円融朝で蔵人右衛門尉を務め、天延2年(974年)従五位下に叙爵する。のち、若狭守,外記を経て、一条朝の長徳元年(995年)、右少弁・藤原為任を越えて、左少弁に任ぜられる。翌長徳2年(996年)には右中弁に昇進し、長徳4年(998年)、蔵人頭兼左中弁・藤原行成が重病に伏して勤務不能となった際、行成に推挙されて五位蔵人に補せられた。またこの頃、検非違使佐も兼ねて三事兼帯の栄誉にも浴したという。 長徳5年(999年)、従四位下に叙せられて蔵人を去るが、引き続き弁官を務めて長保3年(1001年)左中弁、長保5年(1003年)正四位下と昇進を続けた。一方で、地方官として摂津守を兼ねるが、住吉神社との間で紛争があったらしく、長保6年(1004年)、説孝が参内しようとしたところを、説孝を訴えるために上京して陽明門に集まった住吉神社の神人に見つかって、追いかけ回される事件が発生している。 寛弘2年(1005年)右大弁、寛弘6年(1009年)左大弁と弁官の筆頭にまで昇るが、そこで昇進が止まってしまい、寛弘5年(1008年)下僚である左中弁・源道方が正四位上に叙せられて、正四位下に留まっていた説孝と位階が逆転してしまった。さらに、寛弘8年(1011年)、参議への任官人事において、大弁の経歴が6年にも及んでいた左大弁の説孝は三条天皇の意向で参議になれず、そのために正四位上・蔵人頭兼右大弁の源道方ではなく、大弁を帯びた頭弁がいる場合にもう一方の蔵人頭が越えて参議になれない慣例を破って位階も低い従四位下・蔵人頭兼修理大夫の藤原通任が参議に昇任される事態が起こっている。 寛弘9年(1012年)、説孝はついに参議昇進を断念したらしく、大弁の労8年をもって播磨守を希望して任ぜられ、地方官に転じる。その後、長和4年(1015年)まで播磨守を務めた。
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一条朝の中期に主殿助兼蔵人所雑色を務める。この間の長保2年(1000年)、右兵衛佐・藤原重尹との間で諍いが発生したらしく、頼明が重尹の従者に拉致される事件が発生している。のち式部大丞を務める。寛弘元年(1004年)、式部の巡爵は頼明の順番であったが、頼明らが故・源重文の邸宅の倉代の封印を勝手に開けたことを理由に内大臣・藤原公季が叙位を拒絶。これに対して頼明は愁文を提出しようやく従五位下に叙爵された。 後一条朝に入ると、太皇太后・藤原彰子に太皇太后宮大進として仕える。寛仁4年(1020年)右少弁を兼ねると、治安2年(1022年)正五位下に叙せられるが、万寿2年(1025年)従四位下・美濃守に叙任されて、受領に転じた。万寿3年(1026年)、藤原彰子が出家したため、頼明は大進も解かれている。 万寿4年(1027年)3月、頼明の屋敷が盗賊に襲われ、頼明の家人と揉め合った盗賊が放った火が周囲にも被害を与えた。同年、美濃守在職中のまま卒去。後任の美濃守には藤原庶政が取り急ぎ任ぜられた。
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