<藤原氏>北家 良門流

F432:井伊直平  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 井伊共保 ― 井伊直平 ― 井伊直孝 F444:井伊直孝

リンク F445
井伊直孝 井伊直滋

 異母兄・直勝と同じ天正18年(1590年)、井伊直政の次男として駿河国中里(焼津市)で誕生。直孝の生母とされる印具道重の娘・養賢院(諸説あり)は直政の正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは慶長6年(1601年)であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。
 慶長7年(1602年)の直政の死後は江戸にあって徳川秀忠の近習として仕え、秀忠が2代将軍に就任した慶長10年(1605年)4月26日に従五位下掃部助に叙位・任官。慶長13年(1608年)に書院番頭となり上野刈宿5,000石を与えられ、次いで慶長15年(1608年)には上野白井藩1万石の大名となり、同時に大番頭に任じられた。慶長18年(1613年)には伏見城番役となった。
 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名された。大坂城攻略では松平忠直と共に八丁目口の攻略を任せられたが、同じ赤備えの真田信繁勢の挑発に乗り突撃したところを敵の策にはまってしまい信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出す大被害を生じさせた(真田丸の戦い)。後に先走って突撃したことを軍令違反と咎められたが、家康が「味方を奮い立たせた」と庇ったため処罰はされなかった。
 井伊家では直政の死後、家督を兄・直勝が継いでいたが、直勝は家臣団をまとめ切れず、それを憂慮した家康の裁定によって慶長20年(1615年)、直孝は井伊家の家督を継ぐよう命じられ父の遺領18万石の内、彦根藩15万石を継承し、直勝には上野安中藩3万石が分知された。井伊家の家臣団は井伊谷以来の家臣は直勝に、甲斐武田氏の遺臣などは直孝に配属された。
 同年の大坂夏の陣においては藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将・木村重成と長宗我部盛親を打ち破り(八尾・若江の戦い)、冬の陣での雪辱を遂げた。また秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し発砲して自害に追い込むという大任を遂げた。戦後、5万石を加増され、従四位下侍従へ昇進した。大坂の陣での直孝の勇猛な様は大坂冬の陣屏風,大坂夏の陣屏風,大坂夏の陣図(若江合戦図)などに描き込まれている,同じく井伊の赤牛とも呼ばれる。
 寛永9年(1632年)、秀忠は臨終に際して直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍・徳川家光の後見役に任じた(大政参与)。これが大老職のはじまりと言われる。その後、家光からも絶大な信頼を得て徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた。徳川家綱の元服では加冠を務め、宮参りからの帰りに井伊家屋敷にお迎えした。これらと家康の遠忌法会で将軍名代として日光東照宮に名代として参詣する御用は、直孝が務めて以降先例として彦根藩井伊家固有の御用となった。朝鮮通信使の応接においても幕閣筆頭としての役割を担うなど、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。
 関ヶ原の戦いの折に家康が伊達政宗に与えた「百万石のお墨付き」を後になって政宗が幕府に持ち出してきた時に調停にあたり、「確かに神君家康公の御真筆である。昔なら100万石でも200万石でも賜ろうとなされたであろうが、今は太平の御世で差し上げる土地もない。このような無益な難儀を起こしても仕方がない」と話して、お墨付きを政宗から取り上げ破いて燃やしてしまった。政宗は文句を言いながらも「今後ともよしなに」と引き下がるしかなかったという。
 江戸で直孝が鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺(弘徳庵)の前を通りかかると、中に入るよう手招きする猫がいたため、その寺に入った。すると辺りは突然雷雨となった。雨宿りをしながら寺の和尚と話をしているうちに、直孝は和尚と親しくなった。この寺は後に寄進を受け、立派に改築されて井伊家の菩提寺とされ、直孝の法名にちなんで豪徳寺と号した。それからその寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、招猫堂を立てて祀った。この話が招き猫、ひこにゃんの由来である。
 直孝が亡くなる4日前、家臣の内山太左衛門兄弟が直孝の許に呼ばれた。内山の父は大坂の陣で大坂方についていたが、母方の祖父が直孝家臣であったことから、直孝の配慮で助けられた。そのため彼らは直孝に対して特別に恩義を感じており、直孝の死去に伴い殉死しかねなかったことから、直孝が自らそれを禁じ、次世代への奉公を求めた。直孝による殉死の禁は誰よりも先んじたもので、寛文3年(1665年)の武家諸法度にも取り入れられた。 

