小一条太政大臣と号す。兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。 昌泰3年(900年)参議に任じられるが奏請して、叔父の清経と代わり、自らは右大弁となる。長兄の時平が菅原道真を失脚させると(昌泰の変)、諸改革に着手するが、延喜9年(909年)、時平は39歳で早世した。次兄の仲平を差し置いて、忠平が藤氏長者として嫡家を継ぐ。以後、醍醐天皇のもとで出世を重ね、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねる。延喜14年(914年)右大臣を拝した。延長2年(924年)正二位に叙し、左大臣となる。延長5年(927年)、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させた。農政などに関する忠平の政策は、兄・時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれる。 醍醐上皇は病が篤くなると幼帝・朱雀天皇を几帳の中に呼び入れ、五つの事を遺言した。その中で、「左大臣藤原忠平の訓を聞くこと」と話した。承平2年(932年)従一位に叙せられる。承平6年(936年)太政大臣に昇り、天慶2年(939年)准三后となる。天慶4年(941年)朱雀天皇が元服したため摂政を辞すが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられた。記録上、摂政が退いた後に引き続き関白に任命されたことが確認できる最初の例である。この間かつての家人であった平将門と遠戚である藤原純友による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。 天慶9年(946年)村上天皇が即位すると引き続き関白として朝政を執った。この頃には老齢して病がちになり、しばしば致仕(引退)を願うが、その都度慰留されている。天暦3年(949年)、病がいよいよ重くなり、死去した。享年70。正一位が追贈され、貞信公と諡された。忠平は寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったという。 死去するまで35年間その地位を維持したが、当時としては長寿を全うしたことで忠平とその子孫は時平に代わって嫡流となり、摂関職を江戸時代まで継承することとなった。そして、道真の名誉回復が早い時期に実現したのも「道真怨霊説」だけでなく、亡き時平と忠平との確執が背景にあったと言われている。
|
邸宅名の桃園第に因んで桃園大納言、あるいは枇杷大納言と称される。 延長6年(928年)正月に16歳で叙爵し、翌延長7年(929年)侍従に任じられる。承平4年(934年)従五位上・左近衛少将に叙任されると、天慶2年(939年)従四位下、天慶4年(941年)蔵人頭兼左近衛中将と官位を進め、天慶7年(944年)参議に任ぜられて32歳で公卿に列する。 しかし、翌天慶8年(945年)弟・師尹が26歳で参議に任ぜられると、天暦2年(948年)には師尹が師氏に先んじて権中納言に任官され、以降は常に師氏の方が官職が下位となった。その後、天暦9年(955年)従三位・権中納言、天徳4年(960年)中納言、康保元年(964年)正三位と昇進するが、康保4年(967年)には、兄・師輔の嫡男・伊尹が新帝(冷泉天皇)の外伯父として権大納言に抜擢されたことで、甥の後塵をも拝することになった。 安和2年(969年)権大納言、天禄元年(970年)正月には大納言に至るが、同年7月14日薨去。享年58。『宇治拾遺物語』には、近衛大将任官の饗宴の2日前に歿したとあるが、『公卿補任』等の史料には、近衛大将任官の記載はない。兄弟の実頼,師輔,師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言に止まる。醍醐天皇の皇女である靖子内親王を降嫁されており、内親王の降嫁は兄・師輔に次いで史上2人目であったが昇進には繋がらず、師氏は官位昇進については不遇であったことが窺える。 『空也誄』に空也と二世の契りがあったこと、『空也誄』『古事談』等に、師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えている。また、『蜻蛉日記』には、師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す。 和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰和歌集に11首入集。また自身で編んだ私家集『海人手古良集(師氏集)』がある。
|