<藤原氏>北家 房前裔諸流

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藤原鳥養 藤原小黒麻呂

 天平元年(729年)正六位上から従五位下に叙せられる。これは弟・永手の叙爵より8年程早いことから、父・房前が20歳代前半であった、慶雲年間(704~708年)の生まれの可能性が高い。
 その後『六国史』等に鳥養に関する記述がないことから、次男・小黒麻呂が生まれた天平5年(733年)から程なくして早世したものと考えられている。なお、鳥養自身は五位に留まったが、子孫は藤原小黒麻呂以降3代に亘って公卿に昇っている。

 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の論功によって従五位下・伊勢守に叙せられる。称徳朝では式部少輔,安芸守,中衛少将を歴任する。
 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴い従五位上に昇叙されると、光仁朝では順調に昇進し宝亀10年(779年)には参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間、左京大夫,右衛士督や上野国,常陸国などの国司を歴任している。
 宝亀11年(780年)伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)が起こると、藤原南家・藤原継縄の後任として持節征東大使に任ぜられ2,000の兵を率いて出兵し、敵の要害を遮断したという。しかしながら、優勢な蝦夷の軍勢の前に大規模な軍事作戦を展開できないまま、翌天応元年(781年)6月征夷部隊を解散、8月に帰京し正三位に叙せられた。
 延暦3年(784年)に中納言に昇進。同8年(789年)には、巣伏の戦いで蝦夷の酋長・阿弖流為に惨敗した征東大使・紀古佐美に対して、藤原継縄とともに敗軍状況に対する追求を行った。同9年(790年)に大納言となる。同3年に長岡京、同12年に平安京のそれぞれ造営の相地役を務め、また光仁天皇,高野新笠,藤原旅子,藤原乙牟漏といった桓武天皇近親者の葬儀、喪事にも大きな役割を果たすなど、桓武天皇の政権運営に当たって大きく貢献した。
 延暦13年(794年)に病を得て、特に正倉院の雑薬を贈られたが、7月1日に62歳で薨去。死後、従二位が追贈された。

藤原葛野麻呂 藤原常嗣

 妹・上子が桓武天皇の後宮に入ったために重んじられ、延暦4年(785年)従五位下に叙されると、以降摂津次官,陸奥介と地方官を務めた後、少納言,右少弁と太政官の三等官を歴任する。平安京の造宮使にも任ぜられ、延暦12年(793年)には官人に新京の宅地を配分している。延暦13年(794年)には皇太子・安殿親王(のち平城天皇)の春宮大夫に任ぜられるともに、正五位下・左少弁に叙任され、翌延暦14年(795年)従四位下・左中弁、延暦15年(796年)従四位上・兼春宮大夫、延暦16年(797年)右大弁と、要職である弁官を務めながら急速な昇進を果たした。
 延暦20年(801年)遣唐大使に任命され、延暦23年(804年)7月に最澄,空海らと共に唐に渡る。同年12月徳宗に謁見し、翌延暦24年(805年)の徳宗崩御と順宗即位に遭遇した。同年7月に帰国、大使の功により従四位上から一挙に従三位にまで昇叙され公卿に列した。
 延暦25年(806年)安殿親王の即位(平城天皇)に伴い、それまで春宮大夫として親王に仕えていた葛野麻呂は直ちに権参議さらに参議に昇進し、式部卿を兼ねた。翌大同2年(807年)観察使制度の制定により参議が一時廃止されると東海道観察使に転じた。その後も天皇の近臣として重用され、大同3年(808年)中納言、翌大同4年(809年)に正三位に叙任された。
 大同5年(810年)薬子の変が発生した際には、平城上皇に対して挙兵のために東国へ向かうことを思いとどまるよう、藤原真雄とともに諌めたが受け入れられなかった。藤原薬子と縁戚関係であったが罪は問われず、その後は民部卿を兼ねた。弘仁3年(812年)右大臣・藤原内麻呂の死去により、右大臣・藤原園人に次いで太政官で次席の地位を占めるが、その後も官職は中納言のままで留め置かれた。また、嵯峨天皇の元において、藤原冬嗣,秋篠安人らと弘仁格式の編纂にも関わっている。
 弘仁9年(818年)11月10日死去。享年64。死後、承和元年(834年)には、息子の常嗣が父に続いて遣唐大使(実際に渡唐した最後の遣唐使)に任命されている。

