<藤原氏>北家 良門流

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井伊直平 井伊直宗

 文明11年(1479年)または延徳元年(1489年) 、井伊谷城主・井伊直氏の子として誕生。永正4年(1507年)、井伊氏の祖・共保の出生地にある氏寺・菩提所の自浄院に田畑3反を寄付し、井伊保(井伊谷)に黙宗瑞淵を招いて自浄院を龍泰寺と寺号を改めた。 永正8年(1511年)、祝田助四郎に下地を付与し、そのことを祝田禰宜に伝えた。
 直平の子のうち嫡男・直宗、次男・直満、4男・直義、5男・直元は直平に先立っている。直宗は天文11年(1542年)に三河国・田原城攻撃の際に野伏の襲撃をうけて討たれ、直満と直義は天文13年(1545年)に家老・小野政直の讒言により今川義元に討たれ、直元は天文10年(1541年)に病死。
 直平に死に関しては諸説ある。『井伊家伝記』では今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われ、その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で怨んでいたので白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を与えたのではないかという悪い評価がなされ、直平は火事のことに関して不慮の事故だと説明するも、過失の埋め合わせとして今川の家臣だった天野左衛門尉が武田方に従ったことを知った氏真が、曳馬城の城主だった直平に鎮圧を命じ、直平が出陣の支度をしている時に、家老の飯尾連龍の室・お田鶴の方に毒茶を勧められ、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死した。『井伊家伝記』の別の章には連龍が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとある。これ以外にも敵の急襲を受け討死、服毒死(病死とも表現可能)など。また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運ぶと殉死した。
 『井伊家伝記』によれば『徳川伝記』では「飯尾豊前守」ではなく「井伊豊前守」としているので、多くの本や軍記物でも「井伊豊前守」としている。これは、井伊直平が年老いていたので、出陣の際には、飯尾連龍が直平の名代として出陣していたので、「井伊豊前守」として聞き伝えられて記されていたのであると記されている。また、飯尾連龍が行ったことが『井伊家伝記』や『井伊直平公御一代記』では直平が行ったこととして記されている。 

 父・直平の代から今川氏の家臣となっていた。父から家督を譲られて当主となったが、天文11年(1542年)に今川義元の命令で三河国田原城攻めに参加し、戦死した。跡を子の直盛が継いだ。 
井伊直満 南渓瑞聞
 父の直平とともに今川義元に仕えた。兄の直宗の子の井伊直盛に子がいなかったため、自身の子の直親を養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感をかったため、天文13年(1544年)、弟の井伊直義と共に小野道高の讒言を聞いた今川義元によって自害させられた。

 臨済宗龍潭寺二世住職で、南渓和尚とも呼ばれる。今川義元の葬儀を取り仕切る安骨大導師なども務めた。井伊家出身で、女性の井伊直虎を同家当主に推薦したことから、当主不在時に井伊家を率いていた可能性が高い。
 南渓瑞聞は、井伊谷城主・井伊直平の次男もしくは3男として生まれた。ただし、2016年に発見された位牌や、龍潭寺が所蔵する「南渓過去帳」には父実田秀公居士と記載されており、これが直平の法名でなければ父は別人ということになり、そのことから養子説も出ているがはっきりしていない。龍潭寺一世住職として直平に招かれた黙宗瑞淵に弟子入りして出家し、同寺住職を継いだ。
 天文13年(1544年)に兄弟の井伊直満,直義が今川義元の命により殺害された後、直満の子・亀之丞(後の直親)も殺すように命令があった際、直満の家老・今村正実は南渓瑞聞と相談のうえで、師匠・黙宗瑞淵ゆかりの寺であった信濃国伊那郡市田郷の松源寺に書状を送り、そこに亀之丞を匿った。
 直平の死後、井伊家は後継者が戦死したり讒言を信じた今川家に討たれたりするなどの危機が続いた、南渓瑞聞はそのような非常時に当たり、祐椿尼(直平の嫡孫・井伊直盛の未亡人)と相談のうえ、出家していた直盛の娘の次郎法師(後の井伊直虎)を同家当主に推薦した。武田家の侵攻により領地および城主国司の地位を失ったが、井伊家再興のために、井伊直政が徳川家康に仕えるきっかけを直虎らと共に作った。 

