<藤原氏>北家 内麻呂裔諸流

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藤原内麻呂 藤原長岡

 後長岡大臣と号す。桓武,平城,嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。
 桓武天皇が即位した天応元年(781年)に正六位上から従五位下に昇叙されると、延暦年間の初期に急速に昇進し、この間、武官や地方官を務める。のち、延暦13年(794年)平安京遷都の直後に、参議として公卿に列する。参議任官時、台閣では藤原南家の参議・乙叡(34歳)に次ぐ若さ(39歳)であったが、間もなく、右大臣藤原継縄,大納言紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚,石川真守の薨去・致仕もあり、延暦17年(798年)従三位・中納言に昇進する。延暦18年(799年)には造宮大夫に任ぜられ平安京遷都の責任者を務める。延暦24年(805年)12月に藤原緒嗣と菅野真道の間で議論されたいわゆる「徳政論争」においては、前殿で桓武天皇の側に侍した。
 延暦25年(806年)平城天皇が即位すると大納言に、さらに右大臣・神王の薨御を受けて、同年5月には正三位・右大臣に昇進し、台閣の首座を占めた。平城朝から嵯峨朝初期にかけては伊予親王の変や薬子の変が発生したが難を逃れ、弘仁3年(812年)右大臣の官に就いたまま薨御。享年57。死後、従一位・左大臣、まもなく太政大臣の官位を贈られた。
 若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従った。人々からは非常な才覚を持つ人物と評されたという。
 興福寺のために不空羂索観音像と四天王像を作り、子息の冬嗣に納めさせた。
 他戸親王が皇太子の時に悪意を持ち、名家の者を害そうとした。踏みつけたり噛みつく癖のある悪馬がいたため、親王はこの馬に内麻呂を乗せ傷つけようと試みたが、悪馬は頭を低く下げたまま動こうとせず、鞭を打たれても一回りするのみであったという。

 大同2年(807年)陸奥大掾、同年9月に左兵衛少尉に転じるが、任期の5年間で歩射・騎射の両方の節会に付き従い、作法を間違えることがなかったという。弘仁2年(812年)出羽介に任ぜられるが遥任として京に留まり、続いて駿河介と国司の次官を歴任。
 弘仁10年(819年)正六位上から従五位下昇叙され播磨介に任ぜられた。天長元年(824年)山城守、天長5年(828年)従五位上に叙任され、治部大輔,宮内大輔,木工頭を歴任。天長8年(831年)但馬権守兼右衛門佐、承和元年(834年)兼官が右馬頭に転じる。承和2年(835年)正月に正五位下、続いて同年9月従四位下に昇叙。この頃越前守に任官。
 承和10年(843年)山城守に任ぜられるも病であるとして出仕しなかったところ、同年7月大和守に任ぜられ、任官を固辞するも今度は許されず官職に就く。承和13年(846年)従四位上。大和守の任期終了後、大和国宇智郡の山家に隠居し、そこで没した。享年64。

藤原愛発 藤原大津

 弘仁元年(810年)薬子の変により高丘親王に替わって大伴親王(のち淳和天皇)が皇太弟となるとその春宮大進に任ぜられる。弘仁6年(815年)従五位下・兵部少輔に叙任される。同年9月中務少輔。のち近江介を経て、弘仁13年(822年)従五位上・民部大輔、翌弘仁14年(823年)正月に左少弁に叙任される。
 同年4月大伴親王が即位(淳和天皇)すると、急速な昇進を果たし、天長3年(826年)には参議として公卿に列した。皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の春宮大夫も務めている。
 天長10年(833年)正良親王が即位(仁明天皇)すると、天皇の外叔父である橘氏公や、天皇の父である嵯峨上皇の信頼が篤い甥の藤原良房らが急速に台頭する傍らで、愛発はしばらく従三位・中納言の地位にとどまるが、承和7年(840年)正三位・大納言に昇進する。仁明朝の宮廷においては、皇太子・恒貞親王(淳和天皇の皇子)の舅としてその側近集団の中核をなしたが、そのために、仁明天皇の皇子である道康親王(後の文徳天皇)の擁立を目論む良房と徐々に対立を深めた。
 承和9年(842年)に承和の変が勃発すると、良房の弟・良相が近衛兵を率いて恒貞親王邸を包囲。ここに出仕していた愛発は藤原吉野や文室秋津らとともに謀反人として逮捕されてしまう。さらに詮議の結果、京都郊外に放逐となったため、山城国久勢郡の別邸に籠もり、二度と政界に復帰することはなかった。

