文徳天皇の女御で、清和天皇の母。のち皇太夫人、ついで皇太后。染殿が里邸だったため、染殿后とよばれた。 文徳天皇が皇太子だったときに入内して東宮御息所となる。嘉祥3年(850年)3月19日に譲位あって文徳天皇が即位、直後の3月25日に第四皇子・惟仁親王(清和天皇)を産む。明子は第三皇女の儀子内親王も産んでいる。7月9日には女御の宣下を被る。このとき惟仁親王にはすでに3人の異母兄がおり、天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛してこれに期待していたが、結局、良房の圧力に屈し、惟仁親王が同年11月に生後8ヶ月で立太子した。仁寿3年(853年)に従三位に、天安2年(858年)には従一位に叙された。所生の惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い同年皇太夫人となる。さらに貞観6年(864年)には皇太后、孫の陽成天皇の即位後の元慶6年(882年)に太皇太后となった。 父の良房が「年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」と詠じて、明子を桜花とみた話が『古今集』によって伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという。 貞観7年(865年)頃から、物の怪に悩まされるようになったという記述が『今昔物語集』(巻第二十「染殿后為天宮被橈乱語 第七」)『古事談』(巻第三第十五話),『平家物語』(延慶本),『宇治拾遺物語』(第百九十三話)などに散見され、これらの記述にある言動により一種の双極性障害に罹患していたとみる説もある。 明子の存在は結果的には藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となったが、本人は病のせいもあってか引きこもりがちで自ら表に出ることはなかった。6代の天皇の治世を見届けたのち、72歳で崩御した。
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左京一条にある枇杷第を伝領したことから、枇杷左大臣と呼ばれる。 兄・時平同様に殿上童を勤め、正五位下に叙された後、寛平2年(890年)宇多天皇の加冠により殿上で元服し、同年右衛門佐に任ぜられる。のち、近衛少将,中将と武官を務める一方で、中宮大夫を兼ねて皇太夫人・藤原温子にも仕え、寛平6年(894年)には従四位下に昇叙されている。昌泰3年(900年)従四位下に昇進したばかりの5歳下の弟・藤原忠平が弱冠21歳で参議に抜擢されて、公卿昇進に際してその後塵を拝した。ところが、1ヶ月ほどで宇多上皇の命令により忠平は参議を辞退すると、仲平は昌泰4年(901年)従四位上・蔵人頭、延喜7年(907年)正四位下と昇進して、官位面で再び忠平を追い越したに見えた。延喜8年(908年)正月に忠平が参議に還任すると、2月には仲平も参議に任官して揃って公卿に列す。しかし、翌延喜9年(909年)長兄の左大臣・藤原時平が没すると、忠平が藤氏長者を継ぐとともに、上位の参議6名を越えて従三位・権中納言に叙任される。ここで、仲平は大きく差をつけられてしまい、以降官位面で追いつくことはなかった。 その後、藤原氏傍流の後任参議である藤原道明,藤原定方,藤原清貫に昇進を越されながらも、延喜17年(917年)従三位・中納言、延長4年(926年)正三位、延長5年(927年)大納言と累進し、朱雀朝の承平3年(933年)右大臣に任ぜられ、忠平に遅れること20年にしてようやく大臣の官職に就任した。またこの間の延喜19年(919年)醍醐天皇の勅命を奉じて大宰府に下り、奉行として当所の天満宮の社殿を造営した。 承平7年(937年)左大臣に任ぜられ、天慶3年(940年)には呉越王に書を送っている。天慶6年(943年)正二位に至る。天慶8年(945年)9月1日に出家し、同月5日に薨御。享年71。 官位面で弟・藤原忠平の後塵を拝したが、温和敦厚な人柄と伝わる仲平も、こればかりは心苦く思っていたという。また、この不満により、仲平は時々公事をないがしろにすることがあった。延喜11年(911年)に宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦に酒豪として招聘され参加。大量に飲んで殿上に嘔吐した。 歌人として優れ、『古今和歌集』には若年でありながら1首入集、勅撰和歌集に11首入集。姉・藤原温子の女官・伊勢との恋愛でも知られる。また、名邸宅として知られた枇杷第は、仲平の死後に女系を伝って、後に藤原道長に伝領された。
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