<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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堀田正俊 堀田正仲

 寛永11年(1634年)11月12日、老中・堀田正盛の3男として生まれる。寛永12年(1635年)に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となり、その縁から寛永18年(1641年)、家光の嫡男・竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した。寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。
 慶安4年(1651年)、家光の死去に際して父・正盛が殉死すると、遺領のうち下野新田1万石を分与され、守谷城1万3000石の大名となる。同時に従五位下・備中守に叙位・任官する。その後も4代将軍・家綱の時代に順調に昇進し、明暦2年(1656年)に稲葉正則の娘と結婚、正則の後見を受けて万治3年(1660年)には奏者番となり、上野安中藩2万石を与えられた。同年に長兄の堀田正信が改易されたが、お咎めは無かった。寛文10年(1670年)に若年寄となり、延宝7年(1679年)に老中に就任し、2万石の加増を受けた。
 延宝8年(1680年)、家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を推したという。綱吉が5代将軍に就任すると大手門前の忠清邸を与えられ、天和元年(1681年)12月11日、忠清に代わって大老に任ぜられる。就任後は牧野成貞と共に「天和の治」と呼ばれる政治を執り行ない、特に財政面において大きな成果を上げた。
 しかし貞享元年(1684年)8月28日、従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内で刺殺された。享年51。幕府の記録によれば発狂のためとされるが、事件は様々な臆測を呼び、大坂淀川の治水事業に関する意見対立や、将軍・綱吉の関与も囁かれた(正俊は生類憐れみの令に反対,正俊の発言力)
 家督は長男の正仲への相続が許されるが、屋敷地や所領は移転されている。墓所は浅草の金蔵寺にあったが、1936年に佐倉市新町の安城山不矜院甚大寺に移され正睦,正倫の墓とともに並ぶ。
なお、この事件以降、老中・若年寄の幕閣が政務を行う場所は、将軍の応接所である中奥御座之間から、表と中奥の間に新たに設けられた御用部屋に移動した。このため綱吉と幕閣の間に距離が生じ、両者を取り次ぐ柳沢吉保,牧野成貞ら側用人が力を持つようになっていく。

 寛文2年(1662年)、当時は上野国安中藩主で老中であった堀田正俊の長男として誕生。貞享元年(1684年)8月、父が稲葉正休に暗殺されると、大久保忠朝や阿部正武らと協力して正休を討った。同年10月、家督を継ぐ。このとき、双子の弟の正虎に2万石(下野国大宮藩)を分与し、正高に1万石(下野佐野藩)を分与したため、自らの所領は10万石となった。
 貞享2年(1685年)6月、出羽山形に移封される。貞享3年(1686年)7月には陸奥福島に移封された。しかし、これらの移封は父が暗殺されたために行われた処罰的な移封であり、しかも福島藩は悪地が多く実高が低かったため、藩財政が窮乏した。このため、正仲は家臣団の解雇を始め、年貢や運上金を厳しく取り立てる重税の措置を執った。さらに、領民に対して特産物である絹織物に絹役、飯坂温泉を始めとする領内の各温泉に湯投銭を課すなど、様々な重税を強いて領民を苦しめた。しかし5代将軍・徳川綱吉からは寵愛され、「頗る功あり」とまで賞された。
 元禄7年(1694年)7月6日に死去した。享年33。跡を双子の弟・正虎が養子となって継いだ。 

堀田正虎 堀田正亮

 寛文2年(1662年)7月19日、大老・堀田正俊の次男として誕生した。延宝3年(1675年)、4代将軍・徳川家綱に拝謁し、延宝9年(1681年)6月1日に中奥詰の御小姓となる。天和2年(1682年)に従五位下・伊豆守に叙任する。貞享元年(1684年)に正俊が暗殺されると、家督は双子の兄である正仲が継いだが、このとき父の遺領から2万石を分与されて大宮藩主となった。
 元禄7年(1694年)に正仲が死去すると、その養子として福島藩を継ぎ、大宮藩は廃藩となった。
 ここまでに堀田家は同じ10万石でも実石高の高い古河から実入りの少ない山形、さらに実入りの少ない福島へと移されたため、転封の費用も含めて藩財政は逼迫、家臣らが困窮したため、大量の藩士を解雇した。この中には後に幕閣の大物となる新井白石も含まれる。
 元禄13年(1700年)には出羽山形に移封され、宝永7年(1710年)12月18日には従四位下に叙任される。享保13年(1728年)7月7日に大坂城代に任じられるが、翌年1月22日に任地に赴く旅中の伊勢亀山にて死去した。享年68。
 実子は早世していたため、従兄の堀田正休の5男・正直を養子としていたが、正直も早世したためその子・正春が跡を継いだ。また、弟・正武の子の正亮も養子に迎え、遺領のうち3000石が正亮に与えられた。
 将軍の意向を受け、生類憐れみの令を藩内で忠実に実行したと言われる。 

