<藤原氏>北家 高藤流

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藤原定方 藤原朝忠

 寛平4年(892年)に内舎人への任官をはじめに、寛平7年(895年)陸奥掾、翌年には従五位下・尾張権守に叙任。寛平9年(897年)には甥の敦仁親王(醍醐天皇)の即位に伴い、右近衛少将と累進を重ねた。
 その後は相模権介などの地方官を歴任し、昌泰4年(901年)には従五位上左近衛少将に叙任された。その翌年の延喜2年(902年)には正五位下、延喜6年(906年)には従四位下・権右中将となった。
 延喜9年(909年)には参議として公卿に列し、延喜10年(910年)備前守、従四位上に昇叙。延喜13年(913年)には従三位・中納言となり、同年4月には左衛門督を兼帯した。延喜20年(920年)大納言、翌延喜21年(921年)には正三位。延長2年(924年)右大臣、延長4年(926年)従二位に至り、承平2年(932年)に60歳で没。死後の8月10日従一位を追贈された。三条に邸宅があったことから三条右大臣と呼ばれた。

 延長4年(926年)従五位下に叙爵。侍従を経て、延長8年(930年)朱雀天皇の即位に伴い五位蔵人となる。のち右兵衛佐,左近衛権少将,左近衛中将など武官を歴任する傍らで地方官を兼ねる。この間、天慶6年(943年)には従四位下に、天慶9年(946年)には村上天皇即位の大嘗会で悠紀方の和歌を詠んだ労により従四位上に昇叙されている。
 天暦6年(952年)参議として公卿に列す。天暦10年(956年)讃岐守、天徳2年(958年)備中守。応和元年(961年)従三位に叙され、応和3年(963年)中納言に任じられた。議政官として右衛門督・検非違使別当を兼帯するが、康保2年(965年)10月頃以降、中風により  政務に就くことが困難となり、同年11月右衛門督などの兼務を辞任。翌康保3年12月2日(967年1月)没。享年58。
 歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首が入集。家集に『朝忠集』がある。小倉百人一首の歌は『天徳内裏歌合』で六番中五勝した中の一首である。また、和歌のほかに笛や笙に秀でていた。
 『百人一首夕話』には、座るのも苦しいほどの肥満体で痩せるために水飯を食べるように医師に勧められたが、かえって太ったという逸話があるが、これは藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われる。 

藤原穆子 藤原朝成

 平安時代の左大臣・源雅信の正室。中納言・藤原朝忠の娘で、藤原道長正室である源倫子や源時通,源時叙,藤原道綱正室の母となった。
 藤原道長が源倫子に求婚した折に夫の雅信は倫子を一条天皇の妃にしようと画策しており、これを断ろうとしたが、穆子が倫子と天皇とでは年齢的に不釣合いであるとしてこれに反対し、道長を婿に迎え入れさせた。このため、道長もこの義母には頭が上がらなかったと言われている。
 夫の死後、出家したため、「一条尼」と呼ばれるようになる。その後、道長の昇進、孫娘の藤原彰子の入内などが続き、長保3年(1001年)の穆子の七十算の修法(70歳を祝う加持祈祷)は、道長夫妻の主催によって大規模に行われた。晩年は観音寺にしばしば籠ったという。
 長和元年(1016年)、曾孫に当たる後一条天皇が即位するが、間もなく病状が悪化し、道長夫妻も看病にあたったものの、同年7月に86歳で病死した。

 醍醐天皇の外叔父である定方の子として、天皇在位中に生まれたため、比較的順調に官途を開始した。ただ、醍醐天皇はこの叙爵の2ヶ月前に譲位し崩御しており、また政界の主流である藤原北家を出自とするものの、当時の太政官の首班であった藤原忠平やその子らとは別系統であり、醍醐天皇の即位によって公卿となる家格を得た傍流であったことから、以降の昇進は必ずしも順調とは言えなかった。天慶元年(938年)にようやく左兵衛権佐に進み、天慶5年(842年)右少弁を経て、以降は近衛少・中将と遥任の地方官を兼官した。
 天徳2年(958年)に参議として公卿となるが、安和3年(970年)に権中納言となるまで10年以上参議のまま留まり、この間には兄の中納言・朝忠を亡くしている。翌天禄2年(971年)に中納言に転じたものの、天延2年(974年)自身が比叡山西麓に創建した仏性院で死去した。享年58。
 『大鏡』では、蔵人頭の官職をのちに摂政となる藤原伊尹と争ったが敗れ、その後さらに別の行き違いによる仲違いもあり、伊尹とその子孫に祟る怨霊となったとされている。実際には、天暦9年(955年)に二人そろって蔵人頭に任ぜられており、また参議任官は朝成のほうが先である。
 『今昔物語集』では、三条中納言として、医師に太りすぎの相談をしたこととなっている。医師は冬は湯漬け、夏は水漬けを食べることを勧めたが、実際にはおかずに干し瓜十切れ、鮨鮎三十尾をいっしょに食べていて、とてもやせるのは無理だろうとさじを投げられている。 

