<藤原氏>北家 良門流

F434:井伊直孝  藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 井伊共保 ― 井伊直平 ― 井伊直孝 ― 井伊直幸 F445:井伊直幸


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井伊直幸 井伊直中

 享保14年(1729年)7月21日、井伊直惟の次男として生まれる。彦根藩第9代藩主であった父の直惟が亡くなった時は、まだ5歳と幼少であったため、家督は叔父の直定に譲られた。直定に嫡子ができず、直幸の兄の直禔がその養子となったが、宝暦4年(1754年)に直禔が急逝し、幕命により直定が再び藩主となった。幕府は井伊家の血筋を重視して他家からの養子を許さなかったため、直定の養子となり、宝暦5年(1755年)に直定の再隠居に伴い、晴れて藩主となった。
 宝暦9年(1759年)12月12日、将軍の徳川家重の右大臣転任にともない、陸奥会津藩主・松平容頌とともに朝廷への使者を命じられる。なお、この人選は幕閣に工作し、上野前橋藩主・松平朝矩への内定を覆して実現したものであった。幕府内での序列(「譜代(将軍家家臣団)筆頭にして幕府大老の井伊家」と「親藩(将軍家親族)の筆頭格の一角である会津藩」、そして「親藩にして“将軍家の兄の家”である越前松平氏一門の朝矩」)を顧慮した上での工作であったと推測される。しかし宝暦10年(1760年)2月、養父の直定の病気を理由に使者を辞退、同じ溜詰の大名、讃岐高松藩主・松平頼恭と交代する。同年4月25日、朝廷への使者の務めを終えた松平容頌は左少将に任官、直幸は官職で序列を追い越されて、焦りを抱くようになる。同年9月6日、徳川家治の将軍宣下にともない、朝廷への使者を命じられる。その結果、同年12月6日、左少将に任官し、松平容頌と同格となる。同年、直英から直幸に改名した。
 直幸はさらなる官位の上昇を目論む。宝暦13年(1763年)9月6日、徳川家基の山王社へのお宮参りに際し、井伊邸でもてなし、翌日、従四位上に昇進する。明和2年(1765年)、徳川家康の150回忌に際し、日光東照宮へ将軍の名代として参詣する。その際、幕府へ官位の昇進を願うものの、却下される。ただし、同年10月15日、翌年の家基の元服に際しての加冠役を命じられて、左中将に任官する。なお、同日、松平容頌は理髪役を命じられて、同じく左中将に任官している。
 安永7年(1778年)2月23日、50歳に達したことやそれまでの功績を考慮されて、正四位上に昇進する。天明4年(1784年)11月28日には大老に任命された。大老在任中は実子の直富が藩政を執っていた。天明の大飢饉においても直幸の計らいで、領内各所に施粥場が設けられて藩の蔵から米が配られ、彦根藩では一人の餓死者も出さなかったといわれている。
 幕政では田沼意次と共に執政していたが、意次に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった。天明6年(1786年)に将軍の家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗や大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが政争に敗れ、天明7年(1787年)に大老職を辞する。
 文芸にも造詣が深く、絵画や書を残している。寛政元年(1789年)2月26日に死去した。享年61。世田谷の豪徳寺に葬られた。跡を6男の直中が継いだ。 

 明和3年(1766年)6月11日、13代藩主・井伊直幸の6男として江戸で生まれる。幼名は庭五郎といった。天明7年(1787年)7月に兄で世子だった直富が早世したため、同年9月25日に世子となる。寛政元年(1789年)に直幸が死去したため、家督を継いで彦根藩主となり、同年4月22日に掃部頭に任官する。
 直中は寛政の改革に倣って積極的な藩政改革を行ない、財政再建のための倹約令や町会所設置による防火制度の整備、殖産興業政策を行った。寛政11年(1799年)には藩校として稽古館を創設し、算術や天文学,砲術など多岐に指導し、人材育成に努めた(後に弘道館と改名)。ほかにも治水工事などの干拓事業を行ない、藩祖の井伊直政らを祀るために井伊神社を創設し、さらに佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成の慰霊を行った。
 文化9年(1812年)2月3日、家督を子の井伊直亮に譲って隠居し、左兵衛督と称す。天保2年(1831年)5月25日に彦根で死去した。享年66。
 実子に恵まれ、その多くは他藩の養子となって他家を継いだため、幕末の政治情勢に大きな影響を与えた。人数が多すぎたこともあって、14男の直弼のように養子先が決まらず部屋住みで過ごす者も出たが、直弼にはこれが幸いして3男・直亮の跡を継ぐことになった。
側室の中では直弼,直元の生母であるお富を特に愛し、お富が若死にしたときには身分の差から葬儀に参列できず、秋空に消えてゆく荼毘の煙を見ることしかできなかったという。また晩年の子供(直中数えで50歳の子)のためか直弼を愛したという。

