られた記録も残る。
 文明15年(1483年)11月、備前国西部に勢力を持つ赤松氏の被官金川城主・松田元成が、赤松氏に奪われた失地回復を狙っていた山名政豊と通じ、赤松氏の守護所であり小鴨大和守や櫛橋則伊ら赤松方の諸将の籠る福岡城を急襲した。則景と宇野政秀は政則から福岡城救援のために兵を預けられ備前へと出撃したものの、片上まで進軍したところで「真弓峠において政則が山名勢に敗北」という報が入ると、則景と政秀は福岡城に向かわず兵を返した。結局、則景の軍は播磨に戻ったもの既に赤松軍は敗走しており、山名軍の播磨国内への侵攻は防げず、更には援軍の来なかった備前福岡城も陥落してしまう。
 こうした事態に則宗は翌文明16年(1484年)には播磨に帰国し、政則に失望した国人領主をまとめ上げ、軍を再編。政則は和泉国へと出奔した。しかしながら則宗もまた政則を廃して有馬則秀(有馬元家の子)の子・慶寿丸に家督を継がせようと目論む内に国人層の分裂などを招く。則景もそんな中で浦上軍の将の一人として戦い、松田元成を討つなど赤松・浦上軍が勝利を収めることもあったが、最終的には国人層の分裂などによりまとまりを欠き、山名・松田軍に敵わず則景らも領国を追われることになった。
 京に逃亡した則宗は内々での抗争に収拾を付けなければ山名・松田軍に勝てないと判断し、将軍・足利義政の仲介で慶寿丸の赤松の惣領相続を白紙として政則と和解し、軍勢を再編し播磨奪還への体勢を立て直した。政則を奉じた事により分裂状態を解消した赤松・浦上軍は山名・松田軍に対して戦局を優位に進めていたが、文明17年(1485年)6月4日に行われた播磨片島の戦いにおいては赤松・浦上軍は大敗してしまい、則景はこの戦で命を落とした。享年33。

 

