KI34:堀田正盛 | 紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑光 ― 堀田俊重 ― 堀田正盛 ― 堀田正俊 | KI35:堀田正俊 |
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堀田正俊 | 堀田正仲 |
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寛永11年(1634年)11月12日、老中・堀田正盛の3男として生まれる。寛永12年(1635年)に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となり、その縁から寛永18年(1641年)、家光の嫡男・竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した。寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。 |
寛文2年(1662年)、当時は上野国安中藩主で老中であった堀田正俊の長男として誕生。貞享元年(1684年)8月、父が稲葉正休に暗殺されると、大久保忠朝や阿部正武らと協力して正休を討った。同年10月、家督を継ぐ。このとき、双子の弟の正虎に2万石(下野国大宮藩)を分与し、正高に1万石(下野佐野藩)を分与したため、自らの所領は10万石となった。 |
堀田正虎 | 堀田正亮 |
寛文2年(1662年)7月19日、大老・堀田正俊の次男として誕生した。延宝3年(1675年)、4代将軍・徳川家綱に拝謁し、延宝9年(1681年)6月1日に中奥詰の御小姓となる。天和2年(1682年)に従五位下・伊豆守に叙任する。貞享元年(1684年)に正俊が暗殺されると、家督は双子の兄である正仲が継いだが、このとき父の遺領から2万石を分与されて大宮藩主となった。 |
堀田正俊の4男・堀田正武の長男。父が幼い時に死んだため、伯父の山形藩主・堀田正虎に養子に迎えられ、享保14年(1729年)の正虎の死後に3000石を与えられ旗本として別家を立てた。正虎の跡を継いだ正春が嗣子を残さずに早世した際、養子となり家督を継いだ。 |
堀田正愛 | 堀田正睦 |
寛政11年(1799年)1月13日、堀田正功の長男として誕生した。正功は享和2年(1802年)に早世したため、3代藩主には叔父の堀田正時が就任した。正時が文化8年(1811年)に死去すると、その養子として家督を継いだが、この際に今度は正時の末子として前年に誕生していた正睦を世子に立て、藩主の座を正時系に譲ろうとしている。 |
文化7年(1810年)8月1日、佐倉藩3代藩主・堀田正時の次男(末子)として江戸藩邸にて誕生した。正時の死去後、藩主は嫡系の正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名は正篤。 |
堀田正倫 | |
5代藩主で幕末の老中・堀田正睦の4男として誕生した。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争に敗れて失脚したため家督を譲られて藩主となった。幕府に対する忠誠心は父譲りなのか、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願したが、新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態にされた。このため、藩主不在となった佐倉藩は危機を迎えたが、家老の平野縫殿が新政府軍に与して大多喜藩に出兵したため、何とか改易は免れた。 |