延長6年(928年)頃に文章得業生となり、大内記,式部少輔,民部大輔,文章博士,伊予権介などを歴任、従四位上・式部大輔に至った。醍醐・村上朝に活躍し、憲平親王(冷泉天皇)の侍読を勤めた。 『文粋』『類聚句題抄』などに漢詩・漢文が残る。
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東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。 長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯,熊野,御嶽,葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。 重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西とともに帰国した記録がある(栄西と兄弟とする資料もあるが、信憑性に欠ける)。宋では舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺にて伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧の勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる。 東大寺は治承4年(1180年)、平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが熔け落ちた。 養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。 東大寺の再建には財政的技術的に多大な困難があった。重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。 重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。東大寺再建に際しては、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。なお、時には強引な手法も用いた。勧進およびその関連事業への協力への誓約を違えれば現世では「白癩黒癩(重度の皮膚病)」の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示したこともある。 こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元年8月28日(1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている。以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の修二会(お水取り)の際、過去帳読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかったことが示されている。 重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。 文治2年(1186年)、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真,明遍,証真,貞慶,智海,重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った(大原問答)。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号し、法然に師事した。
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