 赤松氏の重臣で、主君・赤松義村から偏諱を受けて村宗と名乗るも、則宗以来の強大な勢力を義村から警戒されたため排斥を受け、その攻撃を度々跳ね返すうちに播磨・美作・備前の実権を握り、義村も死に追いやった。義村の子・政村(政祐)を半ば傀儡化するなど勢威を極めるも、播磨には堺公方と細川晴元と連携した反対勢力も多く、守護を凌駕する権力としては不十分であった。その克服も含め、将軍・足利義晴,管領・細川高国の要請を受けて、3ヶ国の兵を率い播磨の反対勢力や近畿を制圧する東上作戦の過程で政村の裏切りにより大物崩れの大敗となり、討ち死にした。
 浦上則景は、細川氏家臣であった安富新兵衛から養子を取り祐宗と名乗らせ家督を継がせたが、早世したとみられる。村宗は元々は浦上氏の家督であった浦上則永の孫で、父は備前守護代であった浦上宗助であり、その血筋と備前守護代としての勢力を背景に家督を相続した。
 主家では赤松政則の死後、その養子である赤松義村が幼年であったこともあり、政則後室である洞松院の後見や、浦上氏などの支持を受ける形で播磨・備前・美作の守護職に就いた。永正14年(1517年)、この頃よりようやく政務に参加するようになった義村は、2人の宿老(浦上村宗,小寺則職)と義村の3人の側近(櫛橋則高,志水清実,衣笠朝親)から構成される新体制を布く。しかし、この新体制に村宗は反発するが、則職含め4人と対立していく。やがて彼らの讒言で出仕差し止めという仕置きを下されてしまった。
 このように、あからさまな赤松氏の権力機構からの排斥行為に怒った村宗は、宇喜多能家などの家臣らと共に備前へと帰り、三石城に籠もって赤松氏への反旗を翻した。永正16年(1519年)冬、この謀反を自身の更なる権力強化の好機と捉えて征伐軍を動員した義村は三石城を包囲。しかし、村宗も赤松氏と敵対関係にあった備前の最大国人 松田元陸と密かに結ぶなど対策を講じていた。結局、後詰めに元陸が現れるとの報も功を奏し、要害の地に築かれた堅守の三石城を攻めあぐねていた義村の撃退に成功した。
 当初は赤松派討伐軍の優勢に思われたが、村宗の命を受けた宇喜多能家が遊撃戦で赤松軍を撹乱。また、中村則久が籠もる岩屋城も堅牢で、十分な備蓄により200日余の包囲を耐えしのぎ陥落しなかった。やがて決め手が無いまま美作へと兵を送る赤松軍に対して、村宗は一転して松田元陸と共に本格的な攻勢に転じ、美作へ出征してきた赤松軍の背後を襲撃。討伐軍を壊滅に追い込む。この勝利により義村の威信失墜に影響を与え、主従の武力関係すら逆転させた村宗はその後、播磨への反撃侵攻に転じている。やがて同年11月には義村から嫡子・才松丸を引き渡させた上に、義村自身を強制隠居にまで追い込んだ。そして、当時8歳の才松丸改め赤松政村(後の赤松晴政)に赤松氏の家督を継がせると、自らこの後見人となった。永正18年(1521年)の正月、足利亀王丸を奉じた義村が再挙兵するも、これを撃破。亀王丸の確保を目論む村宗は、嘘の和睦の持ちかけに応じた義村を和解の席で捕縛し播磨の室津に幽閉し、同年9月には、刺客を放って幽閉先の義村を暗殺させた。これにより名実共に、播磨・備前・美作の支配権を奪って戦国大名への道を歩み始めた。その頃、亀王丸は管領の細川高国に請われて上洛を果たすと、足利義晴として征夷大将軍となっている。
 ただ、影響力を拡大させた浦上氏ではあったが、その権力の拠り所は未だ赤松氏に依存する所が大きく、完全に下克上を果たしたとは言えず、結局の所は赤松の当主に傀儡を立てて、その影で権力を行使するという形でしか支配の正当性を担保できなかった。
 当初は、東播磨で村宗と対立してきた別所村治を破って三木城を占拠すると、播磨の鎮圧に派遣されていた細川晴元派の重鎮である柳本賢治を刺客によって殺害。播磨での勢いのまま進撃し摂津国の池田城を攻略するなど、高国の再入京を後押しするほど優勢であった。ところが享禄4年(1531年)、晴元たち敵対勢力の中枢である堺公方府への遠征(中嶋の戦い)で手間取り、膠着状態に陥る。そして、同年6月、晴元や三好元長に天王寺で敗北しただけでなく、討死してしまう(大物崩れ)。なお、この勝敗の帰趨を決したのは、増援であったはずの政祐(政村より改名)に裏切られ、背後から攻撃されたことであった。政祐のこの行動は、父の無念を晴らし、かつ守護としての実権を取り戻すためと説明されることが多い。
 村宗の死後、家督は幼少の嫡男・虎満丸(後の政宗)が継いだ。以後も赤松・浦上両氏は対立・和睦を繰り返している。 

浦上政宗 浦上清宗

 浦上村宗の敗死後、家督を相続したが、尼子氏への対応を巡って備前で独立した弟・浦上宗景との対立に明け暮れた。
 享禄4年(1531年)、父・村宗が摂津天王寺で戦死したことにより以降家督を相続。この頃まだ幼少の身であった虎満丸は、天文7年(1538年)頃まで一族の浦上国秀の後見を受ける。
 当初は父の仇ともいえる赤松政祐とは激しく対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続ける。しかし、天文6年(1537年)に尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まると政祐と和睦。政祐と共にこれに対するも国衆の離反にあって敗北し、備前国から播磨国への撤退を余儀なくされ、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。
 その後、天文9年(1540年)初頭頃、政祐が将軍・足利義晴から偏諱を賜って、晴政に改名。同時に虎満丸も元服、晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗った。
 しばらく雌伏の時が続くが、詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと、天文11年(1542年)に幕府の助力を得て、晴政と共に播磨に復帰。天文13年(1544年)頃までに、播磨・備前の両国を回復する事に成功した。ここに至るまでの過程で、政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。また、さらに独自に備前西部の松田氏,税所氏らと縁組し室津の室山城を拠点として備前・播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。
 天文20年(1551年)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり、弟の宗景と意見が分かれる。そこで政宗は尼子晴久,松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立した。備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山勝政など)が現れ、備前の覇権を賭けて争うことになる。
 しかし、天神山城や新庄山城などで相次いで敗北。敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま、弘治年間(1555~57年)のうちに備前での勢力を大きく後退させてしまう。この間、政宗は尼子晴久にたびたび支援を要請するも晴久の急死により、尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待できない状況へと追い込まれた。
 永禄元年(1558年)、勢力の弱まった政宗は、足利義輝の仲裁で毛利との和睦の道を探る。また、同年中に自身の復権を目指し、赤松晴政を廃して、子の赤松義祐へと強制的に家督を継がせることに成功している。しかし一方で、追放された晴政が娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼ったことにより、龍野赤松氏が独立勢力化し、新たな火種を産むこととなった。
 永禄6年(1563年)、10年以上にわたり対立していた宗景と和睦が成立し、播磨の黒田職隆と縁組して再起を図る。永禄7年(1564年)1月11日、政宗は室山城にて、息子の清宗と職隆の娘の婚礼が行われている最中、あるいは婚礼当日の夜に赤松政秀(または赤松晴政)の奇襲を受けて、父子ともに戦死した。 

