村上源氏

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源 師頼 源 師光

 備中権介,左近少将,左右中弁などを歴任し、嘉保元年(1094年)6月蔵人頭になった。しかし、同年11月五節の儀において泥酔して帳台の戸を開けるという失態を犯して勘事に処されるという不祥事を起こす。承徳2年(1098年)参議に任ぜられ、康和3年(1101年)正三位、大治5年(1130年)権中納言、同6年(1131年)従二位権大納言、長承2年(1133年)正二位、保延2年(1136年)大納言に昇った。議政官として右兵衛督,近江権守,備前権守,太皇太后宮(令子内親王)大夫,春宮(体仁親王、後の近衛天皇)大夫などを兼帯した。右兵衛督在任中の天仁元年(1108年)、3年間出仕しなかったことにより殿上籍を削られたが、却って師頼は隠遁の意思を強くしてしまい、父・俊房の没後の大治年間に入るまで20年以上も出仕しなかったとされている。この事は父の俊房を深く悩ませ、また後年、彼の政敵であった藤原宗忠は『中右記』の中で彼が中納言になったと聞き、彼が18,9年出仕しない間に18人が(参議であった)師頼を飛び越して中納言になったと嘲笑する記述を残している。保延5年(1139年)12月薨去。72歳だった。
 歌人として秀で、勅撰和歌集に二十数首入集する。また、漢学に優れ、『今鏡』には藤原頼長が師頼より漢学を学んだと記し、頼長自身も日記『台記』において師頼を「先師」と呼んでいる。また、『永昌記』嘉承2年4月2日条には、この日師頼が大江匡房を自邸に迎えたものの、その日の夜に自邸が火災で焼けて数千冊の書物が灰になったと記し、同様の記述を同日条の『中右記』も載せている。

 平安時代後期から鎌倉時代にかけての官人・歌人。小野宮と号した。出家後の法名は生蓮。父・師頼の弟子だった藤原頼長の猶子になったことに加えて、自身の無才のため官途は振るわず、正五位下右京権大夫にとどまった。永暦元年(1160年)以前に歌会,百首歌を主催した。以後、藤原清輔,平経盛,藤原実国,通親,九条兼実らが主催した平安末期の主な歌合に出席し、また養和元年(1181年)頃の一品経和歌懐紙にも参加した。鎌倉時代初期に出家したが、これとほぼ同時期に奈良に移住して、往生講会・二十八品歌勧進などを行い、『南都集』(散逸して現存せず)を撰した。その後も藤原経房家歌合、守覚法親王家五十首、石清水歌合などに出席した。正治2年(1199年)初度百首の人数に入り、千五百番歌合では判者の一人にも選ばれた。
 『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に27首入集している。『月詣集』『玄玉集』『歌仙落書』『治承三十六人歌合』にも入り、当時の歌壇での評価は高かった。家集『師光集』及び私撰和歌集『花月集』(散逸して現存しない)もある。

源 具親

 鎌倉時代初期の官人・歌人。小野宮少将と呼ばれた。新三十六歌仙の1人。
 建仁元年(1201年】左兵衛佐になり、同年7月和歌所寄人になる。元久2年(1205年)従四位下左近少将になる。天福元年(1233年)8月以前に出家しており、法名は如舜といった。弘長2年(1262年)『三十六人大歌合』に「如舜」の名で出詠しているが、このときは80余歳の高齢だったという。