<藤原氏>北家 冬嗣裔諸流

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藤原良房 藤原基経

 嵯峨天皇に深く信任された優秀な廷臣であった藤原冬嗣2男として生まれ、嵯峨天皇の皇女・源潔姫を降嫁される。淳和天皇の天長年間(824~834年)蔵人に補せられ、従五位下を授けられる。父に引き続いて嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子に深く信任されていた。
 仁明天皇が即位した天長10年(833年)以後、天皇の実父である嵯峨上皇の支援を受けて急激に昇進し、承和年間(834~848年)に正三位に叙せられ、蔵人頭に補せられ、参議を経て権中納言に遷り、陸奥出羽按察使、右近衛大将を兼ねる。仁明天皇の東宮には淳和上皇の皇子・恒貞親王が立てられていたが、承和9年(842年)の嵯峨上皇の崩御直後に起きた承和の変で恒貞親王が廃され、道康親王が立太子される。事件後に大納言に転じて、民部卿,左近衛大将を兼ねた。
 承和15年(848年)に右大臣を拝す。嘉祥3年(850年)に道康親王が即位する(文徳天皇)。良房は潔姫が生んだ明子を女御に入れ、同年、明子は第四皇子・惟仁親王を生み、僅か生後8ヶ月で直ちに立太子させた。これは先例のないことだった。
 嘉祥4年(851年)正二位に昇り、翌年、左近衛大将を兼ね、国史『続日本後紀』を監修する。斉衡4年(857年)太政大臣を拝命した。次いで従一位へ進む。良房には嗣子がいなかったため、兄の藤原長良の3男、藤原基経を養子とした。また、同じく長良の娘の高子を惟仁親王に嫁がせ、次代への布石も打った。高子は在原業平との恋愛で有名で、惟仁親王より9歳も年上だった。
 文徳天皇は第一皇子・惟喬親王を愛し、惟仁親王が幼すぎることを案じて、まず惟喬親王を立て、惟仁親王の成長の後に譲らせることを考えたが、良房を憚って決しないうちに天安2年(858年)崩御してしまい、良房は9歳の惟仁親王を即位させた(清和天皇)。『公卿補任』ではこの時に摂政に就任して貞観6年(864年)清和天皇の元服とともに、摂政を退いたとするが、正史である『日本三代実録』の清和天皇即位の記事には摂政に関する記述がないことから、良房は太政大臣として天皇を後見したと考えられている(当時、太政大臣の職掌には摂政と同様に天皇の後見する役目が含まれており、当時皇族しか就けなかった摂政の職務を太政大臣として行っていた可能性がある。両者の職掌が明確に分離されたのは基経の時代である)。清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたため、良房を終始深く信任していた。
 貞観8年(866年)に起きた応天門の変では、大納言・伴善男を失脚させ、事件に連座した大伴氏,紀氏の勢力を宮中から駆逐する。この年の8月19日、清和天皇は良房に「摂行天下之政」とする摂政宣下の詔を与えた。これが人臣最初の摂政である。法制の整備に力を入れて、「貞観格式」を完成させた。格は貞観11年(869年)、式は貞観13年(871年)に公布。
 貞観13年(871年)、准三宮を宣下されるが、それから数ヶ月後の貞観14年(872年)に薨去した。正一位を追贈され、忠仁公と諡された。

 