 

井伊直亮 井伊直弼

 寛政6年(1794年)6月11日、第14代藩主・井伊直中の3男として江戸で生まれた。兄の直清が病弱だったため、文化2年(1805年)に直中から嗣子に指名され、文化9年(1812年)2月5日の父の隠居により家督を継いで第15代藩主となる。
 文化12年(1815年)には将軍・徳川家斉の名代として日光東照宮に参拝し、天保6年(1835年)からは大老に任じられた。しかし天保12年(1841年)5月15日に自ら職を辞している。この年の閏1月に家斉が死去し、将軍・徳川家慶や老中首座・水野忠邦によって旧家斉派は次々と粛清されていたため、直亮は巻き込まれるのを恐れて自ら辞任したと思われる。
 藩に戻ってからは洋書を買い入れたり蘭学者を登用したりと開明的な政策をとったが、守旧派の家臣には理解されず「むつかしき殿様」と皮肉られた。その後、幕府から相模国の海岸の警衛を命じられると、直亮は西洋式軍隊の練成に努め、列強の強引な開国要求に対応しようとした。また、藩内の国友一貫斎が反射望遠鏡を発明したと聞くと非常に喜んだという。 自ら雅楽を演奏し、また楽器の収集家でもあった。その楽器コレクションの一つ、銘「分龍雨」の楽箏(制作者:治光)が武蔵野音楽大学楽器博物館に所蔵されている。
 直亮には実子がなく、弟(直中の11男)の直元を養嗣子にしていたが、弘化3年(1846年)に早世したため、その弟(直中の14男)で国元にいた直弼を代わって養嗣子とした。
 嘉永3年(1850年)10月1日、彦根で死去した。享年57。跡を直弼が継いだ。 

