村上源氏

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堀川通具 堀川具実

 鎌倉時代前期の歌人。堀川大納言と称されて村上源氏堀川家の祖とされている。また、異母弟である道元の養父としても知られている(近年では通具を道元の実父とする説が有力)。藤原俊成の養女(俊成卿女)を妻としたが、後に離別している。だが、その後も俊成の息子である藤原定家とは親しく交際を続けていた(後に定家は通具死去の報を受けて深く悲しんだという)。
 主として後鳥羽院歌壇で活躍し、1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、同別当となる。『新古今和歌集』の撰者の一人に選ばれるが、父である源通親の代理という意味合いが強い。「千五百番歌合」などに出詠しているが、歌人としては後鳥羽上皇や親友・定家の評価はあまり高くなかった。勅撰和歌集の「新古今和歌集」に入集している。

 承元2年(1208年)従五位下に叙爵。建保2年(1214年)には安芸権介に任ぜられた。
 建保3年12月(1216年1月)左近衛少将に任ぜられる。以降も右近衛少将,右近衛中将,近江介に叙任された。承久3年(1221年)8月参議に任ぜられて公卿に列した。
 承久4年(1222年)従三位・加賀権守に叙任。貞応3年(1224年)正三位に叙せられ、嘉禄元年12月(1226年1月)権中納言に進む。嘉禄3年(1227年)左衛門督を兼ねて、安貞2年(1228年)従二位、貞永元年(1232年)正二位に昇叙。天福元年(1233年)皇后宮権大夫を兼ね、利子内親王に仕える。天福2年(1234年)には皇后宮大夫に転じ、翌年に検非違使別当・中納言を務めた。
 嘉禄3年(1237年)検非違使別当・左衛門督を辞任するが、権大納言に進んだ。仁治元年(1240年)大納言に転じ、建長元年12月(1250年1月)奨学院別当に補任される。建長2年(1250年)内大臣に任ぜられるが、6か月後に上表して辞任した。建長3年(1251年)所労により出家して岩倉別荘などで過ごす。文永4年(1267年)、後嵯峨上皇がこの岩倉別荘に茸山叡覧のために御幸を行っている。建治3年(1277年)4月26日に薨御。享年76。

堀川基具 堀川具守

 順調に昇進し、建長2年(1250年)従三位・参議に叙任されて公卿に列した。建長3年(1251年)讃岐権守を兼任し、ほどなく正三位に昇叙。
 建長4年(1252年)権中納言に任ぜられ、建長6年(1254年)従二位に昇叙。建長7年(1255年)左衛門督を兼ねて、正嘉2年(1258年)に正二位に進んだ。弘長元年(1261年)中納言次いで権大納言となる。文永8年(1271年)大納言に転じ、翌文永9年(1272年)淳和・奨学院別当に補任された。弘安6年12月(1284年1月)従一位に至る。
 基具は大臣になることのできる家格である清華家の出身で、さらに文永9年(1272年)8月より大納言の首席を占め、いつ大臣に昇任されてもおかしくない状況にあった。しかし、当時大臣には多く摂関家の子弟が任じられていたため、基具は長年大納言の地位に留まっていた。かかる状況にある基具を慰撫するために約300年ぶりに准大臣の待遇が復活。弘安7年(1284年)准大臣に任ぜられた。しかし現職の大臣とは認められず、現職者のみが参加できる儀式から排除されてしまい、基具は「存外之沙汰」と憤慨している。
 正応2年(1289年)晴れて太政大臣に任ぜられる。翌正応3年(1290年)に上表して太政大臣を辞任。永仁4年(1296年)出家して、永仁5年(1297年)5月10日に薨御した。享年66。

 建長2年(1250年)従五位下に叙爵。建長5年(1253年)従五位上に叙せられ、侍従に任ぜられる。建長7年(1255年)には禁色を聴され、建長8年(1256年)正五位下に昇叙。
 文永4年(1267年)従三位に叙せられて公卿に列し、文永6年(1269年)には参議に任ぜられた。文永7年(1270年)には正三位に進み、加賀権守を兼任。文永8年(1271年)には従二位に叙せられ、文永11年(1274年)に権中納言に昇任した。建治元年(1275年)熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子に伴い春宮権大夫を兼ね、さらに左衛門督を兼帯した。
 建治4年(1278年)に正二位に昇叙。弘安7年(1284年)に権大納言に昇任され、帯剣を聴された。正応元年(1288年)淳和・奨学院別当に補任され、正応3年(1290年)に大納言に転じた。永仁3年12月(1296年2月)に大納言を辞退するが、永仁6年(1298年)に還任、永仁7年(1299年)従一位に至った。

 

 嘉元4年(1306年)村上源氏堀川家から初めて右近衛大将に任ぜられる。延慶2年(1309年)左近衛大将に転じ、正和2年12月(1314年1月)に内大臣に任ぜられた。しかし翌年これを辞任して、正和5年(1316年)正月19日に病のため出家。法名を覚乗とするが、即日薨じた。享年68。『徒然草』の作者である吉田兼好は具守の家司であったという。 

堀川具親 堀川基子

 堀川家最後の近衛大将。具親は養父である具守に続いて村上源氏堀川家では2人目の近衛大将である。しかし同時に堀川家では具親以後に近衛大将に任ぜられる者は出なかったため、具親は堀川家最後の近衛大将となった。 
 具親の養父・具守は娘基子(西華門院)が後二条天皇の生母となったため、後二条天皇の外祖父である。しかし、後醍醐天皇は後二条天皇の系統に皇位を伝える意思をもっていた後宇多天皇に反する意思を持っていたとされる。さらに持明院統による北朝政権下では大覚寺統の外戚であった堀川家は微妙な立場にあったと考えられる。具親の息男たちが次々と若年で死去したこともあり、堀川家の家運は下降線をたどることになる。

 後宇多天皇の宮人で、後二条天皇の生母。准三后。院号は西華門院。法名は清浄法。父は内大臣堀川具守。
 弘安8年(1285年)に邦治親王(後の後二条天皇)を生む。しかし、太政大臣の孫という生まれながらも処遇には恵まれず、『増鏡』によれば、永仁6年(1298年)の邦治親王立太子後も、正安3年(1301年)の即位後も叙位がなく、基子が従三位に叙せられたのは徳治3年(1308年)8月に後二条天皇が亡くなって出家して後、同じ年(元号は延慶に改元後)の11月27日であった。更に同年1月2日に准三宮・院号宣下がなされて、西華門院と称した。正平10年/文和4年(1355年)、87歳で死去。

道元

 鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。
 出生には不明の点が多いが、内大臣・土御門通親の嫡流に生まれたとする点では諸説が一致している。定説では京都木幡の松殿山荘で通親と太政大臣松殿基房(藤原基房)の娘伊子の子として生まれたとされているが、近年の研究では養父とされている堀川通具の実子とする説が有力になりつつある。伝記『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。他には、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったという説もあり、逸話として「誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」とある。
 徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。主著『正法眼蔵』はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を集めた。
 浄土真宗の開祖・親鸞とは、互いに母方の縁戚にあたり面識があったとする説があるが確証はない。『正法眼蔵』の「生死」の巻は、親鸞に向けて書かれたものであるとする説がある。