 永禄7年(1564年)1月11日、黒田職隆の娘を室に迎える婚礼当日、あるいは婚礼当日の夜に、置塩城主・赤松晴政の攻撃をうけ、室山城にて父・政宗と共に討死した。ただし、没年を弘治2年(1556年)とする説もある。妻は城主を継いだ弟・誠宗に再嫁している。

 

浦上誠宗 浦上直宗

 父・浦上政宗と兄・清宗の死後、家臣である江見河原源五郎らに室津城主に擁立される。また兄の室になるはずだった黒田職隆の娘を娶り、久松丸を儲けた。
 しかし、播磨国内での勢力拡大を恐れた、叔父・浦上宗景の意を奉じた江見河原によって暗殺され、これにより室津の浦上家は没落した。

 守護・赤松氏の本拠である置塩城に住んだとされる。9歳になった時、備前国で大叔父・浦上宗景と対立する宇喜多直家により、正統な浦上家の当主として擁立され、岡山城へ迎えられた。この際、直宗という諱を名乗ったとされている。その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国に退去した。
 天正元年(1573年)、東播磨の三木城主・別所長治の後援を受けて、増位山にて黒田職隆の配下・小寺休夢を攻撃する。職隆・休夢らは有明山城に入って交戦するが、別所勢はこれを破った。
 一方で、久松丸も間もなく直家に毒殺されたとも伝えられる。

