天平宝字2年(758年)正月、西海道問民苦使に任じられ、9月に民の疾苦29件を太政官に上申、大宰府がそれに対処している。同年8月正六位上から従五位下に昇叙。のち、文部(式部)少輔,東海道巡察使,但馬介,大判事を歴任する。 天平宝字8年(764年)9月に藤原仲麻呂の乱が勃発すると、従四位下に昇叙されてその追討に当たり、乱終結後の10月には美濃守に任ぜられ、翌天平神護元年(765年)正月には勲四等を叙勲されている。以降、称徳朝において、右兵衛督,大宰大弐,右大弁と要職を歴任する。神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御すると、大葬の御装束司を務める一方、弾正尹として道鏡に下野国への下向を促す任務も果たした。 宝亀元年(770年)10月の光仁天皇即位に伴い従四位上に昇叙されると、宝亀3年(772年)に参議に任じられて公卿に列し、宝亀5年(774年)には従三位に叙せられるなど、光仁朝では順調に昇進した。またこの間、右衛士督,大蔵卿,摂津大夫を歴任している。宝亀7年(776年)6月13日薨去。
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前山科大臣とも称された。 父・楓麻呂は西海道使や国司等を歴任し、長く地方行政に携わった後、参議へ昇進して4年後の宝亀7年(776年)に薨去した。当時、園人はまだ無位で任官していなかったが、父歿から3年後の宝亀10年(779年)従五位下に初叙され、美濃介に任ぜられた。 その後、備中守,安芸守,大宰少弐,豊後守,大和守と桓武朝の前期から中期にかけて長く地方官を務めた。園人は百姓の立場から仁政をしく良吏であったらしく、国守として赴任した豊後国では、園人の善政と遺徳を頌える祠が建てられ、大分県日出町大神の御霊社に現存している。また、大和守の官職にあった延暦18年(799年)には、郡司について任務が大変な割に外考(外位に対する考課。内位に比べて昇進が遅い)扱いで、子孫に対して恩恵を残すことができず、十分な収益も得られないことから、郡司に任じても辞退者が続出して郡の行政に支障を来していたため、内考扱いとするよう言上し、朝廷より畿内5ヶ国について認められている。延暦17年(798年)従四位下・右京大夫に叙任されて京官を兼ねると、のち右大弁,大蔵卿と要職を歴任した。 大同元年(806年)平城天皇即位に伴って正四位下・参議(のち観察使制度の設置により山陽道観察使)に叙任され公卿に列した。また、皇太弟に立てられた神野親王(後の嵯峨天皇)の皇太弟傅にも任じられている。 この頃から積極的な政策提案を行い、多くが採用された。園人の民政提案は、百姓撫民(貧民救済)と権門(皇族・有力貴族・寺社)抑制の2つの大きな方針から構成されていた。大多数の百姓は次第に貧民化していき、ごく少数の富豪百姓らに従属していく等、従前の共同体秩序が変質し始めていた。百姓層の均質性は律令制維持のための前提条件であり、園人の政策提案は、百姓層の均質性維持、ひいては律令制維持を図ったものであり、園人の政策を採用した当時の政府もまた、律令制維持を企図していたのである。 大同4年(809年)東宮傅として仕えた嵯峨天皇が即位すると正三位・中納言に任ぜられ、翌大同5年(810年)には大納言に昇進する。弘仁3年(812年)には右大臣・藤原内麻呂の薨去に伴い、園人は嵯峨天皇の厚い信任のもと右大臣に任官し、太政官の首班に立った。また、弘仁5年(814年)には従二位に叙せられると共に、6月に万多親王らと『新撰姓氏録』を嵯峨天皇へ提出している。 『日本後紀』等によれば、園人が主導する政府の施政方針は、参議時代から提唱していた百姓撫民及び権門抑制だったと考えられている。しかし園人の精力的な取り組みにも関わらず、社会状況は必ずしも好転しなかったようである。 弘仁9年(818年)12月19日薨去。享年63。嵯峨天皇はその死を非常に惜しみ、葬儀へ使者を遣わすと共に、左大臣正一位の官位を贈った。空海も園人への追悼の書を記している。
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