<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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堀田正盛 堀田正信

 堀田氏は本姓紀氏であり、尾張中島郡の国人として、斯波氏・織田氏に服属した幕下層であったことは確実である。天正10年(1582年)6月の本能寺の変後は豊臣秀吉に臣従したが、『寛政重修諸家譜』などでは堀田氏が豊臣恩顧の家柄であったことを明白に記すことを避けており、記述は乏しい。
 堀田正貞の庶子・正秀は前田利家に仕えた。その惣領の正吉は小早川秀秋の家臣となったが、秀秋が改易された慶長7年(1602年)から、幕府に召し抱えられた慶長10年(1605年)までの3年間の正吉の足跡については『寛政重修諸家譜』に記述がなく、伯父の堀田道空が重臣として仕えた豊臣秀頼の城地・大坂に身を寄せたとする説が有力である。こののち正吉は幕臣となり700石の旗本となったが、大坂の陣では伯父を敵に回しながら奮戦して1000石に加増された。その家督を継いだのが正盛である。
 正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、酒井重澄と並ぶ寵臣として短時日において破格の出世に至る。寛永3年(1626年)には小姓組の番頭となる。この当時は4000石から5000石級の旗本の任だったが、同年中に相模及び常陸国内にあった計5000石の領地に加えて、上野国内にも新恩5000石を与えられ、譜代大名として諸侯に列する。寛永10年(1633年)3月23日に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)となると、その後に相模・常陸・甲斐にそれぞれ5千石を得て、2万5千石で城主格となる。その後も家光に深く寵愛され、寛永12年(1635年)3月1日に老中に就任し、3万5千石をもって武蔵川越藩主となり、はじめて城主となる。
 寛永15年(1638年)3月8日、6万5000石を加増されて10万石となり信濃松本藩に転封、老中の実務を免ぜられて家光の御側に回り、中根正盛と共に老中のまま大政参与となり家光を輔佐した。幕政に参画していたため松本藩の藩政にはほとんど関与せず、入国したのも入封した年の1回のみである。寛永19年(1642年)7月16日には1万石を加増されて下総佐倉藩に転封、母方の従弟に当たる相模小田原藩主・稲葉正則の後見も務めたが、家光の死去にともない慶安4年(1651年)4月20日に阿部重次と共に殉死した。享年44。墓所は東京都品川区の東海寺。

 寛永8年(1631年)、下総佐倉藩初代藩主・堀田正盛の長男として誕生した。慶安4年(1651年)8月14日、父・正盛が江戸幕府第3代将軍・徳川家光の死に伴い殉死したため、遺領の下総12万石(10万石,15万石とも)を相続した。藩主在任中に佐倉惣五郎事件が発生している。
 万治3年(1660年)10月8日、突然「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之,阿部忠秋宛てに提出し、無断で佐倉へ帰城した。その後まもなく、幕法違反の無断帰城について幕閣で協議がされた。正信の上書や行動に同情的意見もあったが、老中・松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」に当たるが、狂人ならば免除できるという理屈)で合意がなされ、同年11月3日には処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主・脇坂安政に預けられた。正信が佐倉へ無断帰城した動機については、信綱との確執や正室の叔父の松平定政が起こした出家遁世事件との関係も指摘されるが、不明。
 寛文12年(1672年)5月、安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主・酒井忠直に預け替えられる。しかし延宝5年(1677年)6月14日、密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝した。これにより嫡男・正休と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。配流中には『忠義士抜書』『楠三代忠義抜書』『一願同心集』などを著した。
 延宝8年(1680年)5月、第4代将軍・徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島にて鋏で喉を突き自殺した。遺骸は江戸へ入ることを許され、菩提寺の金蔵寺に葬られた。正信を預かっていた徳島藩主・蜂須賀綱矩(綱通の従弟)は閉門、正休は正信の自殺で蟄居していたが、やがて両者は罪を許され、正休は後に近江宮川藩1万石の大名に取り立てられて、子孫は明治まで続いた。

 

堀田正休 堀田正陳

 万治3年(1660年)11月3日、父が罪を犯して改易されたが、正休は幼少であることと祖父の堀田正盛が幕府創設期の功臣であるということから、米1万俵を与えられた。しかし成長してからの延宝5年(1677年)6月、正休は父に連座して閉門処分に処せられた。延宝8年(1680年)に父が配流先の徳島で自殺したため蟄居したが、その後に許されて天和元年(1681年)に大番頭、翌年3月には徳川綱吉の子・徳松の側役に任じられ、1万石の所領を与えられて吉井藩主となった。
 その後は奏者番となる。元禄11年(1698年)3月7日、近江宮川藩に移封され、正徳5年(1715年)6月29日、老齢を理由に3男の正朝に家督を譲って隠居し、正休と改名する。
 享保16年(1731年)7月12日、77歳で死去した。墓所は東京都台東区浅草の金蔵寺。