浦上宗景 浦上宗辰

 父の村宗が享禄4年(1531年)の大物崩れで戦死した後、幼少の兄・政宗が家督を相続していたが、天文20年(1551年)の尼子晴久の備前侵攻への対応をめぐって兄と意見が分かれた宗景は、尼子氏の脅威にさらされている国衆と団結して独自の体制を構築し、尼子氏に与する兄と袂を分かった。
 天文23年(1554年)頃、天神山城で旗揚げした宗景は、安芸国の毛利元就と同盟し、毛利氏やこれに従う備中国の三村家親の援軍を得ると、各地で政宗・尼子連合軍を撃破し、永禄3年(1560年)頃には政宗の勢力を備前東部から駆逐して備前の支配権を握った。ただ、この段階では、毛利氏の庇護下にあって内政でも介入を受けていたため未だ自立した戦国大名とは言い難かった。
 北隣の美作国への勢力拡大に動き出した三村氏と軋轢が生じると、永禄6年(1563年)5月頃、国内で弱体ながらもなお勢力を保っていた兄・政宗と和睦した宗景は、三村家親と戦闘に突入。同年12月までには毛利氏とも断交して戦国大名として自立する。
 永禄7年(1564年)、政宗とその嫡男・清宗が赤松政秀(または赤松晴政)に殺害されて誠宗(清宗の弟)が跡を継ぐ一方、宗景は明善寺合戦での勝利などを経て永禄10年(1567年)に備前から三村・毛利の勢力を一掃すると、誠宗を暗殺して惣領の地位に立つ。永禄11年(1568年)には有力国人の松田氏を滅ぼし、瀬戸内海の児島を除く備前全域と美作東南部に版図を拡大させた。
ただ、それまでの合戦で大きな軍功を上げた宇喜多直家やその家臣の岡氏,長船氏は独立性が強い。
 永禄12年(1569年)、政宗の遺領を吸収して西播磨に侮り難い勢力を築いていた赤松政秀を討つため、宗景は播磨国旧守護家の赤松義祐や赤松則房らの救援を名目に西播磨へ侵攻した。毛利氏に滅ぼされた尼子氏の再興を目指す尼子勝久など反毛利勢力も積極的に支援し、さらに九州の大友宗麟とも同盟して毛利氏への対抗姿勢を露わにする。
 宗景の攻撃に耐えかねた赤松政秀は、前年に上洛を果たした将軍・足利義昭と織田信長に救援を要請した。8月から9月にかけて宗景は幕府の派遣した池田勝正,別所安治の攻撃を受ける。これに内通した宇喜多直家も反旗を翻し、宗景は窮地に立たされた。しかし、幕府方は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に宗景は赤松政秀の龍野城を追い詰めて11月に降し、政秀の版図を手中にする。備前国内に孤立した宇喜多直家は、その年のうちに宗景に謝罪して帰参を許された。
 元亀3年(1572年)、大友宗麟との競り合いにけりがついた毛利氏が一丸となって東進して来ると、宗景は足利義昭,織田信長に仲裁を頼んで和睦をはかった。毛利輝元は初めは和議に応じなかったが、10月に講和が成立して双方の城の明け渡しが行われた。天正元年(1573年)12月、信長の計らいによる別所長治との和解の席で宗景は信長から朱印状を与えられ、備前・播磨・美作3ヶ国の支配権を認められる。宗景は、ここに旧主赤松氏を凌ぎ、守護職に相当する地位を得て浦上氏隆盛の頂点を見る。
 しかしながら、この3ヶ国の支配権は浦上氏の基盤が無い播磨東部の小寺氏や別所氏らも服属させるものであり、宗景は意図せず彼らの反感を買うこととなった。この対立関係に目を付けたのが宇喜多直家で、小寺政職が預る政宗の孫・久松丸の備前入りを密かに打診し、政職の承諾を得て宇喜多領へと引き入れている。天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が久松丸を擁立して再び離反し、備前・美作の各地で宇喜多軍と宗景の直参「天神山衆」が争う。宗景もすぐに外交戦を展開し、備中の三村元親や美作の三浦貞広などを同盟に引き込んだ。しかし、大友宗麟,三好長治への援軍要請は不調に終わる。久松丸の存在と直家の事前の諜略により沼本氏や菅納氏など美作国衆や備前の宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、宗景は苦戦を余儀なくされる。これを傍観していた毛利輝元も宇喜多支援を決定した。
 天正3年(1575年)6月、毛利軍は三村元親を攻め滅ぼして「備中兵乱」と呼ばれた一連の戦いを平定して直家支援を本格化させ、宗景は追い詰められる。さらに、宗景は重臣の明石行雄等の離反に遭い、9月には天神山城から宇喜多軍の包囲を掻い潜り脱出して、いったん播磨の小寺政職の下へ退却。その後、宗景は信長の派遣した荒木村重の支援を得て、宇喜多端城(所在地不明)を奪回し、以後はここに在城した。
 天神山城を追われた宗景であったが、その後も播磨国を拠点に坪井氏・馬場氏などの旧臣と密に連絡を取り合い、一族の浦上秀宗と共に備前国内でも暗躍して再起の機会を伺っていた。天正6年(1578年)12月頃にいったんは天神山城の奪還に成功したが程なく鎮圧されたものと思われる。備前にわずかに残っていた浦上方勢力は一掃され、宗景の備前復帰は果たせなかった。
 宗景の晩年については確実な史料は残されておらず、没年も定かではない。天神山記の伝承によると、黒田長政の誘いで筑前国に下向し、出家して同地で70~80余歳で病死したとされる。

 備前国の戦国大名・浦上宗景の嫡男として生まれる。家臣の宇喜多直家が離反し、後に和睦した際に、その娘を妻として娶った。
 天正3年(1575年)、三村氏を滅ぼして宿願を果たしたが、その後、機嫌を伺いに岡山城へ赴いた際、天神山城に帰ったが、同日に死去。舅・宇喜多直家による毒殺であった。
 当時の文書などでは一切実在が確認できず、また遺されている墓に伝わる伝説や没年なども、近年の畑和良などの研究者によって否定されつつある「1577年宗景追放説」に従って作られており、宗辰の存在が疑問視されている。 