 文化12年(1815年)10月29日、第14代藩主・井伊直中の14男として近江国犬上郡の彦根城二の丸の槻御殿で生まれる。母は側室の君田富(お富の方)。父の隠居後に生まれた庶子であった。父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎」と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした。この間、国学や茶道(石州流)のほか、和歌や鼓,禅,兵学,居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。また、このころ村山たかと出会い共に逢瀬を重ねた。
 弘化3年(1846年)、第15代藩主・井伊直亮(直中3男)の養嗣子となっていた直元(直中11男)が死去したため、江戸に召喚され、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。以降、世子として江戸に住まい、他大名家と交流を持つなど、後年の将軍継嗣問題における直弼の行動指針となった家格や血筋を重視する姿勢は、この頃に培われたとされる。
 嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで藩主となる。藩主となった直弼は人事の刷新に着手した。新野親良など長野義言の門人や部屋住み・世嗣時代からの側近など直弼に近い人物が充てられた。
 嘉永3年(1851年)12月2日、直弼は家中に向けて8箇条の書付を出し、藩主・藩士・領民の一和を説き、積極的な意見上申の奨励,人材登用の道,人材育成を重視する姿勢を示した。同日、亡兄・直亮の遺命と称して藩金15万両を士民に分配した。また、藩主として彦根に帰国した際には村々を巡見した。
 嘉永6年(1853年)6月8日、帰国したばかりの彦根で黒船来航の一報を受けた直弼は7月24日に江戸へ出府した。これに先立つ6月26日、老中首座の阿部正弘は、アメリカ合衆国の国書の写しを溜詰・溜詰格の大名に示し、アメリカの要求に対する対策を諮問してきた。直弼は当初は鎖国の継続を主張していたが、2通目の意見書では一転して現状での鎖国の維持は無謀とし、積極的な交易と開国を主張している。ただし、この意見書の後半には「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記してあり、直弼は元々は鎖国論者であり、彼の開国論を政治的方便とする説もある。
 阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩藩主との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭は攘夷を強く唱えたため、直弼には許しがたいものであった。
 安政2年(1855年)3月、アメリカから日本沿海測量の要望があった。幕府内は拒絶か容認かで二分されたため、阿部正弘は斉昭へ諮問し事態の収拾を図ろうとした。斉昭は阿部に開国・通商派の老中・松平乗全,松平忠固の2名の更迭を要求し、8月4日に阿部はやむなく両名を老中から退けた。10月9日、阿部が溜詰格の下総佐倉藩主・堀田正睦を勝手掛老中に推挙して老中首座を譲ったことで対立はひとまず収束をはかった。安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、溜詰の意向を反映した堀田正睦,松平忠固の連立幕閣が形成された。
 安政4年(1857年)10月27日、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、公使の江戸駐在と通商条約交渉の開始を要求した。幕府はその是非について議論したが、直弼ら溜詰9家の結束がものを言い、幕府は開国を決定し、12月17日より全権となった下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震がハリスとの交渉を開始。翌安政5年(1858年)正月8日、堀田正睦が勅許奏請のため上洛を命じられた。
 安政5年(1858年)4月21日、孝明天皇からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が江戸に戻り、将軍・家定に復命した際、家定の言により大老は、急遽、直弼とするよう将軍周辺が動いた。4月23日、登城した直弼は老中から大老職拝命を伝えられ、大老に就任した。
 直弼自身は、勅許なしの条約調印には反対であった。6月中旬、ハリスは神奈川沖まで廻航し、清国とのアロー戦争が休戦となって勢いに乗った英仏連合艦隊が日本に来航し、前年に結ばれた下田条約を超える内容の条約を要求してくるであろうから、速やかに米国と条約を締結してこれに備えるべきと勧告してきた。 これを受けて6月18日に行われた幕閣会議では、直弼と若年寄・本多忠徳のみが勅許を得てからの条約調印を主張した。急ぎ勅許を得る間、調印を引き延ばすようハリスと交渉するため、井上清直と岩瀬忠震を派遣したが、即刻の調印を目指していた井上と岩瀬は、やむを得ない場合は調印していいかと直弼に尋ね、直弼は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように」と答えたため、井上と岩瀬は調印承諾の言質を得たと判断して、6月19日にポーハタン号のハリスの許に行くとその日のうちに日米修好通商条約に調印した。勅許を得られぬまま条約調印が行われた事態に直弼は大老辞職の意思を宇津木景福ら側近に漏らしたが、宇津木らに「いま辞職すれば一橋派を利するだけである」と諫言されて翻意している。6月23日、直弼は堀田正睦と松平忠固を老中職から罷免し、代わって太田資始,間部詮勝,松平乗全の3名を老中に起用した。
 6月24日、松平慶永,徳川斉昭と水戸藩主・徳川慶篤,尾張藩主・徳川慶恕が江戸城に押しかけ登城した。斉昭らは幕府の違勅調印を非難し、事態収拾のため一橋慶喜を将軍継嗣とすることと松平慶永の大老就任を要求したが容れられなかった。翌25日、幕府は徳川慶福の将軍継嗣決定を公表した。7月5日から6日にかけて、幕府は斉昭ら4名と一橋慶喜に隠居,謹慎,登城停止などの処罰を行った。慶福は名を徳川家茂と改め、12月1日に将軍宣下を受けた。
 安政5年(1858年)7月6日、朝廷から幕府に条約調印の経緯について御三家、大老の内から1名を上京させて説明せよとの沙汰書が届くが、幕府は先の不時登城に対する水戸・尾張両家への処分と大老の公務繁多を理由にこれを拝辞し、代わりに老中・間部詮勝と新任(再任)の京都所司代・酒井忠義を上京させることした。直弼の対応に憤った薩摩藩主・島津斉彬は藩兵2,500人を引き連れて上京したが、藩兵軍事調練中に飲んだ水に当り急逝した。
 攘夷派の再起を図るべく、薩摩藩士とともに水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は安政5年(1858年)8月8日、戊午の密勅を幕府の他、諸藩に回送するようにとの添書き付きで水戸藩にも下して幕府政治を非難した。これは朝廷が幕府を無視して一藩に全国諸藩を取りまとめるよう指示を出すという江戸時代の幕藩体制を無視した行為であった。前代未聞の朝廷の政治関与に、幕府は厳しい態度で取り調べを進め、長野義言からの報告により、直弼は密勅降下の首謀者を梅田雲浜と断じて、所司代・酒井忠義に捕縛させた。さらに水戸藩士,薩摩藩士らの反体制的な行為の計画が露見し、多数の志士や公卿・皇族、堂上家の家臣が捕縛され、処分が行われた(安政の大獄)。処罰は幕臣にもおよび、旧一橋派の岩瀬忠震や川路聖謨,水野忠徳,永井尚志らが慶喜擁立に奔走していたことを罪に問われ、免職などの処分を受けた。閣内でも直弼の厳罰方針に反対した老中の太田資始,久世広周,寺社奉行・板倉勝静らが免職された。さらに京都から江戸に戻った後、直弼と政治方針をめぐって対立を深めていた間部詮勝も罷免されている。
 安政6年12月15日(1860年1月7日)、直弼は若年寄の安藤信睦とともに江戸城において水戸藩主・徳川慶篤に3日以内に戊午の密勅を返上するよう申し渡した。その後も催促は数度にわたり続けられ、水戸城で大評定が開かれ、勅諚の幕府への返納は已む無し、と決した。ところが水戸藩士民は勅書の返納を阻止、あるいは朝廷に直接返納すべきとし、尊攘激派は勅書の江戸降下を阻止しようと、水戸街道上の江戸への要路に駐屯して気勢を上げた。
 安政7年1月15日(1860年2月6日)、直弼は安藤信睦を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという。 これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、水戸を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も察知はしており、安政7年2月28日(1860年3月20日)にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある吉井藩主・松平信和が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の虞があるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった。
 安政7年3月3日(1860年3月24日)5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士,足軽,草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの一部は狼狽して遁走し、駕籠を守ろうとした彦根藩士たちの多くは、折から降り始めた雪を避けるために鞘に取り付けていた柄袋に邪魔をされ、抜刀する間も無く刺客たちに切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し首を刎ねた(桜田門外の変)。享年46。この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとした時、凶報がもたらされたという。
 直弼の首級は現場から有村次左衛門によって持ち去られたが、戦闘で重傷を負っていた有村は若年寄・遠藤胤統邸門前で自刃したため、首は遠藤家に引き取られた。事件後、井伊家はこれを供侍の首と称して取り戻し、胴と縫い合わせた。また直弼が襲われた場所でその血が染み込んだ土を家臣たちが俵に詰めて彦根に運び、天寧寺に納め、後世そこに供養塔が建てられた。他に当時、彦根藩の飛地であった下野国佐野の天応寺でも祀られている。
 事件直後から直弼の死を秘匿するための工作が行われ、同日中に直弼名義で幕府に提出された届書には「負傷したので一先ず帰邸した」とある。将軍・家茂からは見舞いとして高麗人参,氷砂糖,鮮魚が届けられた。この間、幕府は彦根藩に対し水戸藩への報復など過激な行動に走らないよう何度も慰留している。3月晦日、直弼は大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。井伊家の菩提寺である豪徳寺の墓碑に記された没日も実際の「安政7年3月3日」(1860年3月24日)でははなく、表向きの「蔓延元年閏3月28日」(1860年5月18日)となっている。戒名「宗観院柳暁覚翁」は生前の直弼が考えていたものである。

