<藤原氏>北家 房前裔諸流

F001:藤原鎌足  藤原鎌足 ― 藤原房前 F301:藤原房前

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藤原房前 藤原永手

 藤原北家の始祖で万葉には藤原北卿とあり、大伴旅人への答歌等が見られる。政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、大宝(703年)には20代前半にして、律令施行後初めて巡察使となり、東海道の行政監察を行った。その後も兄武智麻呂と同時に昇進していたが、元明朝末期から元正朝初期にかけての高官の死亡(穂積親王,大伴安麿,石上麻呂,巨勢麻呂)を受けて、霊亀3年(717年)に武智麻呂に先んじて参議となった。これは、参議以上の議政官は各豪族から1名ずつという当時の慣習を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、右大臣である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった)。元明上皇が死の床で祖父・鎌足以来の内臣に任じて、皇太子・首皇子の後見役を託したのもその才能を見越してのことであった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、元正天皇が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。
 甥の聖武天皇即位後、天平元年(729年)に皇親勢力の巨頭で政治上のライバルであった長屋王を失脚させ(長屋王の変)、藤原四子政権の中心人物として、他の兄弟とともに政権を主導した。その後、長兄である武智麻呂との兼ね合いから、正式な位階・役職としては正三位・参議が極官のまま、他の兄弟に先んじて天然痘に倒れた。
 房前の子孫である藤原北家は、藤原四兄弟の子孫藤原四家の中で最も繁栄した。

 次男として生まれるが、長男の鳥養が夭折したため、実質的に北家の長となる。天平9年(737年)従六位上から従五位下に昇叙されるが、聖武朝では天皇の寵遇を得た同母弟・八束(のち真楯)とは対照的に昇進が停滞し、その後塵を許した。
 孝謙朝に入ると重用され、急速に昇進し公卿に列す。さらに天平勝宝8年(756年)聖武上皇の崩御直後には非参議から一挙に権中納言に昇進した。一方で、当時の実力者であった藤原仲麻呂とは対立関係にあったとされ、天平宝字元年(757年)の道祖王廃太子の際には、孝謙天皇の皇嗣として藤原豊成とともに塩焼王を推挙し、天平宝字2年(758年)8月25日に開かれた仲麻呂による官号改易の際の太政官の会議に議政官では唯一欠席している。そのために、天平勝宝9年(757年)に仲麻呂が朝廷の全権を把握して以降、中納言として石川年足あるいは文室浄三についで太政官の第3位の席次にあったものの、政治的には不遇の状況に置かれた。
 天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱では孝謙上皇・道鏡側に参加して活躍し、正三位・大納言に叙任、勲二等を叙勲される。その後、道鏡政権が成立し右大臣・藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。天平神護2年(766年)には右大臣次いで左大臣に任ぜられ、正二位に昇叙されている。
 神護景雲4年(770年)の称徳天皇崩御に伴う皇嗣問題では、天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。なお、「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文室浄三・大市を推した吉備真備に対して、式家の藤原良継・百川兄弟とともにこれに対抗したとされている。また、同年光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継,百川らの反対を押し切って、井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている。
 宝亀2年(771年)2月に病により薨去。享年58。即日太政大臣の官職を贈られた。

藤原雄依 藤原真楯

 天平神護3年(767年)従五位下・右衛士督兼内豎少輔に叙任されるが、同年8月備前権守に左遷され、翌神護景雲2年(768年)備前守となる。神護景雲3年(769年)称徳天皇が父・永手邸に行幸した際に、兄・家依とともに一階の加階を受け従五位上に叙せられる。
 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴い正五位下に昇叙されると、天皇を擁立した功臣である永手の子息として順調に昇進した。この間、内蔵頭,右衛士督,左京大夫,侍従,式部員外大輔,宮内卿を歴任するとともに、備前守,播磨守,讃岐守と地方官を兼ねた。
 天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴い従四位上、延暦4年(785年)正四位下・大蔵卿に叙任されるなど、桓武朝に入っても順調に昇進する。しかし、延暦4年(785年)9月に発生した藤原種継暗殺事件に連座して隠岐への流罪となった。延暦24年(805年)同じく流罪となっていた五百枝王らとともに赦されて帰京し、翌延暦25年(806年)桓武天皇の崩御直前に、本位に復されて従四位上に叙せられた。六国史にそれ以後の消息についての記録はない。

