村上源氏

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源 雅定 源 通親

 素直でよく気が付き、堅苦しい所もなく魅力的な性格であった。また、学才もあり、朝廷の儀式にも通じていたとされる。
 幼時より舞楽に長じ、康和3年(1101年)3月9日の白河院五十歳の賀の試楽における童舞で、9歳にして『胡飲酒』を舞い、賞賛された。父雅実は雅定の舞の技能に自信を持っていたためか、嘉承元年(1106年)に開催された石清水臨時祭における一の舞に雅定が選ばれなかったことに腹を立て、雅実が祭りの途中で帰京してしまったとの逸話がある。また、『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が山村政連に殺害された際、『胡飲酒』を伝受していた雅実が多忠方に伝えた逸話があるが、雅実が死去してからは、多忠方は雅定を師としていたとされる。
 豊原時元から伝授を受けた笙にも秀で、嘉応2年(1170年)までに開催された御遊において、各種記録に記された笙の演奏回数が、2位の藤原宗忠を大きく引き離して最多となっている。また、歌人としては藤原顕輔,源俊頼らと交渉があり『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。
 古くから『大鏡』の増補を行った「皇后宮大夫」を雅定に比定する説がありこれが通説とされているが、これは不明とされている同書の本編作者が増補作者の一族とされる推測から本編作者を村上源氏に求める論者から広い支持があるからであり、これに対して藤原一族に求める研究家からは同じ「皇后宮大夫」経験者である藤原家忠説などの異論も出されている。

 後白河天皇の退位直前の保元3年(1158年)に従五位下に任じられた。清盛の支援を受けた高倉天皇の側近として平家と関係を築いた。清盛の弟である平教盛の婿になった通親は治承3年(1179年)に蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。同年の清盛による後白河法皇幽閉とその後の高官追放(治承3年の政変)の影響を受けて参議に昇進、以仁王の乱追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、摂関家の九条兼実や藤原定家らと対立している。
 治承5年(1181年)正月、通親は従三位となって公卿に列した。だが、それから一月も経たないうちに高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親は上皇の喪中を表向きに次第に平家との距離を取るようになっていった。寿永2年(1183年)7月、平家が西国に落ちたときに、通親は比叡山に避難した後白河法皇に同行し平家との訣別を表明した。その後、後白河法皇が新たに立てた後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政・松殿師家の姉で木曾義仲の側室であった藤原伊子を側室に迎え、これによって新帝の後見人の地位を手に入れる一方で、法皇の近臣としての立場を確立し新元号「元暦」選定などで、平家や義仲によって失墜させられた後白河院政の再建を担うことになった。
 平家滅亡後、頼朝は朝廷に「議奏」公卿制度導入などの要求を認めさせ、権中納言であった通親も議奏公卿に選ばれたものの、この改革が「武家政権樹立」への第一歩であることに気付いて憂慮した。通親は法皇に勧めてこれらの改革を有名無実化させることに成功し、文治4年(1188年)には源氏長者に任じられ、その翌年には正二位となった。建久元年(1190年)、頼朝が征夷大将軍を望んだときも法皇と通親は、頼朝を右近衛大将に任じて要求をかわしている。だが、建久3年(1192年)に後白河法皇が崩御すると、一転して兼実が提案した頼朝への征夷大将軍任命に真っ先に賛同して頼朝への「貸し」を作ったのである。法皇の死後、彼の娘である覲子内親王(宣陽門院)の後見に任じられてその莫大な財産の管理を命じられて、法皇死後もその政治的基盤の確保は怠ることはなかった。
 建久6年(1195年)、通親の養女であった女御・源在子が為仁親王(後の土御門天皇)を生むと、この勢いを背景に兼実の政敵である近衛基通や故後白河法皇の近臣達と組んで九条兼実排除に乗り出した。そして、大江広元の仲介を得て頼朝や鎌倉幕府要人との和解に成功した通親は、建久7年(1196年)11月に兼実不在のまま朝議を開催して基通の関白任命を決議、兼実の失脚を確定させた。これを建久七年の政変という。建久9年(1198年)、後鳥羽天皇の退位と通親の孫である為仁親王の即位が実現して、新帝・土御門天皇の外祖父となった通親は権大納言と院庁別当を兼任することになった。人々は通親を「飛将軍」・「源博陸」(博陸は関白の唐名)と呼んで恐れた。翌年、通親は右近衛大将就任を直前に源頼朝急死の一報を受ける。本来であれば、国家の柱石たる頼朝のために喪を発して、その期間内は人事異動を延期する慣例になっていたのであるが、通親は頼朝死去の正式発表前に自分の右近衛大将就任を繰上で発動して、同時に右近衛大将の推薦という形式で頼朝の嫡男源頼家の左近衛中将任命の手続きを取ってから「頼朝死去」の喪を発するという離れ業を演じた。この年に通親は内大臣に昇進している。後白河法皇,源頼朝は既に亡く、九条兼実も失脚した以上、朝廷・幕府・院の全てが通親の意向を重んじ、かつての摂関政治を髣髴とさせる状況を生み出したのである。しかし通親の栄華は短く、後鳥羽上皇が20歳となって上皇自身の意志が政治に反映されるようになり、兼実の子・九条良経は正治元年(1199年)左大臣に昇進し、兼実の弟・慈円も旧職に復任した。正治2年(1200年)、上皇は第三皇子・守成親王を皇太弟とし、次の皇位を約束した。土御門天皇の外戚である通親にとっては不利であるが、上皇の意志に従わざるを得なかった。こうして上皇の意志が次第に政治面に現れ始めた頃の建仁2年(1202年)、通親は54歳で病死し、通親亡き後、遮る者のいなくなった上皇の独裁政治がはじまるのである。

明雲

 平安時代末期の天台宗の僧。房号は円融房,慈雲房。
 比叡山の弁覚法印から顕教・密教を学び、天台座主・最雲法親王の法を継いだ。仁安元年(1166年)僧正に任じられ、翌仁安2年(1167年)天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。治承元年(1177年)延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われ、天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する。治承3年(1179年)、いわゆる「治承三年の政変」で院政が停止されると座主職に再任され、寿永元年(1182年)には大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183年)、木曾義仲が後白河法皇を襲撃した「法住寺合戦」で斬り殺される。義仲は差し出された明雲の首を「そんな者が何だ」と言って西洞院川に投げ捨てたという。
 なお、最高位級の僧侶の身でありながら自ら戦場において殺生を行い、その挙句に戦死したという事実に対して、明雲から受戒を受けた慈円は『愚管抄』において激しくこれを糾弾している。一方、『今鏡』は「世の末におはしがたい」座主として高い評価を与えている。
 明雲の後の天台座主には源義仲の追従者だった俊堯がおかれた。