寛政6年(1794年)6月11日、第14代藩主・井伊直中の3男として江戸で生まれた。兄の直清が病弱だったため、文化2年(1805年)に直中から嗣子に指名され、文化9年(1812年)2月5日の父の隠居により家督を継いで第15代藩主となる。 文化12年(1815年)には将軍・徳川家斉の名代として日光東照宮に参拝し、天保6年(1835年)からは大老に任じられた。しかし天保12年(1841年)5月15日に自ら職を辞している。この年の閏1月に家斉が死去し、将軍・徳川家慶や老中首座・水野忠邦によって旧家斉派は次々と粛清されていたため、直亮は巻き込まれるのを恐れて自ら辞任したと思われる。 藩に戻ってからは洋書を買い入れたり蘭学者を登用したりと開明的な政策をとったが、守旧派の家臣には理解されず「むつかしき殿様」と皮肉られた。その後、幕府から相模国の海岸の警衛を命じられると、直亮は西洋式軍隊の練成に努め、列強の強引な開国要求に対応しようとした。また、藩内の国友一貫斎が反射望遠鏡を発明したと聞くと非常に喜んだという。 自ら雅楽を演奏し、また楽器の収集家でもあった。その楽器コレクションの一つ、銘「分龍雨」の楽箏(制作者:治光)が武蔵野音楽大学楽器博物館に所蔵されている。 直亮には実子がなく、弟(直中の11男)の直元を養嗣子にしていたが、弘化3年(1846年)に早世したため、その弟(直中の14男)で国元にいた直弼を代わって養嗣子とした。 嘉永3年(1850年)10月1日、彦根で死去した。享年57。跡を直弼が継いだ。
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文化12年(1815年)10月29日、第14代藩主・井伊直中の14男として近江国犬上郡の彦根城二の丸の槻御殿で生まれる。母は側室の君田富(お富の方)。父の隠居後に生まれた庶子であった。父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎」と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした。この間、国学や茶道(石州流)のほか、和歌や鼓,禅,兵学,居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。また、このころ村山たかと出会い共に逢瀬を重ねた。 弘化3年(1846年)、第15代藩主・井伊直亮(直中3男)の養嗣子となっていた直元(直中11男)が死去したため、江戸に召喚され、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。以降、世子として江戸に住まい、他大名家と交流を持つなど、後年の将軍継嗣問題における直弼の行動指針となった家格や血筋を重視する姿勢は、この頃に培われたとされる。 嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで藩主となる。藩主となった直弼は人事の刷新に着手した。新野親良など長野義言の門人や部屋住み・世嗣時代からの側近など直弼に近い人物が充てられた。 嘉永3年(1851年)12月2日、直弼は家中に向けて8箇条の書付を出し、藩主・藩士・領民の一和を説き、積極的な意見上申の奨励,人材登用の道,人材育成を重視する姿勢を示した。同日、亡兄・直亮の遺命と称して藩金15万両を士民に分配した。また、藩主として彦根に帰国した際には村々を巡見した。 嘉永6年(1853年)6月8日、帰国したばかりの彦根で黒船来航の一報を受けた直弼は7月24日に江戸へ出府した。これに先立つ6月26日、老中首座の阿部正弘は、アメリカ合衆国の国書の写しを溜詰・溜詰格の大名に示し、アメリカの要求に対する対策を諮問してきた。直弼は当初は鎖国の継続を主張していたが、2通目の意見書では一転して現状での鎖国の維持は無謀とし、積極的な交易と開国を主張している。ただし、この意見書の後半には「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記してあり、直弼は元々は鎖国論者であり、彼の開国論を政治的方便とする説もある。 阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩藩主との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭は攘夷を強く唱えたため、直弼には許しがたいものであった。 安政2年(1855年)3月、アメリカから日本沿海測量の要望があった。幕府内は拒絶か容認かで二分されたため、阿部正弘は斉昭へ諮問し事態の収拾を図ろうとした。斉昭は阿部に開国・通商派の老中・松平乗全,松平忠固の2名の更迭を要求し、8月4日に阿部はやむなく両名を老中から退けた。10月9日、阿部が溜詰格の下総佐倉藩主・堀田正睦を勝手掛老中に推挙して老中首座を譲ったことで対立はひとまず収束をはかった。安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、溜詰の意向を反映した堀田正睦,松平忠固の連立幕閣が形成された。 安政4年(1857年)10月27日、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、公使の江戸駐在と通商条約交渉の開始を要求した。幕府はその是非について議論したが、直弼ら溜詰9家の結束がものを言い、幕府は開国を決定し、12月17日より全権となった下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震がハリスとの交渉を開始。翌安政5年(1858年)正月8日、堀田正睦が勅許奏請のため上洛を命じられた。 安政5年(1858年)4月21日、孝明天皇からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が江戸に戻り、将軍・家定に復命した際、家定の言により大老は、急遽、直弼とするよう将軍周辺が動いた。4月23日、登城した直弼は老中から大老職拝命を伝えられ、大老に就任した。 直弼自身は、勅許なしの条約調印には反対であった。6月中旬、ハリスは神奈川沖まで廻航し、清国とのアロー戦争が休戦となって勢いに乗った英仏連合艦隊が日本に来航し、前年に結ばれた下田条約を超える内容の条約を要求してくるであろうから、速やかに米国と条約を締結してこれに備えるべきと勧告してきた。 これを受けて6月18日に行われた幕閣会議では、直弼と若年寄・本多忠徳のみが勅許を得てからの条約調印を主張した。