F441:井伊共保 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 井伊共保 ― 井伊直平 | F442:井伊直平 |
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井伊直平 | 井伊直宗 |
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文明11年(1479年)または延徳元年(1489年) 、井伊谷城主・井伊直氏の子として誕生。永正4年(1507年)、井伊氏の祖・共保の出生地にある氏寺・菩提所の自浄院に田畑3反を寄付し、井伊保(井伊谷)に黙宗瑞淵を招いて自浄院を龍泰寺と寺号を改めた。 永正8年(1511年)、祝田助四郎に下地を付与し、そのことを祝田禰宜に伝えた。 |
父・直平の代から今川氏の家臣となっていた。父から家督を譲られて当主となったが、天文11年(1542年)に今川義元の命令で三河国田原城攻めに参加し、戦死した。跡を子の直盛が継いだ。 |
井伊直満 | 南渓瑞聞 |
父の直平とともに今川義元に仕えた。兄の直宗の子の井伊直盛に子がいなかったため、自身の子の直親を養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感をかったため、天文13年(1544年)、弟の井伊直義と共に小野道高の讒言を聞いた今川義元によって自害させられた。 |
臨済宗龍潭寺二世住職で、南渓和尚とも呼ばれる。今川義元の葬儀を取り仕切る安骨大導師なども務めた。井伊家出身で、女性の井伊直虎を同家当主に推薦したことから、当主不在時に井伊家を率いていた可能性が高い。 |
井伊直盛 | 井伊直虎 |
井伊氏は遠江の国人。明応3年(1494年)、駿河国守護・今川氏親が遠江へ進出すると、井伊氏は遠江守護・斯波氏や大河内氏と結託して対抗した。この争いは明応,文亀,永正と断続的に続き、永正10年(1513年)、今川氏が遠江国を支配下におさめると、井伊氏の一員である井伊直平が今川配下に入り、井伊谷周辺に勢力を持つことになった。
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戦国時代の女性領主。遠江井伊谷の国人井伊氏の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したが、生涯未婚であった。井伊直政のはとこであり養母。 |
井伊直親 | 高瀬姫 |
天文5年(1536年)、井伊直満の子として誕生。天文13年(1544年)、小野政直の讒言によって父・直満を今川義元に誅殺されると、更なる誅殺対象になりかねない幼少の直親は家臣に連れられ、井伊谷を出奔。祖父・直平から龍潭寺の住持に招聘された文叔瑞郁禅師の縁を頼って、武田領であった信濃国伊那郡松源寺へ落ち延びた。一説によると、信濃では塩澤氏の娘との間に高瀬姫と吉直の1男1女を儲けたとされる。 |
遠江国引佐郡井伊谷の領主・井伊直親の娘。井伊直政の異母姉。井伊谷で生まれたか、父・直親が松源寺で匿われている際に現地の人(塩澤氏の娘か)との間に生まれたという説がある。徳川家康の命令で異母弟・直政の家臣になった川手良則と結婚した。彦根の長純寺に高瀬姫の菩提所がある。 |
井伊直政 | 井伊直勝 |
永禄4年(1561年)2月19日、井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷近くの祝田で生まれる。母は奥山朝利の娘・ひよ。幼名は虎松。父・直親は、虎松の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺された。当時、虎松はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよとともに暮らす。しかし永禄7年(1564年)に親矩が討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・祐椿尼とひよが養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家家老の小野道好が今川氏からの命令として、虎松を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れた。 |
直勝系井伊氏初代。井伊直政の長男として遠江国浜松に生まれる。初名は直継、のちに直勝。 |
井伊直朝 | |
元禄7年(1694年)11月12日、父の隠居により跡を継ぐ。しかし父と同じように暗愚な人物の上、宝永元年(1705年)11月に病気を理由に参勤交代の延期を申し出たが、間もなく発狂してしまったために改易された。ただし、祖先が井伊直政という功臣であるということから、所領を2万石に減らされて家格を下げられた上で、妻の兄弟で養嗣子の井伊直矩が家督を継ぐことを許された。正徳5年(1715年)7月15日、36歳で死去。 |