藤原為輔 藤原惟憲

 天慶8年(945年)蔵人雑色,蔵人として朱雀天皇に仕える。天慶9年(946年)譲位後も院判官代として引き続き仕えながら、木工権助,式部少丞を歴任。天暦2年(948年)従五位下・豊前権守に叙任された。
 天暦4年(950年)因幡守、天暦9年(955年)には尾張守と地方官を務め、従五位上に昇進。引き続き丹波守,山城守,大和権守と務め上げ、その功で従四位下まで昇る。康保4年(967年)左京大夫を兼任し、安和2年(969年)右中弁に任ぜられた後、左中弁,右大弁と弁官を務めた。
 天延3年11月(976年1月)参議に任ぜられて公卿に列す。貞元2年(977年)正四位下に昇叙され、翌年には左大弁に進む。天元2年(979年)紀伊権守,勘解由長官、天元3年(980年)美濃権守を歴任。天元4年(981年)治部卿に遷り、永観2年(984年)正三位に叙されている。永観3年(985年)には播磨権守に任ぜられた。
 寛和2年(986年)権中納言,大宰権帥に任ぜられるが、同年8月26日に薨去した。享年67。

 

 一条朝にて大蔵大輔を経て、長保3年(1001年)因幡守として地方官に転じ、任期中には備蓄が尽きていた不動穀に再び8000石を備えさせるなど、同国の国力を回復させたと評価される。寛弘2年(1005年)に任期を終えるが、後任の橘行平から不動穀備蓄の実態がないことを理由に解由状を得られないまま帰京する。結局、左大臣・藤原道長に対応を頼み込み、後付けで国府の倉庫に大量の稲穀を運び入れるなどの策を弄した結果、朝廷から行平に対して解由状出状の命令を出させることに成功し、同年12月にようやく解由状を得ることができた。その後も、寛弘3年(1006年)甲斐守と一条朝中盤以降は地方官を歴任し、この間、寛弘4年(1007年)従四位下,寛弘8年(1011年)従四位上と順調に昇進する。
 藤原道長の家司として信頼が厚く、寛仁元年(1017年)、敦良親王(後の後朱雀天皇)が道長の外孫として初めて皇太子に立つと、その春宮亮に任ぜられている。また、国司として蓄えた財力をもって、京内の一等地である藤原道長の土御門第の西隣に邸宅を構える。長和5年(1016年)自邸から出火し土御門第や法興院など土御門大路から二条の北に至るまで500件以上の家屋が焼失したが、その再建の造営責任者となる。寛仁2年(1018年)に惟憲の邸宅と同時に再建を完了させるが、土御門第と同じ日に惟憲邸の移徙を行ったため、世人の不審を買ったという。
 治安3年(1023年)従三位・大宰大弐に叙任されて大宰府に赴任し、翌万寿元年(1024年)には赴任の労により正三位に昇叙された。長元2年(1029年)大宰大監・平季基が大隅国で国府を焼き討ちにするなど大規模な反乱を起こした際、惟憲は季基に対して絹3000余疋を賄賂として要求して受け取り、勝手に反乱の罪を赦してしまう。その後、朝廷から大宰府に対して作成された季基を捕縛すべき旨の命令書について、惟憲は書類作成手続きの不備を理由に再作成を強く要求し、結局命令書は大宰府に届くことはなかった。更に大隅守・船守重が惟憲が事件を握りつぶそうとしていると告発しようとすると、罪に陥れようとしている。同年に大弐の任を終えて帰京した際には、九州一円から略奪、あるいは外国からの交易船から接収した、数え切れないほどの財宝を随身が携えて帰京したという。
 長元4年(1031年)正月の王氏爵において、大蔵光高のことを宇多天皇の後裔の「良国王」と偽って、王氏爵の権限を持つ敦平親王に推挙させる。一旦、良国王は従四位下に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し叙位は取り消されてしまう。まもなく敦平親王に対する事情聴取が行われることになり、惟憲が激しく狼狽しているとの噂が立ったことや、王氏爵にも関わった関白・藤原頼通が惟憲を嫌って既に70歳近いのでいい加減に出家して隠居すれば良いと言った、との話が伝わっている。結局3月になって敦平親王は式部卿の職務を停止され、惟憲は参内を禁じられた。
 長元6年(1033年)3月26日薨去。享年71。
 藤原実資からは『小右記』にて、貪欲である上に善悪を弁えていなかったと評された。その一方で赴任先では賄賂を受け取りながらも税を低くするなど、政治手腕は確かだったとしている。また、藤原道長の側近であり、道長の邸宅である土御門殿の西側にあたる土御門南・富小路西に南北2町にわたる屋敷地を持っていた。長元4年(1031年)、北側の屋敷「鷹司殿」を道長の未亡人である源倫子に献上し、倫子はそこに移り住んだことから「鷹司殿」は彼女の別名にもなった。惟憲の没後、息子の憲房が残った南側の屋敷を藤原彰子に献上している。こちらは「陽明門第」と称され、長久元年(1040年)に土御門殿が火災で焼失した際にここを里内裏としていた後朱雀天皇の避難先となっている。