急ぎ勅許を得る間、調印を引き延ばすようハリスと交渉するため、井上清直と岩瀬忠震を派遣したが、即刻の調印を目指していた井上と岩瀬は、やむを得ない場合は調印していいかと直弼に尋ね、直弼は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように」と答えたため、井上と岩瀬は調印承諾の言質を得たと判断して、6月19日にポーハタン号のハリスの許に行くとその日のうちに日米修好通商条約に調印した。勅許を得られぬまま条約調印が行われた事態に直弼は大老辞職の意思を宇津木景福ら側近に漏らしたが、宇津木らに「いま辞職すれば一橋派を利するだけである」と諫言されて翻意している。6月23日、直弼は堀田正睦と松平忠固を老中職から罷免し、代わって太田資始,間部詮勝,松平乗全の3名を老中に起用した。 6月24日、松平慶永,徳川斉昭と水戸藩主・徳川慶篤,尾張藩主・徳川慶恕が江戸城に押しかけ登城した。斉昭らは幕府の違勅調印を非難し、事態収拾のため一橋慶喜を将軍継嗣とすることと松平慶永の大老就任を要求したが容れられなかった。翌25日、幕府は徳川慶福の将軍継嗣決定を公表した。7月5日から6日にかけて、幕府は斉昭ら4名と一橋慶喜に隠居,謹慎,登城停止などの処罰を行った。慶福は名を徳川家茂と改め、12月1日に将軍宣下を受けた。 安政5年(1858年)7月6日、朝廷から幕府に条約調印の経緯について御三家、大老の内から1名を上京させて説明せよとの沙汰書が届くが、幕府は先の不時登城に対する水戸・尾張両家への処分と大老の公務繁多を理由にこれを拝辞し、代わりに老中・間部詮勝と新任(再任)の京都所司代・酒井忠義を上京させることした。直弼の対応に憤った薩摩藩主・島津斉彬は藩兵2,500人を引き連れて上京したが、藩兵軍事調練中に飲んだ水に当り急逝した。 攘夷派の再起を図るべく、薩摩藩士とともに水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は安政5年(1858年)8月8日、戊午の密勅を幕府の他、諸藩に回送するようにとの添書き付きで水戸藩にも下して幕府政治を非難した。これは朝廷が幕府を無視して一藩に全国諸藩を取りまとめるよう指示を出すという江戸時代の幕藩体制を無視した行為であった。前代未聞の朝廷の政治関与に、幕府は厳しい態度で取り調べを進め、長野義言からの報告により、直弼は密勅降下の首謀者を梅田雲浜と断じて、所司代・酒井忠義に捕縛させた。さらに水戸藩士,薩摩藩士らの反体制的な行為の計画が露見し、多数の志士や公卿・皇族、堂上家の家臣が捕縛され、処分が行われた(安政の大獄)。処罰は幕臣にもおよび、旧一橋派の岩瀬忠震や川路聖謨,水野忠徳,永井尚志らが慶喜擁立に奔走していたことを罪に問われ、免職などの処分を受けた。閣内でも直弼の厳罰方針に反対した老中の太田資始,久世広周,寺社奉行・板倉勝静らが免職された。さらに京都から江戸に戻った後、直弼と政治方針をめぐって対立を深めていた間部詮勝も罷免されている。 安政6年12月15日(1860年1月7日)、直弼は若年寄の安藤信睦とともに江戸城において水戸藩主・徳川慶篤に3日以内に戊午の密勅を返上するよう申し渡した。その後も催促は数度にわたり続けられ、水戸城で大評定が開かれ、勅諚の幕府への返納は已む無し、と決した。ところが水戸藩士民は勅書の返納を阻止、あるいは朝廷に直接返納すべきとし、尊攘激派は勅書の江戸降下を阻止しようと、水戸街道上の江戸への要路に駐屯して気勢を上げた。 安政7年1月15日(1860年2月6日)、直弼は安藤信睦を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという。 これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、水戸を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も察知はしており、安政7年2月28日(1860年3月20日)にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある吉井藩主・松平信和が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の虞があるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった。 安政7年3月3日(1860年3月24日)5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士,足軽,草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの一部は狼狽して遁走し、駕籠を守ろうとした彦根藩士たちの多くは、折から降り始めた雪を避けるために鞘に取り付けていた柄袋に邪魔をされ、抜刀する間も無く刺客たちに切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し首を刎ねた(桜田門外の変)。享年46。この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとした時、凶報がもたらされたという。 直弼の首級は現場から有村次左衛門によって持ち去られたが、戦闘で重傷を負っていた有村は若年寄・遠藤胤統邸門前で自刃したため、首は遠藤家に引き取られた。事件後、井伊家はこれを供侍の首と称して取り戻し、胴と縫い合わせた。また直弼が襲われた場所でその血が染み込んだ土を家臣たちが俵に詰めて彦根に運び、天寧寺に納め、後世そこに供養塔が建てられた。他に当時、彦根藩の飛地であった下野国佐野の天応寺でも祀られている。 事件直後から直弼の死を秘匿するための工作が行われ、同日中に直弼名義で幕府に提出された届書には「負傷したので一先ず帰邸した」とある。将軍・家茂からは見舞いとして高麗人参,氷砂糖,鮮魚が届けられた。この間、幕府は彦根藩に対し水戸藩への報復など過激な行動に走らないよう何度も慰留している。3月晦日、直弼は大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。井伊家の菩提寺である豪徳寺の墓碑に記された没日も実際の「安政7年3月3日」(1860年3月24日)でははなく、表向きの「蔓延元年閏3月28日」(1860年5月18日)となっている。戒名「宗観院柳暁覚翁」は生前の直弼が考えていたものである。
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