 淳和朝で順調に昇進する。天長7年(830年)正月に刑部少輔に左遷されるが、8月には蔵人頭に抜擢、天長8年(831年)には従四位下・参議に叙任され公卿に列す。また、議政官として勘解由長官,右大弁を兼ねた。なお、この間『令義解』の編纂にも携わっている。
 仁明朝に入ると、承和元年(834年)にはかつて父/葛野麻呂も任ぜられた遣唐大使に任じられる。父子2代続けて大使に任命されたことについて「唯一門而已」(唯一門のみ)と評された。しかし、承和3年(836年)・承和4年(837年)と二度に亘り渡航に失敗、この間に左大弁,大宰権帥に任じられている。
 承和5年(838年)三度目の渡航の際、それまでの渡航失敗により乗船であった第1船が破損していたために、遣唐副使・小野篁が乗船する予定であった第2船に乗り換えようとしたことから篁と対立、篁は病気を理由に渡航を拒否してしまう。結局、三度目の渡航は成功するが、この渡航は悲惨を極め、その様子が同行した円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。翌承和6年(839年)常嗣は長安で文宗に拝謁したのち、新たに新羅船を手配し8月に帰国する。なお、これが実際に渡海した最後の遣唐使となった。
同年9月渡海の労により従三位に昇叙されるが、翌承和7年(840年)4月23日に薨去した。享年45。
 若い頃より大学で学び、『史記』や『漢書』を読みあさり、『文選』を暗誦した。作文を好み、隷書が得意であった。生まれつき物事を見通して取り仕切る才覚があり、また、礼式に適った挙措動作は称賛に値した。『経国集』に漢詩作品が採録されている。

藤原氏宗 藤原道雄

 淳和朝末の天長9年(832年)上総大掾に任官。翌天長10年(833年)仁明天皇が即位すると、中務大丞,六位蔵人,式部大丞を経て、承和5年(838年)従五位下・式部少輔に叙任される。承和7年(840年)左近衛少将に遷ると右少弁も兼ねた。承和9年(842年)4月には来日した渤海使に対して食事の提供を行い、同年10月に従五位上・陸奥守に叙任され受領として任国に赴任した。承和13年(846年)式部少輔に再任されて京官に復すと、衛門権佐を経て、承和15年(848年)には正五位下・春宮亮に叙任されて皇太子・道康親王にも仕える。その後も嘉祥2年(849年)右中弁として弁官に復し、翌嘉祥3年(850年)従四位下に叙せられるなど順調に官途を進めた。
 嘉祥3年(850年)4月に春宮亮として仕えていた道康親王の即位(文徳天皇)に伴い蔵人頭(頭弁)に任ぜられると、右近衛中将,右大弁と文武の要職を兼ね、翌仁寿元年12月(852年1月)参議として公卿に列す。文徳朝では議政官として左右中将,検非違使別当,左衛門督,左右大弁と引き続き文武の諸官を兼ねた。
 天安2年(858年)清和天皇の即位後に正四位下へ叙せられる。貞観元年(859年)従三位に昇進し、また同年藤原基経の異母妹で後宮に出仕していた藤原淑子を後室に迎える。清和朝では、貞観3年(861年)先任の参議で後に左大臣にまで昇る嵯峨源氏の源融を越えて中納言となると、同じく嵯峨源氏の大納言源定,弘の薨去もあり、貞観6年(864年)権大納言、貞観9年(867年)正三位・大納言と目覚ましい昇進を遂げ、貞観12年(870年)右大臣に至った。なお、この急速な昇進の背景には後宮の実力者であった室・淑子の影響もあったとされる。清和天皇の命により、貞観11年(869年)に『貞観格』を、貞観13年(871年)には『貞観式』を選上。また貞観永宝の鋳造にも関わり、貞観の治と呼ばれる同天皇の治世に大いに貢献した。
 右大臣に在任中の貞観14年(872年)2月11日薨御。享年63。没後正二位を贈られている。

  内舎人,大学允を経て、延暦15年(796年)従五位下に叙せられる。のち桓武朝では、兵部少輔,大学頭,散位頭,宮内大輔,刑部卿.内匠頭を歴任するとともに、武蔵介,阿波守,河内守,上総守,但馬守と地方官を歴任し、この間延暦19年(800年)には従五位上に昇叙されている。
 平城朝では、美作守,大学頭,治部大輔を歴任し、大同3年(808年)正五位下に叙せられた。
 嵯峨朝に入ると、弘仁元年(810年)右中弁次いで左中弁と要職の弁官に任ぜられるが、翌弘仁2年(811年)には紀伊守として地方官に転ずる。こののち再び、典薬頭,宮内大輔,大学頭,兵部大輔,大舎人頭と京官を歴任し、この間の弘仁10年(819年)には従四位下に叙せられている。嵯峨朝末からは再び重用され、弘仁12年(821年)右大弁、弘仁13年(822年)蔵人頭に任官、弘仁14年(823年)正月に従四位上に昇叙ののち、5月には淳和天皇の即位に伴って参議に任ぜられ公卿に列した。同年9月23日卒去。享年53。