藤原泰通 藤原泰憲

 若年時より左大臣・藤原道長の家司を務める。一条朝前期に六位蔵人を務めながら、左近衛将監,主殿助,式部丞を兼ね、長保2年(1000年)従五位下に叙爵した。
 のち、中宮大進,美作介を経て、春宮・敦成親王の春宮大進を務め、この間の寛弘8年(1011年)正五位下に叙せられている。長和5年(1016年)正月に後一条天皇が即位すると五位蔵人に補せられ、2月には民部権少輔を兼ねるが、まもなく春宮大進の功労によって従四位下に叙せられ、1週間ほどで蔵人を去った。翌寛仁元年(1017年)美濃守に任ぜられると、治安元年(1021年)まで務め、この間の寛仁2年(1018年)従四位上、寛仁3年(1019年)正四位下と後一条朝初頭に順調に昇進を果たした。
 治安元年(1021年)、妻の源隆子が乳母をしていた春宮・敦良親王(のち後朱雀天皇)の春宮亮に任ぜられるが、この時点で美濃守任期満了後の解由状が提出されておらず、人々は驚き怪しんだという。治安3年(1023年)には播磨守を兼ねる。万寿4年(1027年)の国司の任期満了後も引き続き春宮亮を務め、長元4年(1031年)にこれを帯びていた記録が残っているが、長元9年(1036年)の後朱雀天皇の即位までには没したとみられる。 

 後一条朝にて、乳兄弟であった春宮・敦良親王の春宮蔵人から典薬助・左近衛将監を経て、長元3年(1030年)親王の御給により従五位下に叙爵する。その後も春宮権大進として敦良親王に仕える傍ら、長元7年(1034年)従五位上、次いで正五位下と順調に昇進した。
 長元9年(1036年)、敦良親王が即位(後朱雀天皇)すると、民部権少輔に阿波守を兼ね、さらに長元10年(1037年)禎子内親王が中宮に冊立されると中宮権大進も兼帯した。長暦4年(1040年)、左衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられるが、この人事について後朱雀天皇,関白・藤原頼通,上東門院の強縁によるものとして批判を受けている。さらに、翌長久2年(1041年)には五位蔵人に右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得た。
 寛徳2年(1045年)、後冷泉天皇が即位すると引き続き五位蔵人を務め、永承3年(1048年)左少弁,永承5年(1050年)従四位上・右中弁,永承7年(1053年)正四位下,天喜6年(1058年)権左中弁、康平5年(1062年)左中弁と、後冷泉朝でも弁官を務めながら昇進を続ける。またこの間、近江守,因幡権守,播磨守などの地方官も務めた。康平6年(1063年)、蔵人頭(頭弁)に補せられ、治暦元年(1065年)、参議兼左大弁に任ぜられて公卿に列した。
 議政官の傍らで、左大弁・勘解由長官などを兼帯し、この間にも順調に昇進。後三条朝末の延久4年(1072年)、権中納言に任ぜられ、30年以上の長きに亘って務めた弁官の職を離れた。白河朝初頭の延久5年(1073年)正二位に至る。
 承保3年(1076年)、病気のために辞表を上申するがまもなく却下される。承暦4年(1080年)には権中納言を辞して民部卿のみを帯びた。承暦5年(1081年)正月5日薨去。享年75。