<藤原氏>北家 冬嗣裔諸流

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藤原良門 藤原利基

 正六位上・大舎人に叙任するが、利基,高藤の2子を儲けた直後に没したとされ、兄弟の中では唯一五位に昇ることがなかった。そのため、事績はほとんど伝わっていない。
 しかし、子孫は結果的に藤原北家を代表する一族の一つとなった。この系統を中心に、良門流からは歴史上著名な人物が多数輩出されている。紫式部,「夜の関白」と称された藤原顕隆,勧修寺流の各家(吉田,葉室,清閑寺,万里小路,中御門,勧修寺,坊城など)、また上杉氏,井伊氏を輩出している。ただ、井伊共保の子孫とされる「利世」なる人物は『尊卑分脈』などには名前が存在しない。

 貞観2年(860年)正六位上から従五位下に昇叙される)。貞観4年(862年)内匠頭を経て、貞観8年(866年)左衛門佐に任ぜられ以降、右近衛少将,左馬頭,右近衛中将と武官を務めるとともに、備前権介,相模守と地方官も兼ねた。またこの間、貞観11年(869年)従五位上、貞観19年(877年)正五位下、元慶3年(879年)従四位下に昇進している。
 生没年は不詳だが、寛平年間(889~898年)に卒去。最終官位は従四位上右近衛中将。

藤原兼茂 藤原兼輔

 寛平9年(897年)兼茂自身が外戚にあたる醍醐天皇の即位に伴い六位蔵人になると、翌寛平10年(898年)左衛門少尉に任ぜられる。昌泰2年(899年)従五位下に叙爵して、引き続き昇殿を許されるが、昌泰の変が発生した翌年の延喜2年(902年)従五位上・播磨介に叙任され地方官に転じる。
 延喜9年(909年)、昌泰の変以降執政の座にあった左大臣・藤原時平が没すると、翌延喜10年(910年)兼茂は左近衛少将として京官に復帰する。のち左近衛権中将,左近衛中将,左兵衛督と武官を歴任する傍ら、延喜14年(914年)正五位下、延喜17年(917年)従四位下と昇進を重ねた。
 延喜23年(923年)正月に参議に任ぜられ公卿に列すが、同年2月陣座において中風に倒れ、3月7日に卒去。
 勅撰歌人として、和歌作品が『古今和歌集』に2首、『後撰和歌集』に1首採録されている。『古今和歌集』によると、源実が筑紫に湯浴みに向かうのに同伴し、山城国と摂津国の境である山崎で歌を贈答した。
 延喜11年(911年)に宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦に酒豪として招聘され参加。

 醍醐天皇の外戚であったことから、その春宮時代より仕え、寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、讃岐権掾,右衛門少尉を経て、延喜2年(902年)従五位下に叙せられる。
 延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されたのち内蔵寮の次官次いで長官を務める傍ら、左兵衛佐,右衛門佐,左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕えた。延喜17年(917年)蔵人頭、延喜19年(819年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列した。延長5年(927年)従三位・権中納言に至る。
 承平3年(933年)2月18日薨去。享年57。最終官位は権中納言従三位行右衛門督。

藤原清正

 藤原兼輔の次男。官位は従五位上・紀伊守。三十六歌仙の一人。
 延長8年(930年)従五位下に叙爵、紀伊権介,備前権守と地方官を歴任する。天慶9年(946年)4月の村上天皇の即位に伴い昇殿を許され、10月に右兵衛権佐、翌天暦元年(947年)には五位蔵人に任ぜられた。天暦3年(949年)従五位上に叙せられ、のち近江介,左近衛少将,紀伊守を歴任した。天徳2年(958年)7月卒去。
 朱雀・村上朝の宮廷歌人であり、天暦年間の内裏歌合に度々出詠し、多くの屏風歌を制作した。『後撰和歌集』(8首)以降の勅撰和歌集に計28首が入集。私家集に『清正集』が有る。