 天平12年(740年)正月に従五位下に叙爵すると、聖武天皇に才能を認められその寵遇を得て急速な昇進を果たす。聖武朝においては、天皇の命により特別に上奏や勅旨を伝達する役目を担ったという。聖武天皇の寵幸を受けた理由としては、八束の持つ文学的才能と詩文を通じて築かれた交友関係が想定される。
 孝謙朝に入ると、兄・永手がめざましい昇進を遂げ、八束は官途で先を越される。しかしながら、天平宝字2年(758年)の唐風への官名改称に賛同、同じ頃には唐風名「真楯」の賜与を受ける等、藤原仲麻呂政権下で仲麻呂の施策に協力姿勢を見せたほか、その官歴を踏まえると仲麻呂政権の中枢にあったと見られ、天平宝字6年(762年)中納言と順調に昇進を続けた。またこの間、天平宝字2年(758年)に来朝した第4回渤海使の楊承慶が翌年帰国する際に、八束は餞別の宴を開催し、楊承慶は感動し賞賛している。
 天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側についた。称徳朝においては、天皇の寵幸を背景にした道鏡による政治主導体制や、その体制強化を目的とした道鏡の出身地である河内国を中心とする地方豪族の抜擢といった方針に対抗して、仲麻呂政権下では一定の距離があった永手・真楯兄弟は協力姿勢を取った。天平神護2年(766年)正月には右大臣に昇進した永手の後を受けて大納言に任ぜられるが、3月12日に薨去。享年52。太政大臣の官職を贈られた。
 度量が広くて深く、宰相として天皇の政務を補佐する才能があった。公務にあたっては、公平で潔く、私情に流されることはなかった。後年、藤原氏で最も繁栄する藤原道長,頼通親子等を輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。

藤原清河 藤原御楯

 唐名は河清。遣唐大使として入唐し、阿部仲麻呂と唐朝に仕えるも、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま没した。
 聖武朝にて順調に昇進して天平18年(746年)には従四位下にまで昇叙、天平勝宝元年(749年)の孝謙天皇即位に伴い参議に任ぜられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。
 天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる。副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し君子人なりと称賛された。
 天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。日本の席次が西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるのに対して、新羅が東畔第一席で日本より上席であったことに抗議し、新羅と席を交代させ、日本の面目を守っている。同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐35年におよび唐の高官にもなっていた阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。日本への渡航を望む鑑真一行が乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。しかし、副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い、唐南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着する。土人に襲われて船員の多くが害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。
 天平宝字3年(759年)清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。しかし、当時は安史の乱により唐は騒乱状態であったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。天平宝字7年(763年)日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、天平宝字8年(764年)従三位に昇叙している。
 清河は帰国できないまま在唐十余年に及び、宝亀8年(777年)次回の遣唐使が入唐したが、翌年、清河は唐で客死した。唐からは路州大都督の官が贈られた。なお、清河は唐の婦人と結婚して、喜娘という娘を儲けており、喜娘は宝亀の遣唐使に伴われて来日した。

 天平勝宝元年(749年)4月正六位上から従五位下に、同年7月の孝謙天皇の即位に伴い従五位上に昇叙される。同母兄の藤原永手や八束が藤原仲麻呂と対立したのに対し、妻が仲麻呂の娘、姉が仲麻呂の妻という親族関係から、千尋は仲麻呂の側近であったと推測され、天平勝宝9年(757年)仲麻呂が大炊王を皇太子に冊立し紫微内相に任ぜられて権力を握ると、千尋は同年5月に正五位下、8月正五位上と続けて昇叙される。
 天平宝字2年(758年)大炊王の即位(淳仁天皇)に伴って、千尋から唐風名の「御楯」に改名し、従四位下に昇叙。天平宝字3年(759年)には従四位上・参議に叙任され、兄の永手,八束,清河に次いで房前の子息4人が同時に公卿に列した。その後も天平宝字5年(761年)には従三位にまで昇叙され、兄・真楯(八束)に昇進面で肩を並べるなど、仲麻呂政権の有力メンバーとして目覚ましい昇進を遂げた。また、御楯は授刀衛の長官(授刀督)であったことから、仲麻呂政権において特に軍事面を担っていた。しかしながら、天平宝字8年(764年)6月仲麻呂に先立って急死してしまい、そのことが同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱で仲麻呂が敗退する間接的な原因となったと考えられている。