<藤原氏>北家 冬嗣裔諸流

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藤原冬嗣 藤原良輔

 北家藤原内麻呂の次男として生まれる。嵯峨天皇の側近として信頼が厚く、大同5年(810年)嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭となった。その後は嵯峨天皇のもとで急速に昇進し、年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、既に10年近く前に参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し、弘仁9年(819年)には大納言として台閣の長となった。
 最終的には父・内麻呂より一階級上の左大臣まで昇りつめ、北家隆盛の基礎を築いた。死後に正一位を贈られ、さらに娘で仁明天皇の女御である順子の子・道康親王が文徳天皇として即位した際、太政大臣を追贈された。平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称されたことから、閑院大臣とも言われる。
 政界での活躍のほか、藤原氏の長として一族をまとめることに心を砕き、子弟の教育機関である勧学院の建立、氏寺の興福寺への南円堂の建立、光明皇后の発願で創立された施薬院の復興を行った。 また『弘仁格式』『日本後紀』『内裏式』などの編纂にも従事し、文武を兼ね備えた多方面で活躍した。『凌雲集』,『文華秀麗集』,『経国集』に漢詩、『後撰集』には和歌も残している。『公卿補任』によると円満な人格者であったとされる。

 外祖父の安倍男笠は従四位下にまで昇り、かつ冬嗣と同年に没していることから、外祖父の支援を期待できる立場にありながら、良輔は正五位上・雅楽助に終わっており、それ以上の事績は伝わっていない。これは本人の才覚の問題も考えられるものの、外祖父の安倍男笠の評判が「性質素無才学、歴職内外不聞善悪」と芳しくなく、それが母親及び良輔に対する後ろ盾の弱さにつながったと推定されている。
藤原良相 藤原常行

 西三条大臣と号す。文徳天皇の外叔父。若くして大学で学び、その弁舌は才気に溢れていた。承和元年(834年)仁明天皇に召し出されて、蔵人兼右兵衛権大尉として天皇の身近に仕える。仁明朝の後半は武官を務めながら順調に昇進し、承和15年(848年)には参議として公卿に列した。また、この間の承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、左近衛少将として近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を包囲し兵仗を収めている。
 嘉祥3年(850年)甥の皇太子・道康親王が即位(文徳天皇)すると、文徳朝でも急速に昇進し、天安元年(857年)2月に太政大臣に昇進した兄・良房の後を受けて右大臣に就任した。
 清和朝に入ると、専ら重要な政務に心を砕き、悪を正して乱れを救うことを志したと評されたようになる。鳥類捕獲のために鷹を飼うことを一切禁止、畿内の租税体系(官稲出挙・徭役)の変更、時の政治に関して議論の活発化など。
 貞観6年(864年)正月には清和天皇の元服に伴って娘の多美子を入内させ女御としている。同年冬頃より、太政官の首班であった太政大臣・藤原良房(異母兄)が病に伏したことから、良相は太政官政務を掌握しており、太皇太后・藤原順子、その信任を得ている右大臣・良相、太皇太后宮大夫を兼ねる大納言・伴善男の三者連合で政権中枢を牛耳っていたとみられる。この頃から良房との良相との権力闘争が顕現化し始め、応天門の焼失事件が発生する。当初は自然発火的な災難とされたが、まもなく良相は伴善男の謀略に通じて左大臣・源信に対して応天門放火の嫌疑で遣使を行いその邸宅を囲ませる。しかし、これを知った良房が清和天皇に奏聞した結果、勅によって慰諭の遣使が行われて源信の嫌疑は晴れた。その後8月になって、大宅鷹取が応天門放火犯として伴善男を告発したため、伴善男に対する訊問が行われる。良相が伴善男の無実を証明するよう努めたが、ここで良房が摂政に就任、伴善男は断罪されて流罪に処された。貞観6年(864年)以来の良相・伴善男ラインによる太政官領導体制は完全に崩壊した。
 応天門の変後も良相は失脚はしていないが、かつてのような政治的影響力は既に失われ、幾度か致仕の上表を行っている。貞観9年(867年)10月初めに直廬で倒れ、同月10日に薨去。享年55。遺言に従って薄葬とし、一重の衾だけで棺を覆わせたという。以降、良房の系統が藤原氏の主流となっていく。