 中納言・藤原長良の3男として生まれ、叔父の良房に見込まれて、その養嗣子となった。仁寿元年(852年)東宮で元服した際に、文徳天皇が自ら加冠するほどの厚遇を受け、正六位上に叙される。斉衡年間(854~857年)から天安年間(857~859年)に左兵衛尉,少納言,左近衛少将を経て蔵人頭に補せられる。貞観年間(859~877年)に左近衛中将を兼任し、参議に任ぜられて公卿に列する。
 貞観8年(866年)、応天門の炎上の際し大納言・伴善男が左大臣・源信を誣告し、右大臣・藤原良相が基経に逮捕を命じるも、基経はこれを怪しみ養父・良房の尽力により信を無実とした。その後、密告があり、伴善男が真犯人とされ、連座した大伴氏,紀氏が大量に処罰され、上古からの名族へ大打撃を与えた(応天門の変)。同年、従三位に叙し中納言を拝す。貞観12年(870年)大納言に転じる。貞観14年(872年)右大臣を拝する。同年、摂政だった養父良房が薨去、代わって朝廷において実権を握った。基経の実妹の高子は清和天皇の女御で、第一皇子の貞明親王を生んでいた。翌年、従二位に叙される。
 貞観18年(876年)清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)。まだ9歳と幼少であったため、良房の先例に従い新帝の伯父である基経は摂政に任じられた。元慶2年(878年)、出羽国で蝦夷の俘囚が反乱を起こしたため、能吏で知られた藤原保則,武人の小野春風らを起用し、翌年までにこれを鎮撫せしめた(元慶の乱)。また、元慶3年(879年)以降数年をかけて、約50年ぶりに班田収授を実施している。元慶3年(879年)、菅原是善らと編纂した日本文徳天皇実録全10巻を完成させた。
 元慶4年(880年)太政大臣に任ぜられ、翌年、従一位。
 元慶6年(882年)、陽成天皇が元服するが、この頃から関係が険悪になった。基経は辞職を申し出るが、許されなかった。これはこの時代の記録によく見られる儀礼的な辞退ではなく、政治的な意味があったと考えられている。その後、基経は辞職が認められないとみるや、朝廷への出仕を停止し、自邸の堀河院に引き籠もってしまった。
 元慶7年(883年)、陽成天皇は奇行が目立つようになり、翌年、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇のときに廃太子された恒貞親王に打診したが、既に出家していた親王から拒否された。そこで仁明天皇の第三皇子の時康親王が謙虚寛大な性格であったので、これを新帝と決めた。時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣・源融(嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言い出したが、基経は姓を賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議・藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。基経は時康親王を即位させた(光孝天皇)。光孝天皇は擁立に報いるために太政大臣である基経に大政を委任する詔まで発した。天皇は既に55歳だったが、皇嗣の決定も基経に委ねるつもりで、あえて定めなかった。
 仁和3年(887年)、光孝天皇が重篤に陥ると、基経は第7皇子の源定省を皇嗣に推挙した。定省は天皇の意中の皇子であり、天皇は基経の手を取って喜んだ。もっとも、定省は光孝天皇即位以前より尚侍を務めた基経の妹・淑子に養育されており、藤原氏とも無関係ではなかった。臣籍降下した者が即位した先例がないため、臨終の天皇は定省を親王に復し、東宮となした日に崩じた。定省はただちに即位した(宇多天皇)。
 宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねることとし、左大弁・橘広相に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔をする。関白の号がここで初めて登場する。基経は儀礼的にいったん辞意を乞うが、天皇は重ねて広相に起草させ「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔をした。阿衡とは中国の故事によるものだが、これを文章博士・藤原佐世が「阿衡には位貴しも職掌なし」と基経に告げたため、基経はならばと政務を放棄してしまった。問題が長期化して半年にもおよび政務が渋滞してしまい宇多天皇は困り果て、真意を伝えて慰撫するが、基経は納得しない。阿衡の職掌について学者に検討させ、広相は言いがかりであることを抗弁するが、学者たちは基経の意を迎えるばかりだった。結局、広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布することで決着がついた(阿衡事件)。これにより藤原氏の権力が天皇よりも強いことをあらためて世に知らしめることになった。基経はなおも広相を流罪とすることを求めるが、菅原道真が書を送って諫言しておさめた。この事件は天皇にとって屈辱だったようで、基経の死後に菅原道真を重用するようになる。宇多天皇と基経との関係は一応修復され、政務をとりはじめた。仁和4年(888年)に娘の温子が女御に上がっている。
 寛平3年(891年)、病床につき薨去。正一位が贈られ、昭宣と諡された。

藤原明子 藤原仲平

 文徳天皇の女御で、清和天皇の母。のち皇太夫人、ついで皇太后。染殿が里邸だったため、染殿后とよばれた。
 文徳天皇が皇太子だったときに入内して東宮御息所となる。嘉祥3年(850年)3月19日に譲位あって文徳天皇が即位、直後の3月25日に第四皇子・惟仁親王(清和天皇)を産む。明子は第三皇女の儀子内親王も産んでいる。7月9日には女御の宣下を被る。このとき惟仁親王にはすでに3人の異母兄がおり、天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛してこれに期待していたが、結局、良房の圧力に屈し、惟仁親王が同年11月に生後8ヶ月で立太子した。仁寿3年(853年)に従三位に、天安2年(858年)には従一位に叙された。所生の惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い同年皇太夫人となる。さらに貞観6年(864年)には皇太后、孫の陽成天皇の即位後の元慶6年(882年)に太皇太后となった。
 父の良房が「年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」と詠じて、明子を桜花とみた話が『古今集』によって伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという。
 貞観7年(865年)頃から、物の怪に悩まされるようになったという記述が『今昔物語集』(巻第二十「染殿后為天宮被橈乱語 第七」)『古事談』(巻第三第十五話),『平家物語』(延慶本),『宇治拾遺物語』(第百九十三話)などに散見され、これらの記述にある言動により一種の双極性障害に罹患していたとみる説もある。
 明子の存在は結果的には藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となったが、本人は病のせいもあってか引きこもりがちで自ら表に出ることはなかった。6代の天皇の治世を見届けたのち、72歳で崩御した。 