井伊直憲 井伊千代子

 父・直弼が実兄(直憲の伯父)直亮の世子だった時代に生まれる。実質的な長男(兄は生後間もなく夭逝)であったが、側室の子でもあり、直弼の生前に嫡子としての届け出はなされていなかった。
 安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、幕閣の政治的配慮により取り潰しを免れ、万延元年(安政から改元)4月28日に数え13歳で家督を相続した(直弼の死はただちに知れ渡っていたが、彦根藩は形の上で直弼の存命を装い、跡目相続の手続きを認められた)。大老として辣腕を振るった父とは対照的に地味な性格だった。同年8月26日、従四位下に叙位。左近衛権少将に任官し、掃部頭を兼任する。
 文久2年(1862年)11月20日、松平春嶽らによる幕政改革(文久の改革)において、父・直弼の専横・圧政を糾弾され、20万石へ減封された。これに先立ち、家老・岡本半介の進言を受け入れて、父の腹心であった長野主膳と宇津木景福を処刑しているが、処分は緩和されず、譜代筆頭でありながら幕府との関係は険悪化する。それでも天誅組が挙兵した時は幕命により出兵し、鎮圧に貢献した。
 元治元年(1864年)4月18日、左近衛権中将に転任。掃部頭如元。池田屋事件や禁門の変での功により同年8月22日、旧領のうち3万石を回復する。
 慶応2年(1866年)、第二次長州征討では高田藩兵とともに彦根藩兵が芸州口の先鋒となったが、大村益次郎の訓練を受けた長州藩諸隊の散兵戦術に旧式の装備・戦法で臨んだため、大敗を喫する。以後、藩内では谷鉄臣や大東義徹ら勤王派が台頭し、徳川慶喜に近い岡本半介の影響力が低下する。
 慶応4年(1868年)、戊辰戦争では前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いで、谷鉄臣らの藩兵が最初から新政府軍に属して東寺や大津を固めた。その後、東山道鎮撫総督に属し、近藤勇の捕縛に加わったが、小山の戦闘で大鳥圭介らの旧幕府軍に撃破される。彦根藩兵はその後、白河口から会津に転戦する。
 明治2年(1869年)6月、戊辰戦功により賞典禄2万石を付与された。谷や大東,西村捨三ら下級武士出身者主導の藩政改革を承認し人材登用を推進する。同年7月8日、彦根藩知事となる。
 明治4年(1871年)、アメリカおよびイギリスに遊学する。随員に、専修大学の創設者となった相馬永胤がいる。ちなみに、中央大学の創設者である増島六一郎も彦根藩の出身である。同年7月14日、廃藩により知事を免ぜられる。
 明治17年(1884年)7月7日、華族令により、伯爵に列せられた。 

