父が早世したため、嘉永3年(1850年)2月9日に祖父の正衡の継嗣となる。安政元年(1854年)11月29日、祖父の死去により13歳で家督を継いだ。若年のため、西村茂樹が補佐役となって藩政を取り仕切った。藩校・観光館を設立するなど、優れた政治手腕を見せている。安政4年(1857年)9月15日、将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・摂津守に叙任する。後に右京亮・摂津守に改める。 慶応4年(1968年)4月4日、新政府軍に武器を献上する。同年10月23日、明治天皇に拝謁する。明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により佐野藩知事に任じられた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により退任する。同年9月6日、東京に移住する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。
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旧佐野藩主堀田家当主で爵位は子爵。軍人としての最終階級は海軍中佐。 河内狭山藩最後の藩主であった北条氏恭の次男である。氏恭は佐野藩主・堀田正衡の子で、最後の佐野藩主・堀田正頌の叔父にあたる。正路は従兄でもある正頌の養子となり、1896年(明治29年)に襲爵した。 正路は海軍兵学校に進み、1901年(明治34年)29期生として卒業。1903年(明治36年)1月に少尉に任官した。戦艦「浅間」乗組みとして日露戦争に参戦し、艦載水雷艇を指揮して第二軍の上陸作戦を援護し、機雷の設置や魚雷攻撃を行っている。日本海海戦は同艦の分隊長として戦った。 戦後は水雷艇「雁」艇長(大尉)、軍令部出仕(少佐)を経て、1907年(大正6年)から翌々年にかけて駐米大使館附武官補佐官(中佐)として米国に駐在し、造船造兵監督官を兼任した。上司の武官は野村吉三郎である。日本海軍の仮想敵国である米国での駐在勤務は顕職であった。帰国後、横須賀鎮守府附を経て、1922年(大正11年)8月16日予備役編入となる。
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