F301:藤原房前 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 | F305:藤原内麻呂 |
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藤原内麻呂 | 藤原長岡 |
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後長岡大臣と号す。桓武,平城,嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。 |
大同2年(807年)陸奥大掾、同年9月に左兵衛少尉に転じるが、任期の5年間で歩射・騎射の両方の節会に付き従い、作法を間違えることがなかったという。弘仁2年(812年)出羽介に任ぜられるが遥任として京に留まり、続いて駿河介と国司の次官を歴任。 |
藤原愛発 | 藤原大津 |
弘仁元年(810年)薬子の変により高丘親王に替わって大伴親王(のち淳和天皇)が皇太弟となるとその春宮大進に任ぜられる。弘仁6年(815年)従五位下・兵部少輔に叙任される。同年9月中務少輔。のち近江介を経て、弘仁13年(822年)従五位上・民部大輔、翌弘仁14年(823年)正月に左少弁に叙任される。 |
18歳の時大舎人大允となり、常陸大掾,右近将監を経て、天長2年(825年)正六位上から従五位下に叙せられる。翌天長3年(826年)備後守に任ぜられるが、治績を上げ民に慕われたという。のち、天長9年(832年)大監物、天長10年(833年)散位頭、承和元年(834年)左馬助、承和3年(836年)信濃守を歴任する。
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藤原良縄 | 藤原 衛 |
中務省の啓令により皇太子・道康親王に仕えるが、親王の寵愛を受け、嘉祥3年(850年)道康親王が即位(文徳天皇)すると、蔵人に抜擢される。仁寿4年(854年)8月皇太子・惟仁親王(のち清和天皇)の春宮亮を兼任するが、まもなく備前守として赴任していた父・大津が病に倒れたことを聞き、良縄は父の許へ馳せ参じようとするが、天皇の許しが得られなかった。結局同年10月大津は死去し、良縄は官職を辞して出仕を止めてしまう。まもなく、出仕するよう詔勅があり、同年11月左兵衛権佐に任ぜられる。文徳天皇の信頼は非常に篤く、内外の多数の政務を委ねられこれを決したという。 |
2歳で母を亡くしたが、衛が5歳の頃に母親というものはなぜ遅かれ早かれ死んでしまうものなのかと問い、母親を愛慕す様子は人々を感動させた。これを不思議に思った父・内麻呂は衛を嫡嗣に立てたという。7歳で学問を初め、弘仁7年(816年)18歳で文章生試に及第したことから、周囲の人々から前漢の賈誼に比されたという。 |
藤原 助 | |
少判事,大学助などを歴任し、天長4年(827年)淳和天皇の蔵人になるとともに、皇太子・正良親王の春宮少進を兼ねる。天長8年(831年)には淳和天皇の側近として蔵人頭に任ぜられるが、春宮亮として正良親王とも親しい関係を保つ。 |