浦上玉堂 浦上春琴

 江戸時代の文人画家、備中岡山藩支藩の鴨方藩士(50歳の時に脱藩)。諱は孝弼であるが、35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七絃琴を得て「玉堂琴士」と号した。
 延享2年(1745年)、岡山藩の支藩鴨方藩の藩邸(藩邸跡には岡山県立美術館が建つ)に生まれる。系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているようである(『浦上家系図』では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。
 鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であった傍ら、若年より学問・詩文・七絃琴などに親しみ、膨大な蔵書を有する「経誼館」も営んでいた岡山城下の豪商河本家,大坂の豪商かつ文化人であった木村蒹葭堂と付き合いがあり、そこに出入りする文人墨客とも交流があったとみられる。50歳の時に武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年前に亡くなっていた)。玉堂本人は岡山の土を二度と踏むことはなかったが、春琴は何度か訪れ、孫が浦上家再興を許されている。
 以後は絵画と七絃琴を友に諸国(江戸,京都,大坂,信濃など)を放浪。晩年の文化10年(1813年)、春琴一家とともに京都に落ち着いた。画作や各地での滞在には文人間のネットワークが生きたほか、書画を斡旋したり、保科正之を祀る土津神社の神楽復活のため招かれた会津藩に息子の秋琴を仕官させたりするなど経済面への配慮も怠らなかった。長崎では大田南畝(蜀山人)、広島では頼春水、金沢では寺島蔵人、大坂では田能村竹田と面会・同宿している。
 特に60歳以降に佳作が多い。代表作の『東雲篩雪図』(国宝)は川端康成の愛蔵品として知られる。

 江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国岡山に生まれる。
 幼少の頃より父・玉堂より書画の手ほどきを受ける。寛政6年(1794年)、玉堂が脱藩し、父子で諸国を歴遊する。同年4月8日、15歳のときに皆川淇園の門人となり、父玉堂も同年5月6日、淇園の受業生となる。文化3年(1806年)6月12日、熊本から東上の途中、父の玉堂および弟の秋琴と一緒に広島の頼家を訪れた折、頼山陽と邂逅している。
 その後、崎陽で来舶清人と交流して舶載の古画を臨写し、長崎遊学より京都へ戻ると、上加茂の祠官藤木大隅守数顕の娘・滝(24歳)と結婚し、文化10年(1813年)より玉堂と同居し、夫婦で世話をする旁ら、本格的な画業に専念するようになる。以後は京都に定住して山陽グループの活動を支え、頼山陽や田能村竹田,岡田米山人,岡田半江,篠崎小竹,貫名海屋,柏木如亭,武元登々庵ら著名な文人との交わりを深める。天保3年(1832)に頼山陽が死去して以来、弘化3年(1846)に亡くなるまで、その後継者たちの教育に専念した。
 弘化3年(1846年)5月没、享年68。墓所は本能寺にあり、篠崎小竹の著した碑が東山長楽寺山中に建っている。

浦上国秀

 『紀姓堀田系図』では浦上国宗の子、他説には浦上則宗の子(弟とも)、浦上則国の一族であると伝わるが、いずれも後年作られた系図などの記録であり良質な史料の記録ではない。「近江守」の継承が行われていると推測し、浦上宗助の子、すなわち浦上村宗の弟であると位置づける説も近年浮上している。
 享禄4年(1531年)、当主・浦上村宗が大物崩れで戦死すると、その嫡子・虎満丸(後の政宗)がその跡を継いだが、虎満丸はまだ幼少の身であったため、国秀が後見人を務めた。村宗の死から10年ほどの間の浦上氏の発給文書は国秀署名の物が殆どで、言わば虎満丸が成長するまでの当主代行的な地位にあったとされている。その後、政宗が成長すると三奉行の一員として島村盛貫,角田佐家と共にこれを補佐した。
 政宗が成長した天文19年(1550年)以降も重臣として権勢をふるい、天文19年以降の様々な文書に島村盛貫らと共に連署している。その後の政宗と弟の宗景が対立した際には政宗に従って出陣し宗景と争い、その後は政宗を裏切り宗景に寝返ったと伝わる。しかし、それを裏付ける史料は一切見つかっていない。
 浦上氏分裂後は殆ど発給書状等が無く失脚した可能性が高いが、元亀2年(1571年)12月2日付けの『善福寺文書』には国秀の名前が再び登場し、当人の花押付きで残されている。この当時の国秀が摂津においてどういう立場で如何なる権限でこうした書状を発給していたのかの詳細は不明だが、晩年は播磨から離れていたようである。