F305:藤原内麻呂 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 | F401:藤原冬嗣 |
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藤原冬嗣 | 藤原良輔 |
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北家藤原内麻呂の次男として生まれる。嵯峨天皇の側近として信頼が厚く、大同5年(810年)嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭となった。その後は嵯峨天皇のもとで急速に昇進し、年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、既に10年近く前に参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し、弘仁9年(819年)には大納言として台閣の長となった。 |
外祖父の安倍男笠は従四位下にまで昇り、かつ冬嗣と同年に没していることから、外祖父の支援を期待できる立場にありながら、良輔は正五位上・雅楽助に終わっており、それ以上の事績は伝わっていない。これは本人の才覚の問題も考えられるものの、外祖父の安倍男笠の評判が「性質素無才学、歴職内外不聞善悪」と芳しくなく、それが母親及び良輔に対する後ろ盾の弱さにつながったと推定されている。 |
藤原良相 | 藤原常行 |
西三条大臣と号す。文徳天皇の外叔父。若くして大学で学び、その弁舌は才気に溢れていた。承和元年(834年)仁明天皇に召し出されて、蔵人兼右兵衛権大尉として天皇の身近に仕える。仁明朝の後半は武官を務めながら順調に昇進し、承和15年(848年)には参議として公卿に列した。また、この間の承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、左近衛少将として近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を包囲し兵仗を収めている。 |
天安2年(858年)文徳天皇の崩御後、同い年の従兄弟で太政大臣・藤原良房の養子となっていた基経とともに蔵人頭(兼右近衛権少将)に任ぜられ、これ以降、常行は基経と昇進を競っていくこととなる。 |
藤原順子 | 藤原良仁 |
『日本三代実録』によれば、容姿が美しい穏やかな女性だったと伝えられる。順子が「五条后」と称されたのは、その邸・東五条院(五条宮)に由来する。 |
嘉祥3年(850年)春宮大進・亮として仕えた皇太子・道康親王の即位(文徳天皇)に伴い、正五位上・中宮亮兼右兵衛権佐に叙任される。天皇の側近として蔵人・右近衛中将を務めたほか、右馬頭,木工頭,大舎人頭,左京大夫などを歴任し、またこの間仁寿4年(854年)には従四位下に叙されている。しかし、次期皇位継承に関連して天皇と兄の太政大臣・藤原良房との対立が緊迫化した天安元年(857年)9月に越前権守に左遷される。翌天安2年(858年)2月に兵部大輔に遷任、同年11月中宮大夫。 |
藤原有実 | |
左近将監・蔵人を経て、貞観10(868年)22歳で従五位下に叙爵し、同年に兵部少輔次いで左近衛少将に任ぜられる。清和朝から陽成朝にかけて、蔵人に左近衛少将を兼ね、天皇の身近に仕える一方、若くして昇進を重ねる。元慶6年(882年)には従四位上・参議に叙任され、36歳で公卿に列す。清和朝以降の公卿到達時年齢としては、清和天皇の庶兄でのちに右大臣に昇る源能有(28歳)、藤原北家嫡流の藤原基経・常行(29歳)に次ぐものであり、諸大夫の子息としては異例の抜擢人事であった。元慶7年(883年)正四位下に昇叙。 |