井伊直盛 井伊直虎

 井伊氏は遠江の国人。明応3年(1494年)、駿河国守護・今川氏親が遠江へ進出すると、井伊氏は遠江守護・斯波氏や大河内氏と結託して対抗した。この争いは明応,文亀,永正と断続的に続き、永正10年(1513年)、今川氏が遠江国を支配下におさめると、井伊氏の一員である井伊直平が今川配下に入り、井伊谷周辺に勢力を持つことになった。
 直盛は35歳または55歳で死去したという二つの説があるが、祖父の直平が永禄6年(1563年)に75歳または85歳で死去していることから見て、その孫が永禄3年時点で55歳ということは考えにくいため、35歳で死去、つまり大永6年(1526年)生まれと考えられる。しかし、娘の直虎の生年が、前述の天文5年(1536年)前後と推測される場合は、大永6年(1526年)生まれでは、直盛が11歳前後に直虎が誕生したことになるので、年齢的に早熟であるため、直盛の生年は不明である。
 直盛の主君である今川義元は、亡父・氏親の頃に支配を確立した駿河・遠江の二ヶ国に加えて、新たに三河国を傘下に治めて今川氏最大の版図を築き、さらに永禄3年(1560年)に尾張国への遠征のための大軍を動員した。直盛はその先陣を任された。はじめは織田氏の各拠点を奪取するなど今川軍が優位だったが、同年5月19日、桶狭間にて休息中の本隊が織田信長自らに率いられた手勢の強襲を受け、多くの将兵を失っただけでなく、総大将の義元も討ち取られた(桶狭間の戦い)。この戦いでは直盛は、家臣16人とともに討死した。直盛は井伊氏の菩提寺・龍泰寺に葬られ、法名より寺号は龍泰寺から「龍潭寺」へと改められた。

 

 戦国時代の女性領主。遠江井伊谷の国人井伊氏の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したが、生涯未婚であった。井伊直政のはとこであり養母。
 天文11年(1542年)、祖父の井伊直宗が、今川義元の命令で三河国田原城攻めに参加し戦死する。父・直盛に男子がいなかったため、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)と名付けられ、直盛の従兄弟にあたる直親を婿養子に迎える予定であった。しかし、天文13年(1544年)、今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、直親の父・直満がその弟の直義と共に義元に謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も信濃に逃亡した。直親は道高の死の2年後の弘治元年(1555年)に今川家に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸することになったとされる。
 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにおいて直盛が戦死した。直親がその跡を継いだが、永禄5年(1562年)、小野道好(道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。一族に累が及びかけたところを、母の友椿尼の兄で、叔父に当たる新野親矩の擁護により救われる。
 永禄6年(1563年)、曽祖父の井伊直平が天野氏の犬居城攻めに向かう途中に陣没する。永禄7年(1564年)、井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死する。龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞により、直親の息子・虎松は鳳来寺に移された。以上のような経緯を経て永禄8年(1565年)、次郎法師は直虎と名を変えて井伊氏の当主となった。
 永禄11年(1568年)、道好に井伊谷城を横領される。同年、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用,鈴木重時,菅沼忠久)が徳川家康に加担。家康の力により実権を回復した。さらには井伊氏に仇を為してきた引間城も落城した(夫の死後、城主となっていた田鶴の方は自害)。元亀元年(1570年)、家康は、道好が直親を事実無根の罪で讒訴したことを咎め、処刑する。
 元亀3年(1572年)秋、信濃から三河を経て南下してきた武田信玄の部将・山県昌景に井伊谷城を明け渡し、井平城の井伊直成が仏坂の戦いで敗死した後、更に浜松城(引間城)に逃れた。浜松城の徳川・織田連合軍は、三方ヶ原の戦いや翌年の野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は信玄が病に倒れたため、この4月に撤退した。
 直親の遺児・虎松(井伊直政)を養子として育て、天正3年(1575年)、300石で徳川氏に出仕させる。天正10年(1582年)死去。家督は直政が継いだ。 