 初名は弥千代。復縁の際に名を改め於千代、のちに千代子とした。1846年(弘化3年)1月(または弘化2年12月)、彦根にて生まれる。母は千田高品の養女・静江。当時、父の直弼は部屋住みの身分であり、彦根城下の埋木舎に過ごしていた。弥千代誕生の10日後、直弼は異母兄の彦根藩主井伊直亮の養子となる。1850年(嘉永3年)直亮の死により、彦根藩主となった。
 高松10代藩主頼胤(頼聰の義父)は思想的に井伊直弼と親交が厚く、溜詰大名という立場もあって、安政年間の条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも直弼側にあり、水戸9代藩主・斉昭に対抗する姿勢を取った。頼胤の養嗣子・頼聰と直弼の娘・弥千代の縁組は、1857年(安政4年)10月に決まったが、まさに条約調印問題のさなかであったから、水戸藩側の不快感を買ったらしい。
 1858年(安政5年)4月21日、婚儀が行われ、弥千代は頼聰の正室となった。翌日輿入れが行われ、婚礼道具は百十二棹に及ぶ大規模なものであった。しかし直弼の大老就任と時期が重なったため、花嫁の父が急に欠席する事態となった。4月23日、直弼は大老職に就いた。同年6月、直弼は日米修好通商条約を調印、10月には徳川家茂が将軍位につき、安政の大獄が始まる。安政の大獄は特に水戸藩に対して厳しく、高松藩主・頼胤も本家を監督できなかったとして咎めを受けているが、水戸藩士の間では頼胤が水戸藩を乗っ取ろうとしているという噂もあった。1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変により直弼は殺害された。頼胤は翌年7月に隠居し、弥千代の夫・頼聰が高松藩主となった。
 1862年(文久2年)、安政の大獄によって政局から遠ざけられていた徳川慶喜らが復帰した文久の改革によって、彦根藩は領国の3分の1である10万石を減らされ、前高松藩主・頼胤も永蟄居の処分を受けた。翌1863年(文久3年)2月、弥千代は離縁され、井伊家に帰された。この時、嫁入道具の雛道具も井伊家に返されている。なお、この雛道具は現存している。
 戊辰戦争では、彦根藩は譜代大名筆頭の家格であったが先年の幕府の処分に不満を抱いており、いち早く新政府軍を支持。高松藩は幕府軍につき朝敵とされたが、ほどなく恭順した。
 1872年(明治5年)、頼聰と復縁した。復縁に際して、於千代(のち千代子)と改名した。頼寿,胖,翠,岳子ら5男2女(3人は早世)を生む。 1927年(昭和2年)1月6日、83歳で死去した。
 なお、長男・頼寿の妻・昭子は徳川昭武の娘であるため、井伊直弼と徳川斉昭の実孫同士の夫婦であった。
 千代子の縁により、昭和41年(1966年)に高松市と彦根市は姉妹城都市になった。さらに昭和43年(1968年)彦根市と水戸市が親善都市となり、彦根市の仲介で昭和49年(1974年)高松市と水戸市が親善都市となった。

井伊直愛

 海軍軍人志望だったが体格に自信がなく、また当時の軍を支配していた藩閥を嫌って学問の道に進み、東京帝国大学農学部水産学科から同大学院に学ぶ。専門はアミ類で、約50種の新種を発見した。東大農学部嘱託,文部省資源科学研究所や滋賀県水産試験場,滋賀大学経済学部講師などを歴任した。
 1947年、父・直忠の死去から間もなく華族制度が廃止され、井伊家の伯爵位も失効した。
 1953年から9期にわたって彦根市長を務め、「殿様市長」と呼ばれた。10期目の再選を目指して臨んだ1989年の市長選挙に敗れ、獅山向洋が初当選している。公務の傍ら水産学の研究を続け、1961年には25年がかりの研究論文「極東海域におけるアミ類の分布に関する研究」で農学博士号を取得した。1989年に勲二等瑞宝章を受章している。
 1993年(平成5年)12月2日、胃癌のため彦根市松原町の自宅で逝去した。83歳没。