 江戸城下で育ち幼少の頃から2代将軍徳川秀忠・家光父子に寵愛され、幕臣筆頭の家柄の嫡男として何不自由なく育ったために我が強い性格で、父とたびたび対立し言い争うことが多く、質素倹約を旨とした父に気に入られなかったと言われている。家光に「直滋が家を継いだら百万石をやる」と言われたと聞き、驕らず謙虚な姿勢に徹していた直孝が激怒したという話も伝わる。
 寛永4年(1627年)、叙任する。幕閣で多忙な父・直孝に代わり、領地の国政を沙汰することもあった。しかし万治元年(1658年)に廃嫡され(家譜には「病によりて」とある)、突然出家して湖東三山の一つ百済寺に遁世した。
 代わって末弟・直澄が世子となった。寛文元年(1661年)に死去した。享年50。

 

井伊直澄 井伊直興

 本来であれば直孝の長男の直滋が世子となるはずであったが、父と折り合いが悪く、万治元年(1658年)に廃嫡され遁世した。同年、4男の直縄が世子とされたが同年に逝去し、5男の直澄が世子と定められた。翌万治2年(1659年)、直孝が亡くなったためその跡を継いだ。
 寛文8年(1668年)11月19日、大老に就任した。延宝4年(1676年)1月3日、大老在職中に死去した。享年52。「子供が生まれても後継ぎにしてはならない」との直孝の遺言を守り、正室を娶らず、兄・直縄の子で甥に当たる直興を養子として家督を継がせた。側室との間に子供はいたが、家臣の分家に入って中野宣明と名乗った。
 穏やかながら機知に富んだ性格であった。ある日、徳川光圀の伴として徳川家綱の茶会に出席したことがあったが、家綱は茶を点てるのに不慣れで、一人では飲みきれない量を光圀に出してしまった。光圀も将軍じきじきに出された茶を残すわけにいかず困り果てた。そこで直澄が進み出て光圀に「上様がお点てになったお茶など頂戴する機会はなかなかございません。もしお飲み残しでしたら是非拙者にも賜れないでしょうか」と申し出たため、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ってその場が収まったという。
 江戸で浪人が大名屋敷の門前で「切腹するから介錯しろ」と脅して金をねだる事例が多発したことがあり、井伊家の門前にもやってきたが、直澄は平然と「したいと言うのなら切腹すれば良い」と答え、奥に招き入れ、食事をさせた後に切腹させた。これにより切腹騒動は鎮静化したという。なお、このエピソードが元になり、映画『切腹』が作られている。
 戦乱で灰燼に帰していた青岸寺(滋賀県米原市)を慶安3年(1650年)再興している。また父・直孝に恩義を感じ、供養のため高さ8mほどの石造七重層塔を琵琶湖の多景島に建てている。
 大老在任中に、江戸の市中を騒がせた浄瑠璃坂の仇討が起きている。仇討を果たした一党は自害せずに、幕府に出頭して裁きを委ねて来た。これは徒党を組んでの仇討であり、厳罰必至の裁定が下るところでありながら、大老であった直澄が死一等を免じて遠島流罪とした。さらに数年後には恩赦を与えて、仇討の面々を彦根家中に召し抱えた。この事件は元禄赤穂事件と似た点が多々あり、赤穂浪士たちが事前に参考にしたとされる。
 俳人の森川許六は直澄の家臣であった。 

