<藤原氏>北家 高藤流

F431:藤原良門  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 藤原高藤 F451:藤原高藤

リンク F452
藤原高藤 藤原定国

 小一条内大臣,勧修寺内大臣と号した。右近衛将監,六位蔵人,美濃権大掾を経て、貞観10年(868年)に従五位下に叙せられる。清和朝から光孝朝にかけて、右兵衛権佐,左近衛少将,兵部大輔といった武官や尾張守など諸国の地方官を歴任したが、父・良門が微官のまま早逝したこともあり昇進は遅く、長らく位階は従五位に留まった。
 仁和3年(887年)、娘・胤子の夫であった光孝天皇の第七皇子・源定省が皇族に復帰し、即位(宇多天皇)したことに伴い急速に昇進する。
 寛平5年(893年)の宇多天皇と胤子との間の皇子・敦仁親王の立太子を受け、寛平6年(894年)に三階級の昇叙により従三位に叙せられ公卿に列した。翌寛平7年(895年)参議。
 寛平9年(897年)、敦仁親王の即位(醍醐天皇)に前後して正三位・中納言に叙任され、昌泰2年(899年)には大納言に至るが、参議昇進後は播磨権守,近江守と地方官を兼帯するのみで、政治面で目立った活躍は見られなかった。
 昌泰3年(900年)に危篤となる。時の天皇の外祖父であることから、大臣への昇進が検討されたが、当時、大臣の官職には左大臣・藤原時平と右大臣・菅原道真がおり、いずれも太政大臣昇進の資格を満たしてはいなかったために、大臣の席を空席にすることは困難であった。そこで藤原魚名以来100年以上途絶えていた内大臣を復置して高藤をこれに任じた。しかし昇進後わずか2ヶ月後の3月12日に没する。享年63。死後まもなく、天皇の外祖父として正一位・太政大臣の官位が贈られた。
 高藤と妻・宮道列子との出会いのいきさつが『今昔物語』「高藤の内大臣の語」などに記されている。

 泉大将と号す。仁和3年(887年)六位蔵人、仁和4年(888年)左衛門少尉を経て、寛平2年(890年)従五位下に叙爵。
 寛平年間は侍従,五位蔵人,右衛門佐として宇多天皇の身近に仕えるとともに、寛平5年(893年)、甥の敦仁親王が皇太子に立てられると、春宮少進のち同大進としてこれに仕える。またこの間、宇多朝末にかけて急速に昇進した。
 寛平9年(897年)7月の敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴って、従四位上・蔵人頭兼左近衛権中将に叙任される。その後も、昌泰2年(899年)には2月に参議に任じられ公卿に列すと、同年12月には従三位・中納言と、天皇の外戚として引き続き急速に昇進し、延喜2年(902年)大納言に至る。
 なお、この間の昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭・藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上して、菅原道真が失脚するきっかけを作り、変後には道真の後任として右近衛大将に任ぜられている。延喜4年(904年)、醍醐天皇の皇子・保明親王が立太子すると春宮大夫を兼ねるが、延喜6年(906年)7月2日薨去。享年41。

藤原胤子

 第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇,敦慶親王,敦固親王,柔子内親王,敦実親王の生母。
 元慶8年(884年)頃、光孝天皇の第七皇子源定省と結婚。同9年(885年)、長男・維城(のち敦仁と改名)を産む。仁和3年(887年)、夫の定省が皇族に復帰し即位する(宇多天皇)。同4年(888年)更衣となり、禁色を赦される。寛平4年(892年)1月、従四位下に叙され女御の宣旨を受ける。同年4月、敦仁親王が立太子。同8年(896年)に逝去。同9年、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈された。
 『今昔物語』によれば、父・高藤が山科へ鷹狩に出かけた際雨宿りをした宇治郡司・宮道弥益の家で、弥益の娘・列子を見初め一夜の契りでもうけたのが胤子である。宇多天皇との間に4男1女をもうけながらも早世したが、所生の醍醐天皇が即位したことによって高藤は内大臣にまで昇進、胤子の兄弟定方も右大臣となり、同家は以後、北家勧修寺流と称されることになった。陵墓は小野陵。