 18歳の時大舎人大允となり、常陸大掾,右近将監を経て、天長2年(825年)正六位上から従五位下に叙せられる。翌天長3年(826年)備後守に任ぜられるが、治績を上げ民に慕われたという。のち、天長9年(832年)大監物、天長10年(833年)散位頭、承和元年(834年)左馬助、承和3年(836年)信濃守を歴任する。
 承和9年(842年)6月神祇大副に任ぜられ、同年7月の承和の変においては山城国の宇治橋を守った。同年8月陸奥守次いで左衛門佐を兼ねる。承和11年(844年)従五位上・伊予守に叙任するが、豊作となり民を富ませたという。
 嘉祥3年(850年)備前守、仁寿元年(851年)正五位下に叙任される。仁寿4年(854年)10月9日卒去。享年63。
 身長が低かったが意気が軒高で、歩射が人並み外れて優れていた。また、地方官として優れた業績を残した。

 

 

藤原良縄 藤原 衛

 中務省の啓令により皇太子・道康親王に仕えるが、親王の寵愛を受け、嘉祥3年(850年)道康親王が即位(文徳天皇)すると、蔵人に抜擢される。仁寿4年(854年)8月皇太子・惟仁親王(のち清和天皇)の春宮亮を兼任するが、まもなく備前守として赴任していた父・大津が病に倒れたことを聞き、良縄は父の許へ馳せ参じようとするが、天皇の許しが得られなかった。結局同年10月大津は死去し、良縄は官職を辞して出仕を止めてしまう。まもなく、出仕するよう詔勅があり、同年11月左兵衛権佐に任ぜられる。文徳天皇の信頼は非常に篤く、内外の多数の政務を委ねられこれを決したという。
 天安2年(858年)文徳天皇の崩御後まもなく参議に任ぜられ公卿に列し、同年11月清和天皇の即位に伴い従四位上に昇叙される。清和朝では議政官として、左右大弁,右衛門督,検非違使別当などを兼官した。
 山城国葛野郡の別荘に文徳天皇の供養のために造仏・写経して安置し、出家した母を住まわせていたが、貞観4年(862年)この別荘を道場とし真如院を建立している。毎年8月の文徳天皇の命日には法華経を講じることを終生続けたという。
 貞観10年(868年)2月18日死去。享年55。
 姿格好がしとやかで優雅であり、立ち居振る舞いも細かいところにまでゆきとどいていた。性格も温厚で分を越えて飾り立てることを好まなかった。孝行心が非常に篤い一方、朝廷に対しても真心を込めて誠実に仕え、時の人に忠孝が伴に備わっている人格者であると称賛されたという。朝廷に仕えては、機密を漏らすことが決してなく、諸司諸院の長官として公事を取り仕切る際、決して誤った振舞いをすることがなかった。
 父母への孝養については、任国で没した父の様子を聞いて血を吐いて失神した。また、母が病床に伏せた際には、寝食を忘れ付きっきりで看病をし、その死の際の哀号は儀礼に留まらず、ほとんど毀滅してしまいそうなほどのものであったという話が伝わっている。
 人相見であった興福寺の僧・円一が良縄の容貌を見て、必ず卿相に昇り天皇の寵愛は比類がないであろうと言ったが、のちに同志に対して、命のみ惜しむべきであると嘆息したという。
 内舎人の官職にあった際、他の内舎人は名家の子弟ということで、度を過ぎて贅沢な上に、自由気ままに勝手な行動をしていたが、良縄を見ると皆が行動を改め法規を遵守するようになったという。
 清和朝において左大弁,左近衛中将の官職にあった際、年長の大儒学者であった右大弁・南淵年名や左中弁・大江音人、あるいは少壮気鋭で才望が非常に高かった左近衛少将・藤原基経がともに四位の位階にあったことから、自らが上職として現在の官職に留まるべきではないとして、病気と称してしばしば職務を離れ、懇切に辞退して敢えて職務を務めなかった。しばらくして、良縄は右衛門督に転任し、南淵年名は左大弁に、大江音人は右大弁に、藤原基経は左近衛中将にそれぞれ昇進したという。