井伊直親 高瀬姫

 天文5年(1536年)、井伊直満の子として誕生。天文13年(1544年)、小野政直の讒言によって父・直満を今川義元に誅殺されると、更なる誅殺対象になりかねない幼少の直親は家臣に連れられ、井伊谷を出奔。祖父・直平から龍潭寺の住持に招聘された文叔瑞郁禅師の縁を頼って、武田領であった信濃国伊那郡松源寺へ落ち延びた。一説によると、信濃では塩澤氏の娘との間に高瀬姫と吉直の1男1女を儲けたとされる。
 弘治元年(1555年)に井伊谷への帰参が叶うと、祝田を拠点とし、奥山朝利の娘・ひよを娶る。永禄3年(1560年)、従兄であり養父・直盛が桶狭間の戦いで戦死したため家督を継ぐ。しかし当時の遠江は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の子・道好(政次)の讒言により、主君・今川氏真から松平元康との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害された。享年28。
 直親殺害の背景には、支配領域が三河に近い井伊氏の中で、親今川派と反今川派で政治的な対立があり、直親が反今川派で元康に接近して、小野が親今川派であったのかもしれないとする指摘がある。
 具体的な事績には乏しいが、遠江から逃れる際に直親を射殺そうとした右近次郎を復帰後に機略を用いて成敗したという伝承や、笛の名手で逃亡した際に援助を受けた僧に愛用の笛(青葉の笛)を寄進した伝承などがある。また、同時代史料を見ると直親は実在した形跡がなく、後世に作成された系図で初めて存在が見られるとし、その存在を疑問視する説もある。 

 遠江国引佐郡井伊谷の領主・井伊直親の娘。井伊直政の異母姉。井伊谷で生まれたか、父・直親が松源寺で匿われている際に現地の人(塩澤氏の娘か)との間に生まれたという説がある。徳川家康の命令で異母弟・直政の家臣になった川手良則と結婚した。彦根の長純寺に高瀬姫の菩提所がある。
井伊直政 井伊直勝

永禄4年(1561年)2月19日、井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷近くの祝田で生まれる。母は奥山朝利の娘・ひよ。幼名は虎松。父・直親は、虎松の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺された。当時、虎松はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよとともに暮らす。しかし永禄7年(1564年)に親矩が討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・祐椿尼とひよが養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家家老の小野道好が今川氏からの命令として、虎松を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れた。
 天正2年(1574年)、虎松が父・直親の13回忌のために龍潭寺に来たとき、祐椿尼,直虎,ひよ,龍潭寺住職・南渓瑞聞が相談し、徳川家康に仕えさせようとする。まずは虎松を鳳来寺に帰さないために、ひよが徳川氏家臣の松下清景に再嫁し、虎松を松下氏の養子にしたという。天正3年(1575年)、家康に見出され、井伊氏に復することを許された虎松は、名を井伊万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。
 万千代は、高天神城の戦いの攻略をはじめとする武田氏との戦いで戦功を立てた。天正10年(1582年)、22歳で元服し直政と名乗る。同年の本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数含めた一部隊を編成することとなり、旗本先手役の侍大将になった。その部隊は、山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。
 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えをまとって兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
 天正14年(1586年)10月、家康が上洛し豊臣秀吉に臣従すると、秀吉は直政の武勇と政治的手腕を高く評価し、従五位下に叙位させ豊臣姓を下賜したという。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。このときに「井侍従藤原直政」という署名がみられ、豊臣姓ではなく藤原姓を称している。
 直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られる。家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられる。
 慶長3年(1598年)、直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去し、こののちの政治抗争で直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功している。特に黒田如水・長政父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次,竹中重門,加藤貞泰,稲葉貞通,関一政,相良頼房,犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。関ヶ原本戦では先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃に求めるべきとされている。
 決戦終盤は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍を百余騎率いて追撃する。ついに義弘の目前までせまり、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、落馬してしまう。あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追いつけず、単騎駆けのような状態であったという。
 関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにもかかわらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力した。西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取りなし、特に、周防・長門の2ヶ国が安堵されたことを感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。そのほか、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち、真田昌幸とその次男・信繁(幸村)の助命など外交手腕を発揮している。
 これらの功により、6万石を加増されて18万石となり、石田三成の旧領である近江国佐和山に転封となったが、これは家康が、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い佐和山に井伊家を配したと伝えられる。
 慶長7年(1602年)2月1日、彦根城築城途中に佐和山城で直政は死去した。享年42。遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立された。