 天安2年(858年)文徳天皇の崩御後、同い年の従兄弟で太政大臣・藤原良房の養子となっていた基経とともに蔵人頭(兼右近衛権少将)に任ぜられ、これ以降、常行は基経と昇進を競っていくこととなる。
 天安2年11月の清和天皇即位に伴い従五位上、貞観2年(860年)には正五位下次いで従四位下と急速に昇進する。貞観4年(862年)右近衛権中将、貞観6年(864年)正月には基経と同時に参議に任ぜられ、29歳で公卿に列す。
 貞観8年(866年)常行は基経と同時に、正月に従四位上、3月には正四位下と昇進する。しかし、同年8月に発生した応天門の変の処理に当たった太政大臣・良房が摂政となる反面、常行の父である右大臣・良相は政治的影響力を失ってしまう。この状況の中で基経は12月8日に上位者7人を飛び越えて従三位・中納言に叙任、常行は昇進面で大きく水をあけられる。一方、良相が左近衛大将を辞任したことと引き替えに、12月16日に常行は右近衛大将に任ぜられた。
 貞観9年(867年)従三位に昇進し位階で基経に追いつくものの、翌貞観10年(868年)基経は左近衛大将に任ぜられ、常行は近衛府の席次でも基経の後塵を許してしまう。基経が貞観12年(870年)大納言、貞観14年(872年)には右大臣に昇進すると、常行はその後任として中納言,大納言に昇進する。
 貞観17年(875年)正月に正三位に昇叙されるものの、結局、昇進面で基経に追いつくことができないまま、同年2月に薨去。享年40。

藤原順子 藤原良仁

 『日本三代実録』によれば、容姿が美しい穏やかな女性だったと伝えられる。順子が「五条后」と称されたのは、その邸・東五条院(五条宮)に由来する。
 『伊勢物語』第五段によると在原業平と順子の姪である藤原高子が密かに恋に落ちたのは、高子が入内前、この邸にいた時で、門からは入れない業平は、子どもが踏みあけておいた塀の崩れから忍び込んだらしい。ほどなく高子は別の場所(藤原良房邸・染殿か)に移されてしまったらしい。
 宇治郡に安祥寺を建立した、また藤原乙牟漏が建立した大原野神社を勧請したとも伝えられる。

 嘉祥3年(850年)春宮大進・亮として仕えた皇太子・道康親王の即位(文徳天皇)に伴い、正五位上・中宮亮兼右兵衛権佐に叙任される。天皇の側近として蔵人・右近衛中将を務めたほか、右馬頭,木工頭,大舎人頭,左京大夫などを歴任し、またこの間仁寿4年(854年)には従四位下に叙されている。しかし、次期皇位継承に関連して天皇と兄の太政大臣・藤原良房との対立が緊迫化した天安元年(857年)9月に越前権守に左遷される。翌天安2年(858年)2月に兵部大輔に遷任、同年11月中宮大夫。
 母の服喪中の貞観2年(860年)8月5日病死。享年42。
 美しい容姿をしており、服装も美しく非常に鮮やかな装いをしていた。人柄は淡雅かつ高潔で、仏教への信仰心も厚かった。若くして大学に学び、読書に耽った。馬を愛好し、公事を終えて退庁ののちは馬を愛玩していたという。また、孝心厚く、母の死の際には哀啼哭泣し血を吐いて気絶したが、しばらくして蘇ったという。

藤原有実

 左近将監・蔵人を経て、貞観10(868年)22歳で従五位下に叙爵し、同年に兵部少輔次いで左近衛少将に任ぜられる。清和朝から陽成朝にかけて、蔵人に左近衛少将を兼ね、天皇の身近に仕える一方、若くして昇進を重ねる。元慶6年(882年)には従四位上・参議に叙任され、36歳で公卿に列す。清和朝以降の公卿到達時年齢としては、清和天皇の庶兄でのちに右大臣に昇る源能有(28歳)、藤原北家嫡流の藤原基経・常行(29歳)に次ぐものであり、諸大夫の子息としては異例の抜擢人事であった。元慶7年(883年)正四位下に昇叙。
 しかし、光孝朝以降は昇進が停滞し、延喜年間中期以降位階の上ではいずれも当時右大臣の官職にあった源光(正二位)あるいは藤原忠平(正三位)に次ぐ地位に昇るが、結局中納言へは昇進は叶わず、陽成・光孝・宇多・醍醐の四朝に亘って30年以上も参議に留まった。議政官として、宇多朝では左近衛中将・太皇太后宮大夫(太皇太后は藤原明子)、醍醐朝では左衛門督などを務めている。延喜14年(914年)5月12日薨去。享年68。