 明暦2年(1656年)3月6日生まれ。父・直縄は伯父の井伊直滋が万治元年(1658年)に祖父・直孝に廃嫡された後に世子とされたが、同年に間もなく逝去した。その後、叔父の井伊直澄が世子となり祖父の死後家督を継いだ。直澄には子(中野宣明)はいたが、直孝が遺言で直縄の子である直興に後を継がせるように言い残していたため、寛文12年(1672年)11月27日に直澄の養子になり、延宝4年(1676年)の直澄の死去により家督を継いだ。
 彦根での治世は、延宝6年(1678年)に困窮と拝借金の支給を訴えた藩士76人を追放、翌7年(1679年)に家中法度を定め、家臣に対して厳しく統制を行った。また、下屋敷(欅御殿)に楽々園、瀟湘八景や近江八景を模した玄宮園を建造し、領内の琵琶湖に面した松原港,長曾根港を改築するなど土木事業に熱心であった。藩士への救済・引き締めも図り、貞享2年(1685年)には一転して藩士に対する融資制度を開始、元禄4年(1691年)には家老の木俣守長に命じて藩士の家系や由緒を集めて「侍中由緒書」を編纂、元禄6年(1693年)に藩士に対して上米を命じた。元禄10年(1697年)1月11日には追放した藩士76人に帰参を命じたり、元禄12年(1699年)に彦根藩で飢饉が発生した時は救米支援をしている。
 延宝8年(1680年)、溜間詰となり、徳川綱吉が5代将軍に任じられた朝廷への返礼の使者を務めた。また元禄元年(1688年)11月には日光東照宮の改修総奉行に任命され、翌2年(1689年)7月から3年(1690年)7月にかけて仙台藩主・伊達綱村と協力して大規模な修復を果たして功を挙げたため、元禄8年(1695年)11月28日に江戸城御用部屋入りを命ぜられ老中待遇となり、元禄10年6月13日には大老となった。しかし、3年後の元禄13年(1700年)3月2日に病を理由に辞任して国に帰り、翌14年(1701年)3月5日に次男の直通に家督を譲って隠居した。
 同年12月に直治と名を改めたが、直通が宝永7年(1710年)7月に22歳で早世したため、3男の直恒に跡を継がせたが、彼も同年10月に間もなく早世した。このため次の男子が成長するまで、剃髪して覚翁と号していたのを還俗して直該と改め、再び家督を継いで藩主となった。さらに翌年の正徳元年(1711年)2月13日に大老に再任し、官位も正四位上中将まで進んでいる。これは当時、徳川家宣が6代将軍に就任して間もない時期で、幕臣筆頭の立場である井伊家が政権に加わることで安定化を図る目的があったことが理由の1つと考えられる。
 正徳2年(1712年)10月14日に家宣が死去、翌3年(1713年)3月26日に家宣の息子・家継が元服すると烏帽子親を務めた。正徳4年(1714年)2月15日に5男の直惟が元服すると2月23日に大老を辞任、直惟に家督を譲って隠居し、名を直興に戻した後、翌5年(1715年)12月に出家して全翁と改めた。また末子の直定にも1万石を分知し、彦根新田藩を創設した。享保2年(1717年)4月20日、彦根にて62歳で死去した。遺骸は歴代藩主とは別に永源寺(東近江市)に葬られた。

井伊直通 井伊直恒

 元禄2年(1689年)8月15日、江戸で生まれた。8男であったが兄の相次ぐ夭折によって嫡子となった。元禄14年(1701年)3月5日に父から家督を譲られて藩主となる。わざと高禄の家臣に土木作業をあてがったり、粗食を好んだり、家宝の壺を割ってしまった家臣を許したり、質素倹約を好み優しさに満ちた人物であった。初めてお国入りして彦根城に入った時に「先祖の武功によりこの城を賜り、いま数万の民に領主と仰がれている幸福を思うと、知らずに涙があふれて止まらぬ」と感涙にむせんだという。
 父に先立って宝永7年(1710年)7月26日に22歳で死去した。嗣子が無く、跡を弟の直恒が継いだ。 

