醍醐朝初頭の昌泰元年(898年)に文章生に補せられる。治部丞,兵部丞,式部丞や六位蔵人を経て、延喜9年(909年)従五位下・刑部少輔に叙任された。 中務少輔・少納言を務め、延喜17年(918年)従五位上に昇叙される。延喜19年(919年)右少弁に遷ると、延喜21年(921年)左少弁、延喜22年(922年)正五位下・右中弁、延喜23年(923年)左中弁、延長3年(925年)従四位下、延長8年(930年)従四位上、承平3年(933年)右大弁と醍醐朝後半から朱雀朝にかけて長く弁官を務め昇進を果たした。 承平4年(934年)参議に任ぜられて公卿に列す。議政官になったのちも左右大弁を兼ねて弁官在職は20年にも及び、この間の天慶元年(938年)正四位下、翌天慶2年(939年)8月に従三位と昇叙されている。同年9月11日薨去。享年71。
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細見氏の祖という大丞は、足利義満の重臣で丹波山国に蟄居していた細川頼之に見いだされ、頼之に仕えるようになった。以後、頼之にしたがって功があり、兎原・多紀あわせて十六村を知行した。そのため、長谷村も細見村と呼ばれるようにあったのだという。ところで、細見姓は細川氏の一字をもらったともいい、細見氏の家紋「三つ星」は細川氏の家紋「九曜」の三分の一を賜ったと伝えている。 細川氏と細見氏の関わりの真偽は分からないが、細川氏が丹波守護を世襲するようになると、細見氏も他の丹波諸領主とともに細川氏の麾下に属するようになったことは疑いない。また、『幻の鎌谷城と丹波薬師寺』によれば、細見頼春が鎌谷城に拠り勢力をもっていたという。頼春の名乗りが頼之に通じているところも、細見氏と細川氏の関係が背後にあるように思われる。
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