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藤原師輔 | 藤原兼家 |
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有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇,円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。 |
童殿上の後、天暦3年(949年)には昇殿を許された。村上天皇の時代には左京大夫に春宮亮を兼ねた。康保4年(967年)、冷泉天皇の即位に伴い、同母の次兄・兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌安和元年(968年)には兼通を超えて従三位に叙され、さらに翌安和2年(969年)には参議を経ずに中納言となる。蔵人頭とは通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし、兼家は従三位に達し、中納言就任直後までその職に留まった。これは、長兄・伊尹の政権基盤確立のための宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられ、安和の変に兼家が関与していたとする説の根拠とされている。 |
藤原超子 | 藤原詮子 |
安和元年(968年)御匣殿別当として冷泉天皇の後宮に入内。同年女御の宣旨を受け、従四位下に叙される。超子の入内時、父・兼家はまだ蔵人頭であり、これが公卿ではない人物の娘が女御宣下を受けた初例となった。翌安和2年(969年)冷泉天皇譲位。その後に居貞親王(三条天皇),為尊親王,敦道親王,光子内親王の3男1女を産む。 |
天元元年(978年)8月に入内し、同年11月4日に女御の宣旨を被る。同3年(980年)6月1日に兼家の東三条邸において第一皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)を生む。ところが円融天皇の一粒種を生みながら、関白・藤原頼忠の女・遵子に后の座を奪われたことで、父・兼家と共に天皇を恨んで里邸の東三条邸にこもり、たびたびの召還にも応じなかった。 |
藤原綏子 | 藤原道頼 |
永延元年(987年)9月に14歳で尚侍となり麗景殿を局とし、永祚3年(989年)12月9日に16歳で2歳年下の甥(異母姉・超子の子)にあたる東宮・居貞親王(のちの三条天皇)に参入した。容貌が美しく素直な気質で、最初は東宮に寵愛されたが、ふとしたきっかけで寵愛を失い、土御門西洞院の里第に籠もるようになった。寵愛を失ったことに関して、『大鏡』によれば、夏の日、東宮は綏子に「私を愛するならば、私が良いというまで持っていなさい」と言って氷を手に持たせたのを、綏子は従順に手が紫色に変わるまで持っていたことから、却って興ざめした東宮の心証を悪くしたという逸話がある。 |
藤原道隆の長男として藤原守仁の娘を母に生まれたが、道隆は高階貴子と高階氏を重んじたため異母弟の伊周よりも低く置かれていた。これは貴子が定子を筆頭とする四人の后がね(天皇の后候補)となる娘達を産んでいたこと、貴子の父・高階成忠が公卿となったこと、道頼の生母が永延2年(988年)に亡くなったことも大きく影響している。一方で、祖父・藤原兼家は道頼を可愛がり、道隆に乞うて自分の養子に迎えてその6男とした。 |
藤原道信 | 藤原安子 |
中古三十六歌仙の一人。寛和2年(986年)伯父・兼家の養子として淑景舎にて元服。寛和3年(987年)右兵衛佐、永延2年(988年)左近衛少将、正暦2年(991年)左近衛中将兼美濃権守に任官。正暦5年(994年)正月には従四位下に叙されたが、同年7月11日当時流行していた天然痘により卒去。享年23。 |
天慶3年(940年)4月19日、成明親王(のちの村上天皇)と結婚。内裏の飛香舎で婚儀を挙げる。同7年(944年)成明親王が立坊、皇太子妃となる。村上天皇即位で従三位・女御となり昭陽舎に局を賜る(のち飛香舎)。天暦4年(950年)5月24日に第2皇子憲平親王(のちの冷泉天皇)を出産、生後2ヶ月で皇太子に立てられる。天徳2年(958年)10月27日、中宮に冊立。しかし、天徳4年(960年)3月に伯父である散位・興方が、5月には父・師輔(右大臣)が薨去するなど不幸に見舞われた。応和4年(964年)、選子内親王を出産後間もなく主殿寮にて崩御。享年38。のち康保4年(967年)11月、冷泉天皇即位で皇太后を、さらに安和2年(969年)8月25日に円融天皇即位で太皇太后を追贈される。陵墓は宇治陵。安子自身は若くして亡くなったが、安子所生の冷泉天皇,円融天皇の即位は九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。 |
藤原遠度 | 藤原高光 |
北野三位と号す。春宮亮・右馬頭を経て、安和2年(969年)円融天皇の即位に伴って五位蔵人に補せられる。天禄4年(973年)従四位下・右近衛少将に叙任されると、天元年間(980年頃)に右兵衛督を務めるなど武官を歴任した。この間の天延2年(974年)に養女(源兼忠女の娘)への求婚を通じて、藤原道綱母への接近が『蜻蛉日記』に見える。しかしこれを求婚のためではなく、藤原兼通の間諜として藤原兼家邸に入り込む意図があったとみる意見もある。 |
三十六歌仙の一人。天暦2年(948年)昇殿を許されると、まもなく父の藤原師輔とともに参内し、村上天皇の前で『文選』『三都賦序』を暗誦して天皇を感嘆させた。天暦9年(955年)姉の中宮・藤原安子の給により従五位下に叙爵し、翌天暦10年(956年)侍従に任官する。天徳2年(958年)左衛門佐、天徳4年(960年)右近衛少将と武官を歴任した。 |
藤原登子 | 藤原愛宮 |
天暦2年(948年)11月22日、43歳の重明親王と結婚、継室となる。重明親王の最初の妻は藤原忠平次女・寛子で登子の叔母にあたり、寛子の娘である徽子女王と登子とは同年代であった。親王との間に二女をもうける。 |
実名は不明。「愛宮」とは幼名であると推察される。 |