K324:村上天皇 | 村上天皇 ― 源 師房 | G811:源 師房 |
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源 師房 | 源 俊房 |
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村上源氏の祖。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。 |
1045年(寛徳2年)伯父藤原頼通の養子として元服。後冷泉天皇から鳥羽天皇まで5代の天皇に仕え、検非違使別当,左衛門督,左近衛大将参議,大納言,右大臣を経て1083年(永保3年)従一位左大臣に至った。朝廷での儀式に関する先例故実にくわしく、また文才にも優れ、村上源氏の最盛期を築いたが、1113年(永久元年)後三条天皇の皇子・輔仁親王の護持僧をつとめた、息子の仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされ、弟の顕房に村上源氏の主流を譲った。 |
源 妧子 | 源 澄子 |
右大将・藤原通房の正室。従二位。土御門尼上と呼ばれた。 |
祐子内親王(後朱雀天皇皇女)の上臈女房として出仕していたが、弟・顕房の娘・賢子が白河天皇の中宮になった関係で、伯母にあたる澄子も承保元年(1074年)6月16日に従三位に叙され、同年7月26日の太政官符によって封戸が給せられた。当時、女性で従三位を授けられるのは天皇の乳母である典侍に限られており、当時独身だった澄子の叙位は異例中の異例だった。澄子は一生独身を通し、寛治元年(1087年)7月12日薨去。59歳頃だったらしい。 |
源 方子 | 源 師時 |
美福門院藤原得子(鳥羽天皇皇后・近衛天皇生母)の母。長承2年(1133年)8月19日に夫・長実と死別した後、翌年出家して越後尼公と呼ばれた。久安2年(1146年)10月4日、正一位を贈られた。仁平2年(1152年)3月21日、87歳で没した。 |
寛治2年(1088年)に12歳で叙爵。17歳で昇殿を許された。嘉承2年(1107年)皇后宮権亮になり、保安4年(1123年)蔵人頭を経て参議となり、皇后宮権大夫を兼任(47歳)。大治元年(1126年)従三位。長承3年(1134年)太皇太后宮権大夫になり、翌年(1135年)正三位に叙された(59歳)。 |
源 有房 | 源 師仲 |
平安時代末期の歌人。周防中将と呼ばれた。 |
平安時代後期の公卿,歌人。従二位権中納言に列し、称号を「伏見源中納言」といった。 |