F521:藤原師輔 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 | F701:藤原道長 |
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藤原道長 | 藤原頼通 |
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後一条天皇,後朱雀天皇,後冷泉天皇の外祖父にあたる。父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、5男であり道隆,道兼という有力な兄がいたため、さほど目立たない存在だったが、兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。
詳細はWikipedia(藤原道長)を参照
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父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇,後冷泉天皇の治世に亘り、関白を50年の長きに亘って務め、父・道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったことや刀伊の入寇,平忠常の乱,前九年の役などの戦乱が勃発し、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがす事態が相次ぎ、加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家は衰退へ向かい、やがて白河天皇が譲位した後に開始した院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。
詳細はWikipedia(藤原頼通)を参照
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藤原顕信 | 藤原長信 |
寛弘8年(1011年)10月に右馬頭に任官。翌寛弘9年正月19日(1012年2月19日)、世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ねる。その教えに感銘を受けてそのまま剃髪し、比叡山無動寺に出家した。その将来に期待していた両親は、大いに嘆き悲しんだといわれる。 |
通称は池辺僧正。仁和寺観音院の延尋(源扶義の子)の元に入門して出家、永承3年(1047年)に同院で性信入道親王から灌頂を受ける。永承5年(1049年)に東寺に移って権少僧都・一身阿闍梨となる。天喜2年(1054年)には東寺と真言宗全体の長である第29代東寺長者に任じられて法印に昇進する。治暦2年(1066年)権僧正となり、この年の旱魃に際して僧侶20人を率いて雨乞いの修法を行った。延久2年(1070年)には僧正に任じられて、翌年には東寺内に池坊を建立してそこに居住する。後三条天皇の信任が厚く、この年には百官を連れて長信の元を訪れ、封戸25戸を下賜された。晩年は仁和寺などの別当を務めた。 |
藤原彰子 | 藤原妍子 |
第68代・後一条天皇,第69代・後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院といい、のち大女院などと呼ばれた。女房に『源氏物語』の作者・紫式部、王朝有数の歌人・和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、同じく歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成した。 |
寛弘元年(1004年)11月正四位下、尚侍に任官。同年12月従三位。同7年(1010年)1月従二位、2月、皇太子居貞親王(のちの三条天皇)に入内。同8年(1011年)三条天皇が即位し、女御宣下を受ける。同9年(1012年)、中宮に冊立。長和5年(1016年)三条天皇退位、寛仁元年(1017年)三条天皇崩御。同2(1018年)、皇太后。万寿4年9月14日(1027年10月16日)出家、同日崩御。享年34。 |
藤原威子 | 藤原嬉子 |
長和元年(1012年)尚侍に任官。正四位下に叙され、同年着裳・従三位に昇叙。同2年(1013年)従二位、寛仁元年(1017年)御匣殿別当を兼任。同2年(1018年)3月、甥の後一条天皇に入内。4月に女御宣旨を受け、10月中宮に冊立。長元9年(1036年)4月、夫の後一条天皇崩御。同年9月4日出家し2日後に崩御。享年38。 |
寛仁2年(1018年)、尚侍に任官。同3年(1019年)着裳、従三位に叙される。同5年(1021年)、兄・頼通の養子として皇太弟・敦良親王(後朱雀天皇)に入内。万寿2年(1025年)8月3日、皇子(親仁親王、後冷泉天皇)を出産するが、赤斑瘡でわずか2日後に薨去。享年19。同29日正一位を追贈。寛徳2年(1045年)、後冷泉天皇即位に伴い皇太后を追贈される。 |
藤原提子(寛子) | 藤原尊子 |
別名、高松殿女御。なお、長和2年9月16日(1013年10月23日)に道長の娘たちが叙位された件について『御堂関白記』には、提子、『小右記』には媞子という名称で登場しており、寛子は後の改名であったと考えられている。 |
初名は隆子。なお、初名については父・道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』に記されており、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄・藤原頼通の正室でもあった隆姫女王(具平親王女)の名前と重なるために改名したと考えられている。 |
藤原師実 | 藤原通房 |
頼通の息子の内、祇子所生の男子は正室・隆姫女王と嫡男・通房(母は源憲定の娘)への配慮から全員他家へ養子に出されていたが、師実の誕生から程なく通房が急死したため、師実が摂関家の後継者に立てられた。 |
頼通の庶長子として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王は男子に恵まれなかったため、嫡男とされた。また、頼通の正室への配慮と摂関家を継ぐという重要性から、摂関家の事実上の長である祖父・道長の土御門殿で養育される。後に隆姫の弟である源師房の娘を正室に迎えて、正室・隆姫と嫡男・通房との間に血縁関係を成立させることになる。
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藤原覚円 | 藤原寛子 |
宇治僧正とも称される。園城寺明尊のもとで出家し、顕教・密教を学んだ。天喜2年(1054年)権少僧都、天喜3年(1055年)法印、康平6年(1063年)園城寺長吏、康平8年(1065年)大僧正に任じられた。
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寛子の母・祇子は素性がはっきりせず、母方の血統を重んじた当時、身分低い女性から生まれたことは貴族社会において不利であったが、子女に恵まれなかった頼通にとっては待ちに待った娘であった。特に養女・嫄子(後朱雀天皇中宮)が早世した後は、頼通はこの一人娘に皇太子誕生の命運を賭けて永承5年12月22日(1050年2月5日)後冷泉天皇に入内させ、さらに翌年2月13日(1051年3月27日)、皇后(皇后宮)に冊立する。既に中宮として章子内親王がいたが、通常ならば先立の中宮である章子を皇后宮、寛子を中宮とするところを章子の希望で章子は中宮のまま留め置かれ、寛子が皇后宮とされた。 父・関白の強力な後見を受けて、歌合を催すなど風流を好んだ寛子の御殿は非常に華やかであった。その様子は、寛子に仕えた女房下野の私家集『四条宮下野集』に記されている。 |
藤原師通 | 藤原賢子 |
承保3年(1076年)、権大納言・藤原俊家の娘である全子を妻に迎える。承暦2年(1078年)に長男の忠実が生まれるが、夫婦関係は冷却化する。この恨みを全子は生涯忘れず、父・俊家の画像を描かせて礼拝し、師通を呪ったという。その後、藤原信長(教通の子)の養女である信子を正室にする。これは頼通流と教通流による摂関家内部の長年の対立に終止符を打つものだった。寛治8年(1094年)、師実の後を継いで関白に就任すると、16歳となり政治的自立を志向する堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。 |
第72代白河天皇の中宮、第73代堀河天皇の国母。太政大臣・藤原師実の養女。実父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。白河天皇の寵愛の后であり、その死を悲しんで天皇は数日食事をとらなかったという。贈太皇太后。 |
藤原家隆 | 藤原成隆 |
摂関家の子弟として生まれながら、母の身分が低かったことに加え、早くに父を喪ったこともあって、公卿昇任は果たせずに終わっている。永長元年12月26日(1097年1月12日)に元服。異母兄の忠実に近侍したとされ、忠実と同じく土佐守・藤原盛実の娘を妻として、嫡子・成隆を儲けている。また娘の一人(待賢門院女房)が平忠盛の側室となって、教盛を儲けたことでも知られている。 |
仁平3年(1153年)に従四位上に叙せられる。左大臣・藤原頼長とは父方,母方の双方で従兄弟同士の間柄であり、その関係から頼長の家司、近習として活動。保元元年(1156年)の保元の乱に当たっては、頼長とともに崇徳上皇方に参加する。 |