<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI21:紀 淑信  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 紀 淑信 ― 紀 頼季 KI25:紀 頼季

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大井実直 大井実春

 保元新制による荘園整理令に伴い国衙の在庁官人として武蔵国荏原郡に土着し、荏原郡大井郷の地名から大井氏を称した。平治の乱による平氏の台頭をうけ平氏方の渋谷氏から又鶴を妻に迎えるも、治承4年(1180年)、源頼朝の関東挙兵には6人の子供達と共に大井氏として参加した。
 その後、頼朝政権に地頭職を補任され、在地領主として有力御家人となり、たびたび源頼朝の上洛に一族で随行するなど紀氏出身の家臣として重用された。一族は壇ノ浦の戦いや承久の乱などにも参戦している。 大井氏は次男の大井実春が継ぎ、一族は周辺地域に所領を得て広がった。実直の子から分かれた一族には、品川氏,春日部氏,堤氏,潮田氏がある。

 寿永3年(1184年)3月、伊勢国の平氏残党(志田義広,平田家継,平信兼ら)の征討に参加する。元暦2年(1184年)1月、源義経拝賀の椀飯を勤める。文治元年(1185年)11月、伊勢国桑名郡香取五ヶ郷を所領とする。
 元久元年(1204年)12月、本貫である荏原郡大井郷と隣接する大杜郷を所領とする。その後も大井氏は、品川氏と共に源頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇されていた。また実春は怪力の持ち主で、源頼朝の御前で催される相撲の選手でもあった。

品川清実 春日部実高

 元暦元年(1184年)8月、実直の3男・清実は源頼朝から品川郷の雑公事を免除されている。この文書が「品川」の地名が登場する現存最古の史料である。文治元年(1185年)2月、清実は源範頼の下で豊後上陸に関わる水軍の「先登」に選ばれている。その後も品川氏は、大井氏と共に頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇された。
 品川氏の重要な役割として、武蔵国の国府津である品川湊の管理があげられる。紀氏は伊勢国との関係の深い氏族で、品川氏の所領は伊勢国員弁郡曾原御厨にもあった。仁治3年(1242年)頃には伊豆国の田代氏と婚姻関係があることが記録されており、品川氏は伊勢から品川までの太平洋航路にも関わっていたと考えられる。
 品川氏の館の所在地については、貴船神社周辺の台地上が有力とされている。ほかに現在の戸越公園とする説もある。

 実直が、12世紀始め、国衙の関係者として武蔵国に土着したのが始まりである。現在の埼玉県春日部市浜川戸地区周辺を拠点とし、現在の春日部市の市名の由来となった。
 春日部氏が最初に資料に登場するのは、『吾妻鏡』の文治3年(1187年)の武蔵国武士について書かれた項で、夜須行宗の壇ノ浦での軍事行動を鎌倉幕府に証言するため、春日部兵衛尉という人物が幕府に出頭したと記されている。
 次に登場するのは、元久2年(1205年)の項で、北条時政による畠山重忠追討軍に、春日部実高が参加したとの記述がある畠山氏は当時の春日部周辺でも強い影響力を持っていた。前述の春日部兵衛尉が春日部実高と同一人物、あるいは関係があるのかは諸説ある。
 実高の子の実平、孫の実景の代には、鎌倉幕府内での地位を上げ、春日部氏は有力氏族となっていった。宝治元年(1247年)実景は宝治合戦に参戦し三浦氏側に付いた。三浦泰村が破れ自害すると、実景らも自害し春日部氏の嫡流は滅亡した。

春日部時賢 潮田幹景
 延元元/建武3年(1336年)、新田義貞に仕え元弘の乱における鎌倉の戦いで戦功を挙げた、実景の孫・春日部治部少輔時賢(春日部重行)は本領安堵として、後醍醐天皇から下河辺庄の一部である春日部郷の地頭職を与えられたと武蔵国郡村誌にある。これにより、春日部氏は再び勢いを取り戻した。現在の春日部市では、この時の功績を称え毎年5月に春日部重行の祭りを行っている。そのため春日部市では、「春日部の始祖と言えば春日部重行である」との認識が現在も一般的になっている。

 南朝方の宗良親王を奉じて伊勢に下った北畠親房の招集に応じ、延元2/建武4年(1337年)、南朝の拠点のひとつとして神山城を築城し城主となる。延元4/暦応2年(1339年)8月、後醍醐天皇の死に乗じて、高師秋が城を囲み攻撃を加えたが、潮田幹景,加藤定有,藤原兼隆らが防戦して、翌月になると城下へ進撃し、愛洲宗実や鹿海興時らと協力して、立利縄手において敵を撃退した。
 興国3/暦応5年(1342年)1月には再び高師秋,佐々木高氏が攻め込んだが、加藤定有,藤原兼隆らが防戦して退けた。しかし、翌年、北朝方の仁木義長らが加わった攻撃により落城した。