村上源氏

K324:村上天皇  村上天皇 ― 源 師房 G811:源 師房

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源 師房 源 俊房

 村上源氏の祖。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。
 はじめ資定(王)と称し、父・具平親王を早くに亡くし、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった(ただし、当時の実態とすれば養子とほぼ同様の意味に解することができる)。1020年(寛仁4年)正月に従四位下が授けられ、12月26日に元服し、源姓を賜って臣籍降下、師房と名を改めた。「師房」の名は頼通が授けたものであるという。藤原道長の5女・尊子(頼通の異母妹)を妻に娶って藤原氏と密接な関係を築き、1024年(万寿元年)には従三位に叙せられ、以後も昇進を重ねる。1064年(康平7年)内大臣、1069年(延久元年)右大臣となって村上源氏の政界進出の基を築いた。1077年(承暦元年)2月17日に太政大臣に任ぜられるが、同日に出家し薨去。
 高い学才の一方で、漢詩・和歌にも秀で『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集にも10首入集している。著書に『叙位除目抄』『土右記』などがあり、彼とその子孫による有職故実の流派は「土御門流」と称せられた。また、その才能を愛した藤原道長は「頼通に男子が生まれなければ、師房に摂関家を継がせてもいい」と言ったといわれている。

 1045年(寛徳2年)伯父藤原頼通の養子として元服。後冷泉天皇から鳥羽天皇まで5代の天皇に仕え、検非違使別当,左衛門督,左近衛大将参議,大納言,右大臣を経て1083年(永保3年)従一位左大臣に至った。朝廷での儀式に関する先例故実にくわしく、また文才にも優れ、村上源氏の最盛期を築いたが、1113年(永久元年)後三条天皇の皇子・輔仁親王の護持僧をつとめた、息子の仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされ、弟の顕房に村上源氏の主流を譲った。
 正室の後朱雀天皇皇女・娟子内親王とは始め許しもなく密通・駆け落ち騒動を引き起こし、内親王の弟尊仁親王(後三条天皇)の怒りを買ったが、彼女との間に子はできなかった。その後、源実基女,源基平女らとの間に多くの子女をもうけ、そのうち娘の方子は藤原長実と結婚、美福門院得子を産んでいる。
 俊房の日記は「水左記」と題され、現在判明しているところ1062年(康平5年)から1108年(天仁元年)まで綴られた。また能書でも知られた。

源 妧子 源 澄子

 右大将・藤原通房の正室。従二位。土御門尼上と呼ばれた。
 初めは後一条天皇又は後朱雀天皇の女御として入内する話もあったが実現せず、長久年間(1040~44年)に藤原通房と結婚した。しかし結婚直後に通房と死別した後、出家して父・師房の土御門第に住んで60余年もの間寡婦を通し、土御門尼上あるいは寝殿尼上と呼ばれた。天仁元年(1108年)10月10日、82歳で没した。
 彼女が没したのが鳥羽天皇即位の際の大嘗会御禊の10日余り前だったため、弟・源俊房(当時左大臣),甥・源雅実(同じく内大臣)など御禊に参仕する予定だった公卿,廷臣の多くが服喪のため参仕できなくなり大問題になった。事態を知った白河法皇は、「御禊は第一の神事だから忌服の者が参仕するのは良くない」と裁定したため、結局俊房らは参仕しないで済んだ。

 祐子内親王(後朱雀天皇皇女)の上臈女房として出仕していたが、弟・顕房の娘・賢子が白河天皇の中宮になった関係で、伯母にあたる澄子も承保元年(1074年)6月16日に従三位に叙され、同年7月26日の太政官符によって封戸が給せられた。当時、女性で従三位を授けられるのは天皇の乳母である典侍に限られており、当時独身だった澄子の叙位は異例中の異例だった。澄子は一生独身を通し、寛治元年(1087年)7月12日薨去。59歳頃だったらしい。
源 方子 源 師時
 美福門院藤原得子(鳥羽天皇皇后・近衛天皇生母)の母。長承2年(1133年)8月19日に夫・長実と死別した後、翌年出家して越後尼公と呼ばれた。久安2年(1146年)10月4日、正一位を贈られた。仁平2年(1152年)3月21日、87歳で没した。

