F432:井伊直平 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 井伊共保 ― 井伊直平 ― 井伊直孝 | F444:井伊直孝 |
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井伊直孝 | 井伊直滋 |
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異母兄・直勝と同じ天正18年(1590年)、井伊直政の次男として駿河国中里(焼津市)で誕生。直孝の生母とされる印具道重の娘・養賢院(諸説あり)は直政の正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは慶長6年(1601年)であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。 |
江戸城下で育ち幼少の頃から2代将軍徳川秀忠・家光父子に寵愛され、幕臣筆頭の家柄の嫡男として何不自由なく育ったために我が強い性格で、父とたびたび対立し言い争うことが多く、質素倹約を旨とした父に気に入られなかったと言われている。家光に「直滋が家を継いだら百万石をやる」と言われたと聞き、驕らず謙虚な姿勢に徹していた直孝が激怒したという話も伝わる。
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井伊直澄 | 井伊直興 |
本来であれば直孝の長男の直滋が世子となるはずであったが、父と折り合いが悪く、万治元年(1658年)に廃嫡され遁世した。同年、4男の直縄が世子とされたが同年に逝去し、5男の直澄が世子と定められた。翌万治2年(1659年)、直孝が亡くなったためその跡を継いだ。 |
明暦2年(1656年)3月6日生まれ。父・直縄は伯父の井伊直滋が万治元年(1658年)に祖父・直孝に廃嫡された後に世子とされたが、同年に間もなく逝去した。その後、叔父の井伊直澄が世子となり祖父の死後家督を継いだ。直澄には子(中野宣明)はいたが、直孝が遺言で直縄の子である直興に後を継がせるように言い残していたため、寛文12年(1672年)11月27日に直澄の養子になり、延宝4年(1676年)の直澄の死去により家督を継いだ。 |
井伊直通 | 井伊直恒 |
元禄2年(1689年)8月15日、江戸で生まれた。8男であったが兄の相次ぐ夭折によって嫡子となった。元禄14年(1701年)3月5日に父から家督を譲られて藩主となる。わざと高禄の家臣に土木作業をあてがったり、粗食を好んだり、家宝の壺を割ってしまった家臣を許したり、質素倹約を好み優しさに満ちた人物であった。初めてお国入りして彦根城に入った時に「先祖の武功によりこの城を賜り、いま数万の民に領主と仰がれている幸福を思うと、知らずに涙があふれて止まらぬ」と感涙にむせんだという。 |
元禄6年(1693年)3月16日、江戸にて生まれる。宝永7年(1710年)3月に兄・直通が直恒を跡継ぎとするよう定めて同年7月26日に死去したため、同年8月12日に養子となり家督を継いだ。ところが間もなく直恒も病気に倒れ、同年10月5日に江戸藩邸にて18歳で死去した。藩主として50日弱の在職であり、一度も彦根城を見ることがなかった。 |
井伊直惟 | 井伊直定 |
父・直興は直惟の誕生後まもなく隠居したが、家督を継いだ直惟の2人の兄・直通と直恒が次々と早世したため、直興(直該と改名)が再度藩主になった。正徳4年(1714年)2月15日に直惟が15歳まで成長したため直該は再び隠居し、直惟が藩主となった。質素倹約を推進し、武芸奨励と市井の視察を兼ねて大規模な鷹狩りを好んで行なった。また文化にも造詣が深く、絵画や詩文を残し、寺社への寄進も積極的に行っている(近江永源寺の能舞台など)。彦根城の石垣の改修も成された。
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第4代藩主井伊直興の14男。早世が多い直興の息子のうちでは最も長命であった。正徳3年(1713年)に従五位下因幡守を叙任され、彦根新田藩1万石を分知された。しかし享保19年(1734年)、異母兄・直惟の要請により養子となり、新田藩を本家に還付し、翌享保20年(1735年)に直惟の隠居と共に正式に彦根藩を継いだ。 |
井伊直禔 | |
享保12年(1727年)9月8日、江戸藩邸にて生まれた。附役は青木平左衛門と犬塚十左衛門が勤め、赤坂御門之内の彦根藩中屋敷に居住した。 |