奥平松平家

MT59:松平忠明  徳川家康 ― 松平忠明 ― 松平忠尚 MT60:松平忠尚

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松平忠尚 松平忠恵

 慶安4年(1651年)、肥前唐津藩主・松平和泉守乗久の長男として生まれる。初名は乗守。
 白河藩主・松平忠弘には、健康面で優れぬ長男・松平清照だけがあり、その他3人の男子は成人しないまま亡くなっていた。そこで乗守が忠弘の婿養子となり、忠尚と改名したのだが、家中において人望が無かった上、正室との間に儲けた仙千代(乗良)に夭折されたばかりか、正室にも先立たれた。おかげで、忠尚が婿養子に入った意味合いが薄れてしまった。更に追い打ちを掛けるように清照に嫡男・松平忠雅が誕生し、忠弘との仲が疎遠になってしまったという。その結果、次の家督を巡って家中が分裂、お家騒動まで勃発してしまった。
 遂に、第5代将軍・徳川綱吉の命令で白河藩世子の座から外された上、元禄元年(1688年)10月、白河新田藩2万石を分与されて別家を立てることとなったのである。元禄13年(1700年)1月11日、陸奥桑折藩に移封される。享保4年(1719年)11月2日、家督を養子の忠暁に譲って隠居する。享保11年(1726年)1月29日に病死。

 

 天明4年(1784年)8月5日、小幡藩嫡子・松平忠房の長男として生まれる。父の早世後は叔父・松平忠彊が嫡子となったが、忠彊も寛政10年(1798年)に早世したため嫡子となって叙任。寛政11年(1799年)の祖父の死去により跡を継いで藩主となる。
 藩財政改革のため、緊縮財政政策を用いるが効果はなく、弘化元年(1844年)には収入に対して借金が10倍近くの7万4,032両にまでなっていたと言われている。さらに農村の荒廃なども進んだ。天保9年(1838年)には若年寄、嘉永元年(1848年)10月には城主格となる。安政3年(1856年)6月27日、老齢を理由に長男・忠恕に家督を譲って隠居する。文久2年(1862年)2月2日に死去した。享年79。
 天保3年5月4日(1833年)夜、忠恵は浜町の江戸藩邸中屋敷において、当屋敷に盗みに入っていた鼠小僧と出くわし、家臣に捕獲させて幕府に引渡した。これにより、鼠小僧は処刑されることとなった。ちなみに、文政12年(1830年)の須原屋版武鑑には浜町に所在する小幡藩江戸藩邸は存在していないが、天保4年(1834年)の武鑑では浜町かきから丁に中屋敷があると記載されており、天保年間にそれまでの永田馬場から浜町に移転していた可能性が高い。

松平忠恕

 文政8年(1825年)8月7日、第3代藩主・忠恵の長男として生まれた。安政3年(1856年)6月27日、父が老齢を理由に隠居したため、跡を継ぎ、安政5年(1858年)10月に叙任する。そして幕末の動乱の中で寺社奉行と奏者番を兼任したが、どうも忠恕は幕府の将来に早くから見切りをつけていた一面があり、文久2年(1862年)に父が死去して藩の実権を完全に掌握すると、幕府に反抗的な水戸藩浪士を取り締まる一方で、人質として江戸にあった妻子を本国に戻して朝廷と通じる一面も見せている。また、軍備増強にも乗り出して、猟師に名字帯刀などの特権を与える代わりに軍人として用いて強力な鉄砲隊を編成したりしている。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に与したが、同年2月に領内で起こった世直し一揆で大被害を受けている。
 明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となる。明治6年(1873年)には日光宮司となり、後に子爵,東京府学務委員,貴族院議員にもなった。明治35年(1902年)5月21日に死去。享年78。