 元禄6年(1693年)3月16日、江戸にて生まれる。宝永7年(1710年)3月に兄・直通が直恒を跡継ぎとするよう定めて同年7月26日に死去したため、同年8月12日に養子となり家督を継いだ。ところが間もなく直恒も病気に倒れ、同年10月5日に江戸藩邸にて18歳で死去した。藩主として50日弱の在職であり、一度も彦根城を見ることがなかった。
 慌てた井伊家と幕府は、療養のため隠居していた父直興(覚翁)を還俗させ、直該と改名させて幕政,藩政に再度当たらせることとした。 

井伊直惟 井伊直定

 父・直興は直惟の誕生後まもなく隠居したが、家督を継いだ直惟の2人の兄・直通と直恒が次々と早世したため、直興(直該と改名)が再度藩主になった。正徳4年(1714年)2月15日に直惟が15歳まで成長したため直該は再び隠居し、直惟が藩主となった。質素倹約を推進し、武芸奨励と市井の視察を兼ねて大規模な鷹狩りを好んで行なった。また文化にも造詣が深く、絵画や詩文を残し、寺社への寄進も積極的に行っている(近江永源寺の能舞台など)。彦根城の石垣の改修も成された。
 8代将軍・徳川吉宗の世子・徳川家重の加冠の役を務めたが、病身を理由に一度は固辞しようとしている。兄達同様生来病弱であり、享保20年(1735年)5月9日に病気療養を理由に家督を弟の直定に譲り、江戸を去った。そして翌年6月4日、37歳で死去した。

 

 第4代藩主井伊直興の14男。早世が多い直興の息子のうちでは最も長命であった。正徳3年(1713年)に従五位下因幡守を叙任され、彦根新田藩1万石を分知された。しかし享保19年(1734年)、異母兄・直惟の要請により養子となり、新田藩を本家に還付し、翌享保20年(1735年)に直惟の隠居と共に正式に彦根藩を継いだ。
 質素倹約を旨とし、奏者番を務めていたことから率先して規律を守り実践していた。江戸城中でも握り飯の弁当を持参していた。
 兄達に似て病弱であったため隠居を決めたが、実子・直賢がまだ幼若であり、宝暦4年(1754年)6月19日に甥で兄.・直惟の子の直禔を養子として継がせたが、彦根に下ろうとしたところ直禔が急逝し、他家からの養子は幕府より許可が下りず、やむなく病身を押して同年8月29日に再勤となった。再び宝暦5年(1755年)、直禔の弟・直幸を養子として隠居、宝暦10年(1760年)に死去した。享年61。骸は彦根の清涼寺に葬られた。
 酔った家臣を望遠鏡で見つけ、傍にいた家臣にも見せたが、誰もが告げ口を避けるために酔った家臣の名を明かさず、景色を褒めるばかりであった。ただ一人だけ、得意げに酔った家臣の名前を報告した者がいたが、直定は後で「(報告した家臣は)余の傍に置く人材ではないな」と不快を示した。自身の立身出世のために同僚を売るような行為を卑しんだとされる。 

井伊直禔

 享保12年(1727年)9月8日、江戸藩邸にて生まれた。附役は青木平左衛門と犬塚十左衛門が勤め、赤坂御門之内の彦根藩中屋敷に居住した。
 叔父で先代藩主の井伊直定は病気療養のため隠居を希望していた。直定には実子の直賢がいたが幼少であったため、直禔が直定の養嗣子として迎えられた。宝暦4年(1754年)6月19日、直定の隠居により、家督を相続した。家中の混乱を憂慮して、当時としては異例ながら家臣の意見を丁寧に聞くことを重視し「法令を守り、倹約を旨として、武芸家芸に邁進すること」「皆の意見を聞くことを厭わないので、何かあれば余か側役に相談するように」「政が間違っていれば意見してほしい。そこから議論していきたい」などと家中に示した書面に残されている。
 しかし、こうした矢先に急病に倒れて、直禔は養子として上野館林藩藩主で越智松平家3代目の松平武元を迎えたいと幕府に申し出たが、井伊家の血筋を重視した幕府に却下され、隠居した先代の直定が再勤するよう命じられた。同年8月29日、病気のために急逝した。享年28。
 直定が再び藩主となったが、宝暦5年(1755年)、直禔の弟の直幸に家督を譲って隠居した。