村上源氏

G811:源 師房  源 師房 ― 源 顕房 G813:源 顕房

リンク G814G841G842G843・G844・G846
源 顕房 源 顕仲

 平安時代後期の公卿・歌人。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。
 1047年(永承2年)祐子内親王の御給にり叙爵。同年に元服して従五位下に叙される。侍従,近衛中将を経て蔵人頭に補任され、後冷泉天皇に6年にわたって近侍した。1061年(康平4年)参議に至る。1083年(永保3年)兄左大臣俊房と並んで右大臣に任じられる。娘の賢子が白河天皇との間に生んだ善仁親王が即位して天皇に即位する(堀河天皇)と、村上源氏の主流となった。なお、顕房は久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来となった。
 1094年(嘉保元年)、赤痢のため自邸(六条大路北・室町西)で薨去。後に正一位が追贈された。
 日記に六条右府記がある。その逸文は大饗御装束間事に永保3年正月22日,26日,正月条が、園太暦貞和2年4月28日条に永保3年2月正月27日,28日,3月5日条がある。歌人としても優れ、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に14首の和歌が入集する。また天喜4年(1056年)5月に頭中将顕房家歌合を主催したほか、承暦2年(1078年)4月の内裏歌合、及び寛治7年(1093年)5月の郁芳門院(媞子内親王)根合で判者を務めるなど活躍した。『大鏡』の作者とする説もある。

 周防守,尾張守,丹波守などを歴任。寛治7年(1093年)刑部卿になる。康和4年(1102年)7月21日、尊勝寺供養賞として中宮御給により従三位に叙された。同年11月には左京大夫に転任。保安3年(1122年)2月より神祇伯を兼任し、天治元年(1124年)左京大夫を辞任。保延4年(1138年)3月29日薨去した。75歳だった。
 他の兄弟より出世は遅かったが文雅の道には秀でていた。豊原公里の伝授を受けた笙において名手として知られ、管弦の才をもって堀河天皇,中宮篤子内親王の近臣として奉仕した。また、今様の相承者でもあった。歌人としては、弟・国信を中心とした堀河院歌壇の主要な一員にもなり、『堀河百首』『永久百首』にも出詠している。彼自身も数々の歌合を主催していて、歌壇の長老格として活動した。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に合計24首入集している。

待賢門院堀河 上西門院兵衛

 伯女、伯卿女と伴称される。女房三十六歌仙の一人。
 はじめ白河院の皇女令子内親王(前斎院)に仕えて六条と呼ばれ、のち鳥羽天皇の中宮待賢門院藤原璋子に仕えて堀河と呼ばれるようになった。1142年(康治元年)待賢門院璋子の落飾に従い出家している。「摂政左大臣忠通歌合」「西宮歌合」などに出詠し、1143年(康治2年)崇徳院に召されて「久安百首」に出詠している。西行との贈答歌も残っている。
『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集。家集に『待賢門院堀河集』がある。小倉百人一首より、80番。

 初め待賢門院藤原璋子(鳥羽天皇中宮・崇徳天皇及び後白河天皇の国母)に仕えたが、璋子の崩御後はその娘の上西門院統子内親王に仕えた。その後、統子内親王の出家に従って彼女自身も永暦元年(1160年)に出家した。
 姉の待賢門院堀河とともに歌人として名高く、勅撰和歌集では『金葉和歌集』『千載和歌集』以下に28首入集している。また『後葉和歌集』『続詞花和歌集』『今撰和歌集』『月詣集』などの私撰和歌集にも歌が残る。大治3年(1128年)西宮・南宮・住吉社歌合、久安5年(1149年)の右衛門督家成(藤原家成)歌合、同6年(1150年)崇徳院百首などの多くの歌合に出詠した。また散逸した自撰家集もあったらしい。
 徳大寺実定,徳大寺実家,藤原隆信,藤原惟方,西行らと親交があった。

源 顕雅 覚樹

 侍従,左近権少将を経て堀河天皇の寛治2年(1088年)五位蔵人になり、更に蔵人頭に昇進。康和4年(1103年)参議に昇進して公卿に列した。当時堀河天皇の外祖父だった顕房の息子で公卿になったのは既に4人いたが、これに更に顕雅が加わったので、藤原宗忠がその日記『中右記』の中で「近代公卿廿四人、源氏の人半ばを過ぎるか、未だ此の如き事あらんか」と嘆いている。鳥羽天皇の代になって官位の昇進が停滞するが、それでも保安3年(1122年)権中納言、長承元年(1132年)12月権大納言と昇進した。この権大納言への叙任は、宗忠への私的な懇願による結果と言われる。保延2年(1136年)10月4日出家し、10月13日に63歳で薨去した。
 巨勢金岡か弘高が書いた古い絵を元に作ったとされる立派な紋章を付けた車を美しく磨き仕立てて外出していたとの逸話が『今鏡』で語られている。『古事談』『今鏡』『古今著聞集』『十訓抄』などいくつかの史料において、詩作や管弦の能力に欠けるとともに、失言も多い無能な人物としての描写が多い。

 東南院に住し、法印慶信(藤原公成の子)の弟子となった。若い頃から論議に秀で、承徳2年(1098年)に維摩会の竪者となった際でも藤原宗忠の絶賛を受けている。大治4年(1129年)10月、権律師に任ぜられる。翌5年10月、仁和寺法金剛院供養に際し讃衆として列席。宗派の異なる僧がこれに参加することは、興福寺僧の頼信の先例に倣うものだった。長承元年(1132年)権少僧都になったが、保延4年(1138年)実意に譲って辞退。翌年2月入寂した。享年61。
 なお、弟子の一人恵珍(皇后宮権亮源顕国の子)は覚樹の異母兄源国信の孫にあたり、また藤原宗忠鍾愛の外孫でもあった。
 生年については永保元年(1081年)説もあるが、『中右記』承徳2年10月12日条の「年ニ十」という記載に従い承暦3年生まれとするのが正しいと思われる。

源 賢子 源 師子

 第72代白河天皇中宮。延久3年(1071年)3月9日、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内する。同5年(1073年)7月23日白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年(1074年)6月20日長子・敦文親王誕生に伴い中宮となる。承保4年(1077年)敦文親王を亡くすも、承暦3年(1079年)善仁親王(堀河天皇)を出産。ほかに、媞子内親王(郁芳門院),令子内親王,禛子内親王を生んだ。28歳で崩御。
 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかった。これを見かねた権中納言・源俊明が、天皇は穢れに触れてはいけないからと遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。
 ともあれ白河天皇の嘆きは一方ならず、応徳3年(1086年)円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院,勝楽院,常行堂などを建てて供養した。陵は京都市伏見区の上醍醐陵。
 寛治元年(1087年)12月28日、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈された。

 白河天皇の後宮で藤原忠実の妻。母は源隆俊の娘隆子。但し母は隆子ではなく後冷泉天皇女房の式部命婦(筑前権守・藤原信尹女)とする異説もある。
 初め白河天皇の寵愛を受けたが、寛治5年(1091年)白河天皇の胤を妊娠したまま藤原忠実に嫁ぎ、その年の12月29日皇子(のちの覚法法親王)を出産した。その後、師子は忠実との間に泰子と忠通を産んだ。康和4年(1102年)従三位に叙せられ、天仁2年(1109年)従二位に進み政所を開設、更に従一位に昇進した。長承3年(1134年)出家。康治元年(1142年)には仁和寺に堂舎を建ててそこに住んだ。久安4年(1148年)12月に病気になったが、79歳の長寿を全うした。