大給松平

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松平乗寿 松平乗邑

 慶長19年(1614年)、父の死により家督を継ぐ。同年冬からの大坂の陣に出陣して戦功を挙げた。
 寛永9年(1632年)岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して石室千体仏を建立した。寛永15年(1638年)、美濃岩村藩2万石から遠江浜松藩3万6000石へ加増移封された。寛永19年(1642年)には家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年)2月28日には上野館林6万石に加増移封となった。家綱が4代将軍となると、正式に老中の一人として政務を取り仕切った。
 承応3年(1654年)、55歳で死去した。林春斎からは「柔懦な人物」と評されている。

 老中。肥前唐津藩第3代藩主,志摩鳥羽藩主,伊勢亀山藩主,山城淀藩主,下総佐倉藩初代藩主。
 元禄3年(1690年)、父の死により家督を相続。正徳元年(1711年)には、近江守山において朝鮮通信使の接待を行っている。享保8年(1723年)老中となり、下総佐倉藩に転封。以後足掛け20年余りにわたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った。
水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリードし、元文2年(1737年)には勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れる。
 将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が9代将軍となったため、家重から疎んじられるようになり、延享2年(1745年)、家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され、加増1万石を没収され隠居を命じられる。
 次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた。延享3年(1746年)に死去、享年61。

松平乗全 松平乗秩

 幕府では寺社奉行,大坂城代を経て老中を勤めた。同列の松平忠優と歩調をあわせ、対外問題では開国・和親を、また将軍継嗣問題では紀州藩の徳川慶福を推し、海防参与の水戸藩主・徳川斉昭と対立したため、安政2年(1855年)、忠優と共に老中を免職され、閣外に放逐された。
 しかしその後、阿部正弘死後に幕政の実権を握った老中首座・堀田正睦により、名誉回復の意味をこめて、帝鑑間席より溜詰格に栄転している。また、安政5年(1858年)には大老・井伊直弼の推挙により老中に再任している。井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)後、閣内での影が薄くなり、万延元年(1860年)には辞任している。文久2年(1862年)、隠居を命じられ、弟の乗秩が藩主の座を継いだ。

 三河西尾藩の第5代(最後の)藩主。大給松平家宗家10代。父は乗秩が生まれた年に死去し、兄の乗全が後を継いでいたが、文久2年(1862年)11月23日に乗全も幕府から隠居を命じられたため、兄の養子として家督を継いで第5代藩主となる。
 元治元年(1864年)には奏者番に任じられる。慶応2年(1866年)には寺社奉行に任じられ、直後の第2次長州征伐にも幕府軍の一員として参加し、第14代将軍・徳川家茂の死去により出兵が中止になると大坂の警護を務めた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、譜代大名の名門のために佐幕派と尊王派が争った末に新政府に与し、2月には上京して京都警護を務めた。
 明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により西尾藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免官された。その後、明治6年(1873年)6月3日に死去。享年35。子の乗承と孫の松平乗統は華族、貴族院議員となる。

松平乗承
 明治から昭和時代初期の政治家,華族。子爵、貴族院議員。明治6年(1973年)に家督を継ぎ、明治10年(1977年)、大給恒,佐野常民らと博愛社(日本赤十字社の前身)の設立に尽力。明治14年(1881年)に宮内省御用掛となり、明治17年(1884年)7月3日には太政官御用掛に就任、修史館勤務となる。同年12月第二局に異動となるが、明治18年(1885年)3月麻疹にかかり職を辞する。明治20年(1887年)、日本赤十字社に入り、第四回赤十字国際会議にドイツ留学中の森鴎外と出席する。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員となり研究会に属し、大正14年(1925年)7月まで務めた。大正2年(1913年)日本赤十字社副社長に就任し、大正7年(1918年)まで務めた。昭和4年、79歳で没した。