 2歳で母を亡くしたが、衛が5歳の頃に母親というものはなぜ遅かれ早かれ死んでしまうものなのかと問い、母親を愛慕す様子は人々を感動させた。これを不思議に思った父・内麻呂は衛を嫡嗣に立てたという。7歳で学問を初め、弘仁7年(816年)18歳で文章生試に及第したことから、周囲の人々から前漢の賈誼に比されたという。
 中判事,大学助を経て、弘仁13年(822年)24歳で従五位下に叙爵するが、叙爵時の年齢としては、公卿に昇った他の兄弟(真夏:30歳、冬嗣:32歳、愛発:29歳、助:31歳)と比べ特に早かった。他の兄弟と比べて母(左大臣・藤原永手の娘)の身分が高かったことも影響したか。
 翌弘仁14年(823年)遠江守に任ぜられる。赴任前の弘仁11年(820年)に遠江・駿河両国では新羅人による蜂起事件が発生していたが、衛は穏やかで落ち着いた統治を行い、百姓達も喜んだ様子であったという。淳和朝では『令義解』の編纂にも参画した。
 承和7年(840年)5月の淳和上皇の崩御に際しては装束司を務めている。また、衛は淳和上皇の孫の二世王である恒世親王娘を室としているが、この承和年間前半に淳和上皇の信任を背景に婚姻が成立した可能性がある。しかし、承和9年(842年)正月に蔵人頭を解かれ大宰大弐として九州への下向を命じられる。これまで蔵人頭から地方官に転出した事例はなく異例の人事であった。これは新羅国内での張保皐の反乱が発生したり、張保皐と文室宮田麻呂の密貿易が発覚する中で、朝廷がより直接的に筑前国府,大宰府を掌握するために、遠江守在任時の新羅人鎮撫の実績を買われて衛が任ぜられたものと想定される。加えて、衛に替わる後任として、蔵人頭には外戚の橘岑継、同じく式部大輔にはかつて東宮学士として皇太子時代の仁明天皇(正良親王)に仕えた滋野貞主と、仁明天皇に親しい人物が充てられており、淳和上皇とも近い関係にあった衛を政権から遠ざけるための措置であった可能性もある。この人事に対して、衛は自分の力量では大宰大弐の任務に堪えないとして、今回の人選が誤りであること、なお天皇の身近で仕えたい旨を懇願する内容の上表を行う。この上表は天皇のもとを離れることで訪れる政治生命の危機を察知しての行動であったと考えられるが、結局認められず衛は大宰府に赴任した。なお、同年7月に嵯峨上皇が崩御すると、その直後に発生した承和の変により淳和上皇に近かった多数の貴族が失脚している。
 承和14年(847年)大宰大弐の任期を終えて帰京するが、以降昇進は停滞し、目前にしていたはずの参議昇進の機会も得られなかった。嘉祥2年(849年)渤海使節が入朝した際、節会において使節に対する応対之中使として陪席し、使節にその儀範を賞賛されている。
 嘉祥3年(850年)弾正大弼に任ぜられるが、王侯や高位の者でさえも恐れて憚る程であったという。仁寿元年(851年)勘解由長官兼加賀守に転任し、斉衡元年(854年)13年ぶりに昇叙され正四位下となる。天安元年(857年)6月に右京大夫に転じるが、同年11月5日卒去。享年59。

藤原 助

 少判事,大学助などを歴任し、天長4年(827年)淳和天皇の蔵人になるとともに、皇太子・正良親王の春宮少進を兼ねる。天長8年(831年)には淳和天皇の側近として蔵人頭に任ぜられるが、春宮亮として正良親王とも親しい関係を保つ。
 天長10年(833年)正良親王が即位(仁明天皇)すると、右近衛権中将に叙任され、翌承和元年(834年)には従四位下に昇叙と、仁明朝初頭は順調に昇進する。のち、右近衛中将,左兵衛佐、右衛門督と武官を歴任し、承和10年(843年)参議に任ぜられ公卿に列す。仁明朝の中期以降は昇進面でやや停滞し、甥の長良・良相兄弟らに昇進で先を越されるものの、議政官として右衛門督,左兵衛督などの武官や、加賀守,下野守,信濃守など主に東国の地方官を歴任した。
 仁寿3年(853年)疱瘡に罹患した後死去。享年55。
 性格は清廉で素直であり、世間の評判に憚ることはなかった。