KI03:紀 大人 | 紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 | KI04:紀 麻呂 |
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紀 麻呂 | 紀 男人 |
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持統天皇7年(693年)、直広肆(従五位下に相当)に叙せられる。大宝元年(701年)、直広貳(従四位下に相当)から従三位に昇叙され、石上麻呂,藤原不比等と共に大納言に任ぜられる。時期は不明ながら、中務卿や大宰帥を兼任した。 |
慶雲2年(705年)従六位下から四階の昇叙により従五位下となる。慶雲4年(707年)文武天皇大葬の際に造御竈司を務める。和銅4年(711年)には平城宮造営のための諸国からの役民で逃亡する者が多かったことから、石上豊庭らと共に兵庫将軍に任命され、衛兵所を仮設して兵庫を守衛した。 |
紀 古佐美 | 紀 広浜 |
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に従五位下に叙爵し、天平神護3年(767年)丹後守に任ぜられる。 |
延暦14年(795年)長門介に任ぜられる。延暦16年(797年)父の大納言・紀古佐美の薨去に前後して少判事に遷ると、式部大丞・勘解由判官と京官を務め、延暦18年(799年)従五位下・肥後守に叙任される。 |
紀 夏井 | 紀 長江 |
承和年間の初め、隷書を得意としていたことから、授文堂で書を学ぶよう命ぜられ小野篁に師事する。のち、文徳天皇に見いだされ、嘉祥3年(850年)少内記に抜擢される。六位蔵人・大内記を経て、斉衡2年(855年)従五位下・右少弁に叙任される。この頃、忠実に仕えながらも清貧で家も持っていなかった夏井を憐れんで、天皇は1軒の家を夏井に与えたという。斉衡4年(857年)には従五位上・右中弁と、天皇の側近として順調に昇進する。夏井は天皇の意志を忠直にしっかり把握する一方で、時には正し諫めることもあった。加えて、聡明鋭敏で、物事を処理するにあたって滞ることがなかった。夏井の働きぶりに天皇の信頼は篤く、重用されて内外の重要な政務を助けたという。 |
弘仁14年(823年)従五位下に叙爵。天長7年(830年)従五位上,天長9年(832年)正五位下,天長10年(833年)従四位下と淳和朝の後半に急速に昇進した。承和7年(840年)の淳和上皇崩御の際には装束司を務めている。 |
紀 宇美 | 紀 広純 |
神亀3年(726年)正六位上から従五位下に叙爵。天平10年(738年)5月右少弁の官職にあった際、右大臣・橘諸兄に従って伊勢大神宮へ神宝を奉献し、同年閏7月右中弁に昇進する。翌天平11年(739年)従五位上。聖武朝末に急速に昇進し、天平17年(745年)正五位下、天平19年(747年)正五位上、天平20年(748年)従四位下に叙せられた。またこの間に、讃岐守,左衛士督などを務めている。 |
天平宝字2年(758年)北陸道問民苦使に任ぜられ、天平宝字7年(763年)従五位下・大宰員外少弐に叙任される。天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱では大宰府赴任中のためか活動の記録が残っていないが、翌天平神護元年(765年)正月になって薩摩守に左遷される。神護景雲2年(768年)筑後守に復帰する。 |
紀 麻路 | 紀 広名 |
父は紀大人とも。養老4年(720年)従五位下へ叙爵し、翌養老5年(721年)式部少輔に任ぜられる。 |
天平12年(740年)外従五位下に昇叙され、翌天平13年(741年)上総守に任ぜられる。天平17年(745年)内位の従五位下に叙せられ、翌天平18年(746年)大学頭次いで少納言に任ぜられる。 |
紀 今守 | 紀 広庭 |
承和13年(846年)従五位下・筑前守に叙任。筑前守在任中の嘉祥2年(849年)頃、大宰少弐・小野恒柯との間で意見の相違により論争したが、参議兼勘解由長官・滋野貞主から物事を正すのに役立たないとして批判を受けている。 |
天平宝字8年(764年)10月に藤原仲麻呂の乱における功績により従五位下に叙せられ、上総介に任ぜられる。のち、勅旨少輔・河内介を歴任する。河内介在任中の神護景雲3年(769年)に道鏡の出身地に設営された由義宮(河内国)への称徳天皇の行幸の供をする。まもなく由義宮を西京として、その所管を行うための官司として河内国が河内職に改編されると、その亮に任ぜられ、従五位上に昇叙された。翌神護景雲4年(770年)4月には摂津亮・内蔵若人と共に造由義大宮司次官を兼任する。同年8月称徳天皇の崩御,道鏡の失脚後に、河内職が河内国に戻されると河内守に任ぜられている。 |