 堀田正俊の4男・堀田正武の長男。父が幼い時に死んだため、伯父の山形藩主・堀田正虎に養子に迎えられ、享保14年(1729年)の正虎の死後に3000石を与えられ旗本として別家を立てた。正虎の跡を継いだ正春が嗣子を残さずに早世した際、養子となり家督を継いだ。
 寺社奉行,大坂城代を経て老中,老中首座となる。老中在職中に宇和島藩主・伊達村候と仙台藩主・伊達宗村の争いを調停した。また、老中在職中の延享3年(1746年)に佐倉へ転封となり、以後は幕末まで正俊系堀田家による佐倉の支配が定着した。在職中に死去した。 

堀田正愛 堀田正睦

 寛政11年(1799年)1月13日、堀田正功の長男として誕生した。正功は享和2年(1802年)に早世したため、3代藩主には叔父の堀田正時が就任した。正時が文化8年(1811年)に死去すると、その養子として家督を継いだが、この際に今度は正時の末子として前年に誕生していた正睦を世子に立て、藩主の座を正時系に譲ろうとしている。
 佐倉藩では22万1160両の借金に悩まされていた。ところが、文政4年(1821年)に陸奥国白河藩の松平定信・定永親子から、江戸湾警備の負担に耐え切れないことを理由に、江戸湾に近い同規模の佐倉への転封希望が出された。正愛は移封が大きな負担になることを恐れて、若年寄だった同族の堅田藩主・堀田正敦と協力してこれを食い止めた。その見返りとして、白河藩に替わって佐倉藩が江戸湾警備にあたるとする密約が交わされたと言われる(実際、2年後に勘定奉行・遠山景晋より佐倉藩に対して、白河藩の桑名藩移封を理由に江戸湾警備の交替が命じられている)。そのため正愛は、向之益(藤左衛門)を用いて財政再建を主とした藩政改革を行なった。主な改革は質素倹約,藩債の整理,蔵元制度の改革などであったが、これらはいずれも効果がほとんどなかった。また、たび重なる外国船の出没に備えた海防警備強化により、江戸湾以外の房総沿岸も管轄に含まれることになり、さらなる財政負担が重くのしかかった。晩年は向之益の急死に加えて、自身も病気がちで政務が執れない状況にあったため、堅田藩の正敦が事実上の後見役に就いた。
 正愛自身は蒲柳の質、すなわち病弱で平時から薬餌を離さなかったが、文政5年(1822年)春には肝臓を患い、文政7年(1824年)秋には危険な状態になった。一方で正愛の実子は、文政2年(1819年)10月に側室との間に生まれるも翌年に早世した。このため、重臣の金井右膳が支藩の佐野藩から正敦の孫の正修を養子を迎えようとするなど、後継者問題でも混乱するが、正愛が死ぬ前の11月に老臣らを糾して、12月6日には正睦を正式に世子にすることを決定し、幕府の許しも得た。その直後の文政7年(1824年)12月28日に死去した。享年26。
 財政改革で行なった質素倹約は特に厳しいもので、自らもかなり質素にしていたという。そのため、譜代の名門小笠原家から嫁いできた最初の正室・鈴姫はあまりの質素さに驚いて離縁し実家に戻った。