 直勝系井伊氏初代。井伊直政の長男として遠江国浜松に生まれる。初名は直継、のちに直勝。
 慶長7年(1602年)、父・直政が関ヶ原の戦いのときの鉄砲傷が原因で病死すると、その跡を継いで佐和山藩主となる(直継と改名)。ただし、直継は実質的に彦根藩主の地位にはあったが、家督の継承者としては分家の初代として本家の歴代当主としては数えない。
 慶長8年(1603年)から徳川家康の命を受け、西国に向けての防衛拠点としての彦根城の築城にとりかかり、慶長11年(1606年)、居城を佐和山城から彦根城へと移した。なお、築城工事中、天守の築造の遅れが出てきたため、側近は人柱を立てることを申したが直継は「人柱など立てても工事が進まぬ」と首を縦に振らなかった。しかし工事の遅れだけが積み重なり、ついには普請奉行の娘・菊が人柱として名乗り出た。菊が人柱とされた後は、工事は順調に進んだ。工事が滞りなく進んだお礼をしたいと普請奉行を呼び寄せると、そこに菊の姿があった。直継は人柱を入れた箱を空箱とすり替えていた。
 しばらくは若年のため家老が政務を代行していたが、元々個性の強い者が多かった配下の家臣たちがまとまらず、家中で内部対立が深刻化した。また生来病弱であったため軍役にも参戦しないことがあったという説もある。そのため憂慮した家康が事態の収拾を図り、井伊谷以来の家臣は直継に、武田氏の遺臣などは異母弟・直孝に配属された。また井伊家の領地のうち彦根は直孝、上野国安中は直継の領有とされた。
 慶長19年(1614年)、大坂の役が始まると、家康は病床の直継の名代として直孝を井伊軍の大将に指名し、直継は安中の関所警護を務めた。大坂の役後、家康は期待に応えた働きを見せた直孝に正式に井伊氏の家督を継がせ、直継は上野国安中藩3万石を分知された。このときに直継から直勝と名を改めた。
 寛永9年(1632年)に隠居して長男・直好に家督を譲る。直好は正保2年(1645年)に三河西尾藩、万治2年(1659年)に遠江掛川藩に移封され、隠居である直勝もこれに従った。寛文2年(1662年)7月11日、遠江国掛川城で病死した。病弱といわれていたが、結果として井伊宗家の家督を継いだ直孝より長命であった。墓所は静岡県袋井市の可睡斎。
 子孫は掛川から越後国与板に移り、与板藩として幕末まで続いた。 

井伊直朝
 元禄7年(1694年)11月12日、父の隠居により跡を継ぐ。しかし父と同じように暗愚な人物の上、宝永元年(1705年)11月に病気を理由に参勤交代の延期を申し出たが、間もなく発狂してしまったために改易された。ただし、祖先が井伊直政という功臣であるということから、所領を2万石に減らされて家格を下げられた上で、妻の兄弟で養嗣子の井伊直矩が家督を継ぐことを許された。正徳5年(1715年)7月15日、36歳で死去。