<藤原氏>北家 良門流

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井伊直矩 井伊直経

 遠江掛川藩の第4代藩主、越後与板藩の初代藩主。直勝系井伊家5代。近江彦根藩主・井伊直興の12男。
 彦根藩の分家である掛川藩主・井伊直朝(正室は直矩の姉妹)の養嗣子となり、宝永2年(1705年)12月3日に跡を継いだ。翌年1月16日、越後三島郡などに2万石を与えられて与板藩に移封となる。正徳5年(1715年)には徳川家康100回忌において日光祭礼奉行を務めた。享保16年(1731年)2月27日、長男の直陽に家督を譲って隠居し、寛保2年(1742年)3月19日に江戸で死去した。享年49。

 寛政11年(1799年)2月25日、6代藩主・井伊直朗の7男として江戸で生まれる。文政9年(1826年)に先代藩主の直暉が死去する直前に養嗣子となり、文政10年(1827年)7月13日に跡を継いだ。大坂加番を務めた。有能な藩主で民政に尽力した。特に三条地震が起こったときなどは善政を行って復旧に尽くしている。また、仏教に対して信心深かったことから、西本願寺与板別院や与板八幡宮,徳昌寺などを建設した。これらの事績から「凱悌の君」と称されている。
 安政3年(1856年)6月30日、江戸にて58歳で死去し、跡を長男の直充が継いだ。

井伊直安

 嘉永4年(1851年)2月11日に彦根藩主・井伊直弼の4男として江戸で生まれたといわれているが、弘化4年(1847年)生まれという説がある。文久2年(1862年)9月23日、先代藩主の直充が死去する直前に養嗣子となり、同年に養父が死去したために跡を継いだ。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では官軍に与して功績を挙げた。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行った。また戊辰戦争の影響で一旦閉校となった藩校・正徳館を再興し、その際、藩士の子弟に限らず広く領民に就学を呼びかけ「極貧者でも良し。衣食住に欠ける者は校内に寄宿しても良い」と藩民皆学を奨励した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により与板県となると、免官されて東京へ移った。
 慶應義塾を卒業し、明治5年(1872年)12月20日、兄の井伊直憲(元彦根藩主)と共に欧米を訪問する。明治17年(1884年)7月、華族令により子爵となる。明治25年(1892年)7月に従四位に叙せられる。明治29年(1896年)1月には貴族院子爵議員に選出され、研究会に属し大正9年(1920年)12月まで在任した。明治30年(1897年)に正三位。大正11年(1922年)7月に従二位に昇叙、同年11月9日に長男の直方に家督を譲って隠居した。昭和10年(1935年)8月25日に死去した。享年85。
 豪徳寺にある裃着用の直弼の肖像画は直安が描いている。父が暗殺された当時、直安は9歳であり、後年記憶だけで描いたと言われている。