 文化7年(1810年)8月1日、佐倉藩3代藩主・堀田正時の次男(末子)として江戸藩邸にて誕生した。正時の死去後、藩主は嫡系の正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名は正篤。
正愛の実子は早世し、正愛自身も病弱であったため、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正愛の後見を務めていた堀田一族長老の若年寄・堀田正敦の子を藩主に擁立しようとした。だが、藩内では物頭の渡辺弥一兵衛ら下級武士が金井に反対して対立。さらに正敦が養子を出すことを拒否したため、正篤が藩主に就任した。
 藩主となった正篤は、幕府の信任が厚い金井に時には掣肘を加えながらも、自らの家督相続を支持した渡辺を側用人に抜擢するなどして自らの権力を確立していく。天保4年(1833年)に金井が死去すると、藩主として独り立ちをして藩政改革を指揮する。正篤は藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどしたことから「蘭癖」と呼ばれたが、佐倉藩は南関東の学都とされ有為の人物を輩出する基礎を築いた。
 文政12年(1829年)4月12日に奏者番に任命されたのを始めに幕政に参画する。天保8年(1837年)に江戸城西の丸老中に任命され、加判に列した。11代将軍・徳川家斉没後の天保12年(1841年)3月23日に本丸老中に任命され、老中首座の水野忠邦が着手した天保の改革に参与する。しかし、忠邦の改革は失敗に終わると早くから見抜き、病気と称して辞表を提出している。 閏9月8日、辞任を認められて江戸城溜間詰となるが、これは老中辞任後も正睦に一定の幕政への発言力が残される結果になった(この5日後に忠邦が罷免)。
 老中を辞任後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
 安政2年(1855年)10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。ただ、阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てることで阿部が矢面に立つのをかわす意味合いもあった。
 安政3年(1856年)、島津家から13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
 安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなる。一方、同年の将軍後継ぎをめぐって徳川慶福を推す南紀派と、徳川慶喜を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々、水戸藩の徳川斉昭とは意見があわず、その子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が14代将軍に相応しいと考えていたようであるが、京都での勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。
 しかし、正睦が上洛中に老中・松平忠固,水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任し、直弼は正睦を始めとする一橋派の排斥を始めた。安政5年(1858年)6月23日には松平忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。
 安政6年(1859年)9月6日、正睦は家督を4男の正倫に譲って隠居し見山と号した。正睦のこの隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この10日ほど前の8月27日に岩瀬忠震や永井尚志ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われている(安政の大獄では正睦は不問に付されている)。
 桜田門外の変後の文久2年(1862年)11月20日、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされたが、これは直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。元治元年(1864年)3月21日、正睦は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55。蟄居処分は没後の3月29日に解かれた。墓所は佐倉市新町の安城山不矜院甚大寺で正俊,正倫の墓とともに並ぶ。 

堀田正倫

 5代藩主で幕末の老中・堀田正睦の4男として誕生した。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争に敗れて失脚したため家督を譲られて藩主となった。幕府に対する忠誠心は父譲りなのか、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願したが、新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態にされた。このため、藩主不在となった佐倉藩は危機を迎えたが、家老の平野縫殿が新政府軍に与して大多喜藩に出兵したため、何とか改易は免れた。
 明治維新後は知藩事となった。廃藩置県後は東京に移住し、日本の文化活動推進に貢献した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。明治23年(1890年)、佐倉に戻って私立の農事試験場設立や(旧制)佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)維持発展に寄与するなど地域の発展に尽力した。1911年に死去、享年61。始め母里藩主・松平直哉の4男・正威を養子としていたが離縁し、婿養子の正恒(鍋島直柔の次男)が家督を継いだ。
 墓所は佐倉市新町の安城山不矜院甚大寺で正俊,正睦の墓とともに並ぶ。
 佐倉城は1873年(明治6年)に第一軍管東京鎮台佐倉分管となり、正倫は1889(明治22)年に佐倉城跡の東方、鹿島台地の縁辺部に本邸を新築し翌年夏より移り住んだ。敷地内には、母屋・茶室・蔵などの建物群と、それらを囲むように約2千400平方メートルの借景式の和洋折衷庭園が当時の有名庭師・伊藤彦右衛門によって造園された。1907年には士族授産事業の一環として庭の一部に「農事試験所」を作り、農業の振興に尽力した。1911年には、養子の堀田正恒が北海道士幌にて農地開拓を行なって佐倉農場を開設し、北海道士幌町には「佐倉」という地区が今も遺る。
 また、明治維新前に正倫が住んでいた江戸の大名屋敷は、1871年(明治4年)に開拓使用地となり、渋谷村民有地3万坪と合わせて農業試験場「第三官園」となり、1876年にはその一部に牧場が造られ「麻布の開拓使牧場」と呼ばれた(日本初の酪農試験場)。