源通親の4男で早世した長兄・源通宗の養子としてその後を継いだ。後土御門内大臣と号した。村上源氏系土御門家の祖とされている。 生まれた翌年には叙爵を受け、14歳で父の論功によって正四位下、翌年には従三位、更に2年後には正三位という破格の出世を遂げた。この間に異母兄・通宗の養子となる。通宗の娘・源通子は土御門天皇の典侍として邦仁王(後の後嵯峨天皇)を生んでいる。 実の姉である承明門院の別当として後鳥羽院政の中枢に入り、承元3年(1209年)に権中納言、建暦元年(1211年)に従二位、建保2年(1214年)に正二位、同6年(1218年)に権大納言と順調に出世した。その一方で、鎌倉幕府の実力者とはいえ家柄からすれば遥かに格下の北条氏から妻を迎えるなど、武家政権との関係を強めていった。 その運命が急転するのは、承久3年(1221年)に発生した承久の変である。定通は直接的には関与しなかったものの、後鳥羽院政の関係者として失脚した上に甥の土御門上皇の流刑、更にはその妃である義妹・通子の病死など、定通はその政治的基盤を失ってしまった。 その後、北条氏との縁戚関係により復権して嘉禎2年(1236年)には内大臣となったものの、政治的な影響力は失われており、ただ宮廷的には忘れられた存在となった承明門院と邦仁王の後見人としての存在でしかなかった。そんな中で安貞元年(1227年)、定通が「殺生禁断」の地である洛南・吉祥院前の川でで家人達と鮎釣りを楽しんだことから、同院に所属する神人たちと乱闘になるという事件を起こした。関白・近衛家実が当時正二位大納言であった定通の責任を追及しようとしたところ、定通は当時の六波羅探題北条泰時(定通の義兄)が事情を知らずに同じ場所で釣りをした際には、神人達は武士である泰時を責めなかったのに、公卿である自分が責められるのは納得がいかないと反論し、『我もまた武士なり』と言って、逆に神人達の処断を迫ったという。この当時は実力で処断権を有する者を広く「武士」と称する用法があった事に加えて、承久の変後、武士に対して卑屈に成り下がった(定通自身も含めた)公家社会に対する痛烈な皮肉であると考えられている。 だが、仁治3年(1242年)四条天皇が急死すると、定通は密使を鎌倉に派遣して義理の兄に当たる執権・北条泰時に邦仁王の天皇擁立を働きかけた。泰時もこの提案に乗って東使安達義景を派遣して定通と図って邦仁王を新天皇(後嵯峨天皇)として即位させたのである。その後、後嵯峨天皇が親政を行ったこともあり、定通は官職には無かったものの、新天皇の後見人として権勢を振るって九条道家や二条良実と権勢を競った。一方、幕府とも強調して朝廷改革や顕徳院の諡号を後鳥羽院という追号に改めるなどの政策を進め、「末世の才卿」・「高才博覧の人」と評された。
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建保7年(1219年)従五位下に叙爵。承久3年(1221年)従五位上に叙せられるが、同年5月に後鳥羽上皇らが承久の乱に起こし、後鳥羽院政の関係者であった父・定通は失脚してしまう。また、顕定の従兄にあたる土御門上皇も土佐国に流され、土御門家は一時凋落する。 貞応3年(1224年)侍従に任ぜられ、嘉禄2年(1226年)正五位下に昇叙。嘉禄3年(1227年)右近衛少将を務め、安貞2年(1228年)従四位下・甲斐介に叙任。禁色を聴される。 寛喜2年(1230年)右近衛中将に転じ中宮権亮を兼ねた。寛喜4年(1232年)従四位上、貞永2年(1233年)正四位下・伊予権介に叙任され、嘉禎2年(1236年)には四条天皇の蔵人頭に補任される。嘉禎3年(1237年)従三位・参議に叙任され公卿に列し、嘉禎4年(1238年)さらに正三位・越前権守に叙任された。延応元年(1239年)右衛門督・検非違使別当を経て、権中納言に任官。仁治2年(1241年)には従二位に進み、帯剣を聴された。 仁治3年(1242年)正月9日、事故で四条天皇が頓逝すると、父・定通や北条泰時らによって邦仁王が擁立され、後嵯峨天皇として即位する。すると顕定は葉室資頼や藤原道嗣を差し置いて権大納言に抜擢される。さらに寛元元年(1243年)には正二位に叙せられて、藤原親俊,藤原為経,二条良教の位階を超えるなど、急速に昇進を始める。寛元4年(1246年)に後嵯峨天皇が院政を開始すると、院の執事別当に補任されるが、実権は父・定通が握っていた。 父・定通の死後、顕定は近衛大将への任官を希望する。自分の擁立者の嫡子の願いゆえ、後嵯峨上皇はこれを承諾するが、西園寺実氏が横槍を入れ、上皇は西園寺家は蔑ろにできないと思い、西園寺公基・公相兄弟を近衛大将に任官させた。除目の結果を聞いた顕定はこれを大いに恨んだ。建長7年(1255年)に入っても、正月1日の元日節会や、同7日の白馬節会、同16日の踏歌節会ではそれぞれ内弁を勤め仕り、2月26日には祈年穀奉幣の行事に参仕するなど、精力的に活動を行うが、4月13日に先の人事を憂えて突如高野山にて出家してしまった。 正嘉3年(1259年)、上皇は高野山に御幸を行った。関白・鷹司兼平や西園寺公相,洞院実雄,近衛基平など多くの公卿がこれに供奉し、都に残るものはほとんどいなかったという。この御幸のついで、顕定の庵室を訪ねて対面を望んだが、顕定は昨夜のうちにその庵室を搔き払い、既に人はいなかったため、上皇は「今更に見えじとなり。いとからい心かな」と侘言を発したという。 弘安6年8月12日(1283年9月4日)、69歳で薨去した。豊原信秋に習って笙をよくし、宝治2年12月25日(1249年1月10日)に行われた御遊などで笙を吹いている。
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