 左京一条にある枇杷第を伝領したことから、枇杷左大臣と呼ばれる。
 兄・時平同様に殿上童を勤め、正五位下に叙された後、寛平2年(890年)宇多天皇の加冠により殿上で元服し、同年右衛門佐に任ぜられる。のち、近衛少将,中将と武官を務める一方で、中宮大夫を兼ねて皇太夫人・藤原温子にも仕え、寛平6年(894年)には従四位下に昇叙されている。昌泰3年(900年)従四位下に昇進したばかりの5歳下の弟・藤原忠平が弱冠21歳で参議に抜擢されて、公卿昇進に際してその後塵を拝した。ところが、1ヶ月ほどで宇多上皇の命令により忠平は参議を辞退すると、仲平は昌泰4年(901年)従四位上・蔵人頭、延喜7年(907年)正四位下と昇進して、官位面で再び忠平を追い越したに見えた。延喜8年(908年)正月に忠平が参議に還任すると、2月には仲平も参議に任官して揃って公卿に列す。しかし、翌延喜9年(909年)長兄の左大臣・藤原時平が没すると、忠平が藤氏長者を継ぐとともに、上位の参議6名を越えて従三位・権中納言に叙任される。ここで、仲平は大きく差をつけられてしまい、以降官位面で追いつくことはなかった。
 その後、藤原氏傍流の後任参議である藤原道明,藤原定方,藤原清貫に昇進を越されながらも、延喜17年(917年)従三位・中納言、延長4年(926年)正三位、延長5年(927年)大納言と累進し、朱雀朝の承平3年(933年)右大臣に任ぜられ、忠平に遅れること20年にしてようやく大臣の官職に就任した。またこの間の延喜19年(919年)醍醐天皇の勅命を奉じて大宰府に下り、奉行として当所の天満宮の社殿を造営した。
 承平7年(937年)左大臣に任ぜられ、天慶3年(940年)には呉越王に書を送っている。天慶6年(943年)正二位に至る。天慶8年(945年)9月1日に出家し、同月5日に薨御。享年71。
 官位面で弟・藤原忠平の後塵を拝したが、温和敦厚な人柄と伝わる仲平も、こればかりは心苦く思っていたという。また、この不満により、仲平は時々公事をないがしろにすることがあった。延喜11年(911年)に宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦に酒豪として招聘され参加。大量に飲んで殿上に嘔吐した。
 歌人として優れ、『古今和歌集』には若年でありながら1首入集、勅撰和歌集に11首入集。姉・藤原温子の女官・伊勢との恋愛でも知られる。また、名邸宅として知られた枇杷第は、仲平の死後に女系を伝って、後に藤原道長に伝領された。

藤原穏子 藤原温子

 昌泰4年(901年)醍醐天皇に入内、同年3月女御となる。なお、穏子の甥である藤原師輔が彼女の入内に醍醐天皇の父である宇多上皇が強く反対したことを書き残していることから、穏子が女御になる2ヶ月前に発生した昌泰の変(菅原道真の大宰権帥左遷)の原因として、穏子入内の是非を巡る父子間の対立を指摘する研究者もいる。
 延喜7年(907年)従三位、延喜9年2月21日従二位、同年6月17日正二位、延長元年(923年)4月26日、中宮に冊立。延長8年(930年)醍醐天皇譲位、間もなく崩御。朱雀天皇即位。承平元年(931年)皇太后。天慶9年(946年)村上天皇即位、太皇太后。天暦8年(954年)、内裏昭陽舎にて崩御。享年70。
 延喜3年(903年)に保明親王を産み、保明親王は皇太子となるも早世、その子で孫の皇太孫・慶頼王も僅か5歳で薨御したが、保明親王の死の翌月に立后、さらに寛明親王(朱雀天皇)と成明親王(村上天皇)を相次いで出産して2代の国母となり、摂関政治全盛への基盤を固める。崩御まで朱雀天皇,村上天皇どちらにも皇后が立たなかったため、生涯を通じて後宮唯一の后であり続けた。なお、穏子立后の際に中宮職が置かれ、以後これが主流となった。陵墓は宇治陵。 

 第60代・醍醐天皇養母。別名、東七条后(中宮),七条后(中宮)。
 仁和4年(888年)、宇多天皇に更衣として入内。同年女御宣下、正四位下。寛平5年(893年)正三位。同9年、宇多天皇譲位・醍醐天皇即位にあたり皇太夫人。延喜5年に出家、同7年6月8日薨去。享年36。
 宇多天皇は即位前から既に藤原胤子や橘義子らの妃との間に子女をもうけていたが、阿衡事件などでこじれていた基経との関係改善のためにも温子入内は不可欠であった。入内後は関白の娘として基経没後も後宮で重きをなし、一人娘・均子内親王を産んだものの皇子には恵まれなかったため、胤子没後にその所生の東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)を猶子とした。宇多天皇が阿衡事件に対する反発から藤原北家嫡流を外戚とする皇子の出生を望まなかったとする説もある。なお歌人の伊勢は温子に仕えたことで知られ、温子との贈答歌やその死を悼む哀悼歌を残した。陵墓は宇治陵。