KI33:堀田俊重 | 紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 ― 堀田俊重 ― 堀田正盛 | KI34:堀田正盛 |
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堀田正盛 | 堀田正信 |
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堀田氏は本姓紀氏であり、尾張中島郡の国人として、斯波氏・織田氏に服属した幕下層であったことは確実である。天正10年(1582年)6月の本能寺の変後は豊臣秀吉に臣従したが、『寛政重修諸家譜』などでは堀田氏が豊臣恩顧の家柄であったことを明白に記すことを避けており、記述は乏しい。 |
寛永8年(1631年)、下総佐倉藩初代藩主・堀田正盛の長男として誕生した。慶安4年(1651年)8月14日、父・正盛が江戸幕府第3代将軍・徳川家光の死に伴い殉死したため、遺領の下総12万石(10万石,15万石とも)を相続した。藩主在任中に佐倉惣五郎事件が発生している。
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堀田正休 | 堀田正陳 |
万治3年(1660年)11月3日、父が罪を犯して改易されたが、正休は幼少であることと祖父の堀田正盛が幕府創設期の功臣であるということから、米1万俵を与えられた。しかし成長してからの延宝5年(1677年)6月、正休は父に連座して閉門処分に処せられた。延宝8年(1680年)に父が配流先の徳島で自殺したため蟄居したが、その後に許されて天和元年(1681年)に大番頭、翌年3月には徳川綱吉の子・徳松の側役に任じられ、1万石の所領を与えられて吉井藩主となった。 |
享保4年(1719年)10月18日、父の死去により跡を継ぐ。享保6年(1721年)4月15日、将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保8年12月18日(1724年1月13日)、従五位下・出羽守に叙任する。享保12年(1727年)2月28日、大坂加番を命じられる。大坂守衛のときに正陳の家臣が公金横領という不正を行なっている。 |
堀田正養 | 堀田正英 |
出羽亀田藩主・岩城隆喜の9男。正室は堀田正誠の娘。文久3年(1863年)7月4日、養父・正誠の死去により、末期養子として家督を相続した。同年7月21日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年11月26日、従五位下・豊前守に叙任する。後に出羽守,豊前守に改める。元治元年(1864年)7月、大坂加番を命じられる。 |
寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の4男として生まれる。寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となる。慶安4年(1651年)に父が家光に殉死すると、家督は長兄の正信が継いだが、このとき父の遺領から常陸国内で5000石を分与された。 |
堀田正親 | |
寛文8年(1668年)、常陸国北条藩主・堀田正英の長男として誕生。正室は松平直矩娘。延宝4年(1676年)に徳川家綱に拝謁し、天和元年(1681年)には従五位下・土佐守に叙任される。 |