 享保4年(1719年)10月18日、父の死去により跡を継ぐ。享保6年(1721年)4月15日、将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保8年12月18日(1724年1月13日)、従五位下・出羽守に叙任する。享保12年(1727年)2月28日、大坂加番を命じられる。大坂守衛のときに正陳の家臣が公金横領という不正を行なっている。
 享保19年(1734年)8月28日、大番頭に就任する。延享2年(1745年)7月1日、若年寄に就任する。在任中の延享4年(1747年)8月15日、肥後熊本藩主・細川宗孝が正陳の従弟に当たる板倉勝該に暗殺されたため、連座で処罰を受けた。
 寛延元年(1748年)10月15日、近江国内で3000石の加増を受けた。宝暦元年(1751年)6月20日、大御所・徳川吉宗の死去により、若年寄を解任される。以降、雁の間詰めを命じられる。宝暦3年(1753年)10月4日、45歳で死去し、跡を長男の正邦が継いだ。墓所は東京都台東区の金蔵寺。 

堀田正養 堀田正英

 出羽亀田藩主・岩城隆喜の9男。正室は堀田正誠の娘。文久3年(1863年)7月4日、養父・正誠の死去により、末期養子として家督を相続した。同年7月21日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年11月26日、従五位下・豊前守に叙任する。後に出羽守,豊前守に改める。元治元年(1864年)7月、大坂加番を命じられる。
 慶応4年(1868年)2月16日、新政府から一時的に領地を没収される。領地は近江彦根藩の管理となる。同年3月2日、新政府から謹慎を命じられる。同年4月22日、上洛する。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により宮川藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免官される。同年9月、東京に移住。
 明治11年(1878年)12月、東京府会議員選挙に際し、浅草区から出馬、当選する。明治12年(1879年)3月、府会副議長に就任する。明治13年(1880年)1月、東京府赤坂区長に就任した。明治14年(1881年)6月下谷区長、8月深川区長に転じた。明治17年(1884年)7月8日、子爵になる。明治22年(1889年)2月27日、免職となる。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれる。研究会に所属し、連続して3期にわたって議員に選ばれた。明治41年(1908年)3月25日、第一次西園寺公望内閣の逓信大臣に就任。滋賀県初の大臣となった。同年7月西園寺内閣総辞職にともなって退任する。だが、堀田の入閣は研究会の事実上の指導者であった清浦奎吾の進める超然主義路線を否認するものであるとの非難を受け、明治42年(1909年)4月17日、所属していた研究会を除名される。明治44年(1911年)5月9日、64歳で死去した。 

 寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の4男として生まれる。寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となる。慶安4年(1651年)に父が家光に殉死すると、家督は長兄の正信が継いだが、このとき父の遺領から常陸国内で5000石を分与された。
 万治2年(1659年)に中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられる。寛文11年(1671年)に書院番頭、延宝4年(1676年)に大番頭と要職を歴任する。延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられ、3000石を加増された。天和元年(1681年)に若年寄に任じられ、天和2年(1682年)2月29日に5000石を加増されて合計1万3000石で大名に列し、常陸北条藩主となった。
 貞享2年(1685年)に奏者番に任じられる。貞享5年(1688年)7月3日に死去した。享年51。死後、生前に幕府に提出されていた嘆願状により、遺領の1万3000石のうち、3000石は次男の正矩が、2000石は3男の正章が継いだ。しかし、長男の正親については何も記されていなかったため、残り8000石は幕府により収公され、常陸北条藩は廃藩となった。

堀田正親

 寛文8年(1668年)、常陸国北条藩主・堀田正英の長男として誕生。正室は松平直矩娘。延宝4年(1676年)に徳川家綱に拝謁し、天和元年(1681年)には従五位下・土佐守に叙任される。
 本来なら常陸北条藩2代藩主となるはずだったが、元禄元年(1688年)に父・正英が死去した際、正英が生前に幕府に提出していた嘆願状には、弟の正矩や正章のことは記されていたものの、正親のことは言及していなかったため改易された。父の死後、家督を相続してから改易されたとの説もある。正矩は3000石、正章は2000石の旗本としてそれぞれ存続した。
 正親は陸奥国福島藩主の堀田正仲の元に預けられ、次の堀田正虎の時に出羽国山形藩に移封になったのに伴い同地に移った。