大同5年(810年)正月に従六位上から三階昇叙されて従五位下に叙爵し、同年9月に発生した薬子の変に伴い右少弁に補任される。弘仁3年(812年)典薬頭。弘仁4年(813年)常陸介に転じると、翌弘仁5年(814年)に国守の菅野真道の薨去を受けて後任として常陸守に昇進、その後も時期は不明ながら肥前守を務める等、嵯峨朝中期は主に地方官を歴任した。 本人は従五位下にとどまるが、曾孫の扶幹が公卿に昇っている。
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宇多朝では兵部少輔,民部少輔を経て、寛平7年(895年)信濃守に任ぜられ地方官に転じる。 醍醐朝前半も常陸介,上野介と引き続き地方官を務める。扶幹は藤原忠平の側近で、延喜14年(914年)に忠平が右大臣に昇り太政官の首班に立つと、翌延喜15年(915年)に扶幹も正五位下・権右中弁に叙任され京官に復帰する。こののち、忠平執政下で弁官を務めながら順調に昇進し、延喜23年(923年)60歳で参議に任ぜられ公卿に列す。同年4月に忠平の妹・藤原穏子が中宮に冊立されると中宮大夫に任ぜられた他、議政官として大宰大弐,左大弁を兼任した。 朱雀朝でも順調に昇進し、承平7年(937年)大納言に至る。天慶元年(938年)6月辞職を請いまもなく許されて致仕、同年7月10日薨去。また、この間の延長8年(931年)から天慶元年(938年)の致仕に至るまで、淳和奨学両院別当を務めている。 『二中歴』に名臣の一人として記載される。また、勅撰歌人として『後撰和歌集』に1首の和歌作品が採録されている。
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