 寛治2年(1088年)に12歳で叙爵。17歳で昇殿を許された。嘉承2年(1107年)皇后宮権亮になり、保安4年(1123年)蔵人頭を経て参議となり、皇后宮権大夫を兼任(47歳)。大治元年(1126年)従三位。長承3年(1134年)太皇太后宮権大夫になり、翌年(1135年)正三位に叙された(59歳)。
 白河上皇,鳥羽上皇両院の政務諮問官として厚く信任され、鳥羽離宮,六勝寺などの造営にも携わった。また令子内親王(鳥羽天皇の准母)に皇后宮権亮,皇后宮権大夫,太皇太后宮権大夫として30年余りの間仕えた。保延2年(1136年)4月6日出家・同日薨去した。享年60。
彼が11歳頃から没年までつけていた日記は、現在では『長秋記』として翻刻され院政期の重要な史料として伝わっている。

源 有房 源 師仲

 平安時代末期の歌人。周防中将と呼ばれた。
 但馬守,侍従,左近中将などを歴任し、養和元年(1181年)11月左近中将になる。平忠盛の女婿となり、また妹(高倉院典侍)を平宗盛の猶子に、娘(高倉院中納言典侍)を平清盛の猶子とするなど、平家と深い縁戚関係を結んだ。その一方で彼は後白河院分国の周防国の国守を務め、治承2年(1178年)に院の御給により正四位下に叙位されるなど、後白河院とも繋がりを持った。
 歌人としては、二条天皇内裏歌会を始めとして、藤原清輔,藤原重家,藤原季経ら六条家歌人や、平経盛,平経正,平資盛,平忠度ら平家歌人の主催する歌合に出詠した。また後白河院供花歌会にも参加するなど、院近臣との和歌における交流も盛んで、範玄(寂念の子)や藤原季能ら主催の歌合に参加したほか、自らも彼らを誘って歌合を主催した。また高松宮歌合・或所二十二番歌合では彼が中心となって企画された可能性が高い。『治承三十六人歌合』に入り、『月詣集』に3首入集するなど、生前から歌人として一定の評価を得ていたらしい。勅撰和歌集には『新勅撰和歌集』に2首入集。家集『有房中将集』がある。

 平安時代後期の公卿,歌人。従二位権中納言に列し、称号を「伏見源中納言」といった。
 後白河上皇の院政に参画、その一翼を担う有力な廷臣となるが、信西と対立したことからその政敵である藤原信頼に接近する。信西打倒のための武力蜂起計画が進行する過程で、伏見の自領を信頼の武芸の訓練のために提供するなど、深く謀議に関与している。
 平治元年(1159年)、かねてからの計画通り信頼や源義朝らとともに挙兵(平治の乱)。上皇と上西門院を内裏に幽閉するに当たり、その護送用の車を用意するという任務を果たしている。当初、戦局は信頼方に有利に展開するが、藤原惟方,藤原経宗らが敵方に寝返り二条天皇を内裏から脱出させたことから状況は一変、上皇も脱出し、信頼らは一転して賊軍としての立場に追い込まれる。こうした情勢を見て師仲は、味方陣中にあった三種の神器の一つである八咫鏡などを自らの手中に納め、早くも降伏を想定した保身行動に入っていたとされる。
 やがて信頼,義朝らの敗戦を見届けた後、神鏡を姉小路東洞院にあった自邸に保管し、自らは六波羅に出頭する。しかし八咫鏡を守った功による減刑は認められず、永暦元年(1160年)3月31日に下野国に配流となった。この際、配所に赴く途上で詠んだ歌が、後に勅撰集『千載和歌集』に収録されている。
 仁安元年(1166年)に赦され、3月29日に帰洛。戦前の地位である正三位に復位し、翌年従二位に進んでいる。しかし散位に留められて官職に就くことはなかった。承安2年(1172年)5月16日に57歳で没した。