F431:藤原良門 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 井伊共保 | F441:井伊共保 |
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井伊共保 | 井伊行直 |
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寛弘7年(1010年)正月元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が御手洗の井の傍らに男児の捨て子を発見した。その子の顔立ちは端麗で瞳が明るく聡明であったという(諸説あり)。7歳の時、神童と称され、その噂を聞きつけた遠江国司・藤原共資の養子となり、藤原共保と称し共資の一女と婚した。 |
南北朝時代、後醍醐天皇と信頼が深い西園寺公重が遠江国浜松荘の領家職であることや、都田御厨が南朝の公卿である洞院実世の支配地であり、全体的に南朝側の荘園,御厨が多数見られ、伊勢神宮との関わりが深いこともあり、行直は南朝側につく。このような土地に注目した後醍醐天皇が、足場を築くため、息子である尊澄法親王をその土地に送り込んだ。建武4年/延元2年(1337年)春には尊澄法親王が還俗、宗良親王となる。 |
井伊直時 | 日蓮 |
井伊氏8代・泰直の子である直助が上野左衛門次郎を名乗って分家し渋川井伊家の始祖となる。直助,直貞,直秀,直幸と続き、井伊谷の本家井伊氏に匹敵する力を持っていたと推測される(渋川井伊氏を本家とする見方もある)。しかし、永正年間(1504~21年)に起きた遠江守護をめぐる斯波氏と今川氏の争いで、渋川井伊氏は斯波方に付いて敗れたことで、一族は離散したとされる。 |
鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。
詳細は、Wikipedia(日蓮)を参照
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